2009年12月17日木曜日

ドイツのムスリム文化センター

最近、ヨーロッパにおけるムスリムのテーマを追っていますが、八幡さんから昨日の記事に以下コメントをもらいました。11月7日、ケルンでムスリム文化センターとモスク建設の定礎式が行われ、ケルン市だけでなくトルコの外務省関係者など多数の人達が祝辞を述べました。信仰の自由を強調しています。この約3週間後、スイスでミナレット禁止の国民投票が実施されました。


スイスのミナレット禁止がヨーロッパからアラビア世界まで揺るがしていますが、つい先日、11月7日には、ケルン市のエーレンフェルド地区で、ムスリム文化センターとそれに付属するモスクが建設されることになり、定礎式が行われました。

今年の4月頃からケルンの住民のヒアリングとディスカッションがおこなわれ、その結果決まったことだそうです。

http://www.zentralmoschee-koeln.de/

ケルンから少しはなれているデュッセルドルフには, ドイツ最大の El-Muhaxhirin Moschee - Dusseldorf があり、市内のモスクのかずは20にたっしています。


ライン河に臨む両商業都市は、ローマ帝国時代から金銀・ガラス・繊維品・香料など、遠隔地貿易の中心地であり、ローマ帝国のころから、各地の商人や職人が住み着いていた都市でしたから、国際結婚も多く、アルプス地方に較べると遥かに開かれた、多文化的な独立都市でした。同じドイツ語圏の所謂ドイツ人にも、地方毎の歴史の違いがいまに至るまで影響を及ぼしていることが、そこに暮らしてみるとよく判ります。

今回のスイスの国民投票は、何よりもスイスそのものにとって重大な損失を意味していると思います。イスラム教徒はスイスから預金をよそに移すべきだという議論もありますが、EUに加盟したいと何度も試みてきた連邦政府や、多くの知識階級の願望にたいして、国民の多数が、スイスのEU加盟の非適格性を実証してしまったのではないでしょうか。

EU加盟の条件のひとつは、欧州人権条約に署名する事ですが、スイスはこれをあらかじめ果たしているわけです。すると、宗教生活と表現の自由という普遍的なヨーロッパ的価値観を否定するような国民投票の結果が出れば、まさに、トルコのEU加盟が問題となっているのと同じ、基本的人権の価値の共有が問題視されることになります。スイスは十分にヨーロッパ的ではないとされる可能性がありますし、ストラスブールの欧州人権裁判所も、今回のスイス国民の意思表示が、EUの根本的原理に適合しているとは判断しないでしょうし、欧州理事会も、スイスの投票結果を容認することは出来ないでしょう。

国民投票の結果についてよく言われるのが、イスラム諸国でキリスト教徒マイノリティが受けている権利制限、あるいはあからさまな差別に対するし返し、つまり、目には目を、歯には歯を、だという意見がありますが、それでは、スイスは、12世紀に、世俗の学問を封鎖し、イスラム神学だけを知的な活動としてみとめ、その結果、そのころまでは、イスラム世界よりも文化的・学問的に低いレベルにあったキリスト教ヨーロッパ世界が、イスラム世界から学び取った、特にアリストテレス哲学の影響で、スコラ学に見られる理性主義の思想を発展させ、それがルネサンス期からの自然科学の発達、それに続く啓蒙思想の発達によってヨーロッパが形成してきた、宗教と国家の新しい関係から滑り落ち、啓蒙思想を形成することが無かったイスラムと同じような、『啓蒙以前』の状態に戻ってしまったことを内外に表明する結果となります。

スイスとしては、譬えキリスト教徒がイスラム世界で抑圧され、自由を制限されていても、イスラム教徒はヨーロッパでは宗教上の自由を享受できるのだという、moral superiority (道徳的優位性) を明確にして見せる絶好のチャンスを失った事になり、これはスイスにとって取り返しのつかない大きな損失です。

スイスはこれまでムスリムとのコンフリクトが表立って見えなかった国で、フランスやドイツと事情を異にしてきました。そこで、ムスリムの活動を制限する動きがでたわけです。しかし、これはコンフリクトが表立っていなかったが故に、あまりにストレートな意見が出てしまったとも考えられます。21世紀は道徳的優位性がより「効く」時代であるはずが、スイスは逆の面を見せてしまったわけです。スイスだけでなく、他の国でもミナレット禁止に同調している動きがある以上、この問題の関連ニュースを更に追っていきます。

2009年12月15日火曜日

オランダの二重国籍/スイスのムスリム

オランダは多文化主義のもとで、外国籍の議員の導入などを積極的に行ってきた国だ。しかし、現在、オランダで二重国籍は許されない。しかし、二重国籍が相変わらず多いとのニュースがある。

http://www.nrc.nl/international/article2438092.ece/Over_1.1_million_Dutch_people_have_two_nationalities

1.1百万人が該当する。人口16百万人だから6-7%が二重国籍だ。1997年、オランダ国籍をもつ際、オリジナルの国籍の放棄を求める法律が通過。が、モロッコなどでは国籍放棄自身が許されないし、トルコなどでは遺産相続上の問題から、国籍をそのまま維持することになっている。両親の片親がオランダ国籍であれば、子供は自動的に二重国籍になるが、18歳にはどちらかの選択が必要とされるという。

ヨーロッパで二重国籍はわりと一般的であると思われがちであるが、その数はなかなか把握し切れていないのが実態ではないか。こういうニュースがある一方で、イスラム教寺院の尖塔建設禁止のスイス国民投票から2週間を経て、以下のニュースがある。

http://www.swissinfo.ch/eng/index.html?cid=7899186

ムスリムの一元的組織を設立するかどうかについて、ムスリム内で賛否両論がある。今、ムスリムが一体となることが、それも目に見える形で主張することが本当に優先事項なのか?ということである。この記事のなかに、「ムスリムもクリスチャンや仏教徒と同じように権利をもちたい」という意見があるが、仏教徒は目に見える主張を何かしているのだろうか・・・・そこは不勉強のぼくには不明。

ヨーロッパのおける移民やイスラムとの共生の問題は各国で、ある一点、いわば沸騰点に近くなっている様子を感じる。小さな微妙な判断の集積が、ある時点で視覚化される。

ヨーロッパ関連の本のレビュー(2)

前回に引き続きブックレビューのリスト。新書が中心。あまり溜め込むより、小出しにしていこう。ぼくの本の読み方は、以下に書いてあるが、僕にしか役に立たないレビューかもしれないのでご注意を!

http://milano.metrocs.jp/archives/2512

前回と今回のリストで、現在のヨーロッパの全体的リアリティを描こうという気力に溢れているのは、岡田温司、三島憲一、内藤正典、庄司克宏あたりの本ではないか。

三島憲一『現代ドイツー統一後の知的軌跡』
http://milano.metrocs.jp/archives/2575

脇阪紀行『大欧州の時代ーブリュッセルからの報告』
http://milano.metrocs.jp/archives/2560

内藤正典『ヨーロッパとイスラム 共生は可能か』
http://milano.metrocs.jp/archives/2518

平林博『フランスに学ぶ国家ブランド』
http://milano.metrocs.jp/archives/2506

2009年12月14日月曜日

ミラノサローネについて書くこと

ミラノサローネについてブログに先日から書き始めた。今日は2回目。3年目になる。

http://milano.metrocs.jp/archives/2569

ぼくは色やカタチの傾向を表層的に追うのではなく、その先にある全体的な考え方のトレンドを追っている。それは単なる好奇心も働いているが、さまざまなチャンネルに流れるさまざまな兆候を見ながら、その全体をみるのが自分のビジネス上の役割であると考えるからだ。

そこにあって、ミラノサローネというのは、実に適当な観察対象になると思う。何しろ、目に見えるものをだいたいが相手にしている。ヨーロッパのおよその平均とイタリアがどう差があるのか、それらと日本のそれはどう違うのか、これらが比較的分かりやすい形で提示されている。

そして、生活雑貨や家具がメイン。ライフスタイルが反映されやすく、かといってファッションほどに回転が速くない。毎年、家具を買い換える人はあまりいないが、何らかの変化が何割かは見えてくる。だから、今年も書いていこうと思い至った。

2009年12月12日土曜日

ダブリンーチューリッヒーミラノ

「さまざまなデザイン」に今週アイルランドに滞在して感じたことを書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/2551

あそこでいつも思うのは、EUとアメリカの近さだ。リスボン条約の批准がアイルランドの国民投票の結果もあって時間がかかったが、ブラッセルの動きに敏感な国だと思う。やはりアメリカと近い隣の国がまだポンドから離れないのと対照的。その頑固でない部分で、アメリカの影響力を上手く使っているのがアイルランドともいえるだろう。ある調査によれば、自国にプライドがあると回答するのは、ポーランドとアイルランドが(ヨーロッパのなかで)高いというが、両国とも近隣の大国に長い間振り回されてきたという歴史がある。

先週でかけたスイスも、大国に挟まれている小国だが、アイルランドとは違いEUにも入らない。しかし、便宜上はEUとの壁を随分と低くしてきている。スイスとアイルランドの違いは、大陸特有の多言語圏がもつ「国際性」と英語圏でありながらマージナルであるところからくる「国際性」であろうか。アイルランドが、スイスのようにEUに入らないで独自路線を築くというのは考えにくい。文化的伝統は維持しながら、ヨーロッパに意図的に近寄っていないといけないのがアイルランドだ。

イタリアはヨーロッパのなかの大国である。ローマ条約に象徴されるように、新しいヨーロッパの形成に貢献してきた。しかし、大国のなかでは、若干マージナルな扱いをされやすい。そこで、「ある頑張り」と独自性がより要求される。ローマ帝国以来の歴史と文化が重要なブランドであるが、そこに胡坐をかいていればよいということでは当然ない。どちらかといえば、南ヨーロッパ文化が北ヨーロッパの退屈さに風穴を開けることに意味があるかもしれない。

この三カ国の組み合わせをキープすると、結構、従来にない形のヨーロッパを示すことができるのではないかーもちろん、どんな国の組み合わせでも可能なのだがーと考え始めている。

2009年12月9日水曜日

スウェーデンの外国人労働力

スウェーデンで外国人や外国の大学を卒業した人達が、スウェーデン国内の就職で苦労しているという記事がある。

http://www.thelocal.se/23732/20091208/

人種差別ではないとか、言葉の問題でもないとか、いわば暗黙知の問題ではないかとか、コメント欄も含めて賑わっている。あるいは、ドイツ人のようにはっきり差別するのではなく、そうとうの時間をかけないとスウェーデン人の差別意識には気づかないという意見も書かれている。

どこの国にもある問題であるといえばそうだろう。しかし、こんなにも差別ではないといいながら、実質的に差があることに対し、社会とはこういうものだという言い方を気楽に言えない、社会的特質がスウェーデンにはあるのではないかということは推測がつく。

どこか無理があるまいか・・・・?

2009年12月2日水曜日

ヨーロッパ関連の本のレビュー(1)

「さまざまなデザイン」に書いている本のレビューがたまってきたので、その中からヨーロッパ関連だけを拾って、ここにリンクを張っておく。また、冊数がたまってきたら、ここにリンクを用意しておく。


庄司克宏『欧州連合 統治の論理とゆくえ』
http://milano.metrocs.jp/archives/2466

J=P/ジュヴェヌマン/樋口陽一/三浦信考『<共和国>はグローバル化を超えられるか』
http://milano.metrocs.jp/archives/2418

ジャック・ル・ゴフ『子供たちに語るヨーロッパ史』
http://milano.metrocs.jp/archives/2343

林景一『アイルランドを知れば日本が分かる』
http://milano.metrocs.jp/archives/2274 

武田龍夫『北欧の歴史 モデル国家の生成』
http://milano.metrocs.jp/archives/2032 

小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』
http://milano.metrocs.jp/archives/1991

岡田温司『イタリア現代思想の招待』
http://milano.metrocs.jp/archives/1983 

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』
http://milano.metrocs.jp/archives/1841 

フェルナン・ブローデル『地中海世界』
http://milano.metrocs.jp/archives/1780

木村尚三郎『ヨーロッパ思索紀行』
http://milano.metrocs.jp/archives/1772

ファビオ・ランベッリ『イタリア的』
http://milano.metrocs.jp/archives/1759

福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』
http://milano.metrocs.jp/archives/1751

2009年11月30日月曜日

イスラム教寺院の塔に関する国民投票(スイス)

昨日、スイスでの国民投票で、イスラム教寺院の塔の建設を禁じる法案に対して、賛成が57.5%となった。これはヨーロッパのあり方を示唆する重要な事件だ。いくつかのオンラインから記事を拾ってみた。

スイスは2割が外国人でイスラムは40万人。この結果に対する世界の反撥ー商品ボイコット等ーをスイス自身が恐れている。世俗化が進んでいるスイスであるが、それは今まで目に見えない異教を許容し、見える異教を排除するということなのか?政府はNOのキャンペーンをはったにもかかわらず、この結果だ。YESは26州のうち22州で、NOはフランス語圏が中心。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/The_minaret_ban_hits_the_headlines.html?siteSect=105&sid=11558450&cKey=1259570958000&ty=st

このニュースに勢いづく人達がいる。イタリアの右派政党では、「スイス人も異教の移民には疲れ果てたのだ。我々もスイスから学ぶべき」という声が出ている。

http://www.corriere.it/politica/09_novembre_29/castelli_croce_bandiera_italiana_e48bb956-dd17-11de-8223-00144f02aabc.shtml

しかし、スイスには4つの塔しかなく、一つは5千人の村にある塔だ。イスラムはドイツやフランスのような社会的な目に見える問題になっておらず、モスクがありスカーフを被った女性がいても、それらは目立つことはなかった。それでも、こうなった。法案YESのキャンペーンは、塔についてはさして語らず、イスラム教自身を語り、ポスターもイスラムの脅威を強調する形であった。リビアのガダフィの息子の逮捕の報復で、スイス市民がリビアでおさえられた問題もあるが、異教に関する漠然として不安が、YESに票を投じたとみるべきという。

ポイントは、中立を旗印とし、赤十字や国連などの活動を国家イメージのバックボーンとしてきたスイスが、自ら信教の自由や表現の自由に制限を加えていることによる、ヨーロッパ的価値へのマイナス点だ。

http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,664176,00.html


こうしたなかで、政府は従来のように信仰の自由を守ると盛んに言っている。

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6936802.ece


EU議長国であるスウェーデンの外務大臣は、これは偏見の結果であると言いながら、ネガティブなシグナルであると認識。しかし、通常、このような建設問題は都市計画局の判断に任すものであり、国民投票にかけること自身が奇妙だと指摘。

http://www.thelocal.se/23562/20091130/


コンテンポラリーアートは特別に難しいのか?

今日、「エコノミスト」のアート市場に関する記事を読んでいて、オークションによるアート市場が極めて偏っていて、これがどれだけ全体を表現しているのだろうかと考えた。2008年のコレクター市場が、米国35.7%、英国34.5%、中国7.7%、フランス6%、イタリア2.8%、ドイツ2.5%、スイス1.5%と続く。その他にはロシアや中東諸国が入るのだろうが、ドイツがイタリアの下に位置しているのは意外だった。それにしても、米国と英国で約70%というのは、かなり異常な数字ではないか。

上記の記事で、コンテンポラリーアートに関心が集まり始めていることは指摘している。そこで、最近、日経BPオンラインで読んだ記事を思い出した。「現代美術、難解だから売れないのか、売れないから難解なのか」というタイトル。

美術品全体で見ると、この分野には2つの市場がある。1つは「プライマリー市場」。これは作家が作ったばかりの作品にギャラリーが値段をつけて売る、最初の売買市場である。2つ目に、それが転売される市場があり、これを「セカンダリー市場」という。

両方あわせた日本の美術市場規模は1000億円といわれる(Art Trendy.net調べ)。国内オークション、交換会、百貨店美術部、美術商の取引 の合計である。このうち現代美術は約1割、約100億円程度と見込まれるが、これは世界の美術取引市場のわずか1~2%程度でしかない。

日本市場が小さいのは、エコノミストのデータにも出ているので、多分、およその傾向としてこうなのだろう。この引用した記事はこうデータをひいた後、コンテンポラリーアートの比率が特に低い理由を下のように説明している。

傾向としては海外のコレクターは好んで現代美術を買う。リスクは大きいが、値上がり益も見込めるからだ。これに対して日本のコレクター、特に公立美術館は保守的だ。リスクを避けて現代美術よりも近代作品を購入しがちだ。
今のところ日本の現代美術の市場は海外に比べると極端に小さい。いずれ追いつくと見ていいのか。どうもそうではないようだ。

ある画廊経営者はこう言う。「欧米では学校の行事で現代美術館によく行く。だから抵抗感が少ない。日本人は学校では近代作品しか学ばない」

あたりまえのことではあるが、人は作品の価値を十分に理解しないと作品を買わない。見て美しい、感動するというだけではだめだ。特に現代美術の場合は作品が生まれた背景や様式などの理解、つまりリテラシーが必要になる。

問題は一番最後の段落だ。「特に現代美術の場合は作品が生まれた背景や様式などの理解、つまりリテラシーが必要になる」の部分。学校で近代作品は学んでいると明記しており、そのため日本でも近代作品のリテラシーはあり、市場が成立していると言っている。別に自然な環境で近代作品を学んだわけでもないとするなら、どうして、現代美術に対して奇妙な説明を加えるのか? なんとも意味不明としかいい様がない。ここには言葉によってアートを説明することに対する嫌悪感が漂っている気がする。

2009年11月27日金曜日

成功商品事例を集める

二つの文化の企業の間にたって仕事をしていてよく目にすることは、片方の企業が「ここだけ変化すれば何とかなるはずだ」と考えれば、もう一方は「そこだけ変えただけでは、変えたことにならない。全体から変える必要がある」と主張しがちであるということです。それは日本の企業がこうだ、ヨーロッパの企業がこうだではなく、いずれにせよ違う文化が相対せば、そのようになるのがかなり必然であるという意味です。

そこをあまりしつこく主張すると、「そんなこと言ったって、これが自分たちの文化なんだから仕方ないだろう!」と開き直ります。それはそうです。それで上手くといわないでも、それなりに回っていれば、そこまで変える動機がありません。よって危機的状況に陥ったときに、目を覚まさないといけなくなる。

ブランドに対する認識は、このように日本のモノがヨーロッパで存在感を失ってきて初めて分かり始める時期ではないかという気がします。「自分たちの製品モデルは、ヨーロッパと比較して圧倒的に多いので、ヨーロッパメーカーのようには綺麗におさまらない。しかし、このバラバラな感じが日本的で良いのだ」と弁解を重ねてきた人達も、実は、「ブランド構築ができていなかったから、その場その場で対応する羽目になり、結果的にバラバラになったのだ」というロジックを十分に理解していなかった。が、そろそろ、それが分かってくる頃ではないかと思います。クルマメーカーなど、この代表例です。

日本はディテールから出発し、西洋は全体のコンセプトからはじめる。それが江戸時代の大名屋敷とフランスの城の外観に表現されるわけですが、それがブランド力という面でみたとき、ヨーロッパ市場でマイナスに作用している現実を直視しないといけないでしょう。サムスンやLGのような韓国メーカーが、大量の携帯電話モデルを作っており、それは実情として一見日本メーカーと同じように見えるかもしれません。しかし、「まとめ方」でマシな方法をとったがゆえに、違ったブランドイメージを確立できたといえそうです。

今、ぼくは文化を理解することで商品が売れた実例を集めようと考えています。キッコーマンの醤油などもそうでしょう。コカコーラもそうだと思います。でも、なるべく今まで事例として挙がってこなかったモノやサービスで、文化理解の重要性を知ってもらいたいと思います。そこにリアリティがあるだろう、と。



2009年11月25日水曜日

思想表現・伝達の論理

八幡さんより以下フィードバックをいただきましたので掲載します。語りつくすべき重要さを書かれています。

<ここから>
今月23日付けの『ヨーロッパ文化部ノート」の以下の書き込みを拝見しました。

彼らがよく喋るのは、「自社のブランドとは考え方であり、それをあらゆるアングルから伝達することによって相手に痕跡を残すことが重要なんだ」という思考が強いからだと再認識しました。

単一のメディアだけでは世の中に浸透しきれない時代になってきたという認識がもちろんありますが、そのことに対する危機意識が日本より強いのが、ヨーロッパの政治家であり企業なのでしょう。なぜなら、考え方を伝えるには、多面的でなくてはならず、その考え方に接する時間を受け手により持ってもらうことが大事だからです。視覚的に分かるもので自然な理解を求めるという手法は、「伝えるのは考え方である」という認識がないからでしょう。

池上英子さんの、『美と礼節の絆』は、米国の社会学、あるいは歴史学関係の年間最優秀賞を、計五つも受賞した作品ですが、日本の関連方面の専門家からは、真っ向正面からこれを取り上げた反応がいまだに見られないのはいささかフシギです。

この作品にはいくつもの特徴がありますが、その中の一つは、まさに、多方面から、手を変え品を替え、さまざまなヴァリエーションで、作者の頭の中にあるターゲットにむけて読者の説得する、日本的なこの手の著作としては、非常にこまやかな、かゆいところに手の届くようなステートメントとその多才な説明の仕方にあるといえるでしょう。

一つのアイデアを説明するのに、読者の意表をつくような、常識の向こう側から着想された具体例を幾つも提示し、それを、時にはユーモアを交え、皮肉を織り交ぜた言葉を紡ぎ合わせて、そのアイデアの位相や理論的な機能を描写して見せる、そのことによって、読者に彼女のアイデアを具体的な背景の中において想像させ、理解させてしまう表現方法です。

やはり、相当のエネルギーを注入して言語表現の組み上げに努力していることが伝わってきて、これこそ、アメリカやイギリスの社会学者のよくかけた作品に見られる特徴だな、と想いました。

池上さんの場合、使っているのは「書かれた言語」という一つのメディアではありますが、その使い方の多方面で多彩なこと、安西さんがイタリアのデザイナーとの会話で経験されることと、彼女の『思想表現・伝達の論理』は同根であるという感じがします。

2009年11月23日月曜日

どうして沢山のメディアを使うか?

先週、イタリアのデザイン商品を扱うメーカーを何社か回っていて、今更ながらにつくづく思ったことがあります。彼らがよく喋るのは、「自社のブランドとは考え方であり、それをあらゆるアングルから伝達することによって相手に痕跡を残すことが重要なんだ」という思考が強いからだと再認識しました。その様子を「さまざまなデザイン」(下記)に4回にわけて書きました。痕跡の集積がブランドなのです。

http://milano.metrocs.jp/archives/2364

いわゆるPRだけでなく、ポスター製作などの仕事をコミュニケーションと呼びますが、それがどうしてそう分類されるかは、基本的に「ブランドとは考え方である」という定義が根付いているからだといえます。先月、八幡さんと話した内容を「長期戦は思想の確立で勝つ」というタイトルで書きましたが、先週の出張で思ったことは、以下の内容に直接リンクします。

http://milano.metrocs.jp/archives/2281

だから、沢山話さないといけないのです。だから、政治家や企業トップもブログやFacebook あるいはTwitterなどあらゆるメディアを駆使するモチベーションが高くなるのです。単一のメディアだけでは世の中に浸透しきれない時代になってきたという認識がもちろんありますが、そのことに対する危機意識が日本より強いのが、ヨーロッパの政治家であり企業なのでしょう。なぜなら、考え方を伝えるには、多面的でなくてはならず、その考え方に接する時間を受け手により持ってもらうことが大事だからです。視覚的に分かるもので自然な理解を求めるという手法は、「伝えるのは考え方である」という認識がないからでしょう。

この観点から対ヨーロッパビジネス戦略をみたとき、何が不足しているかが自ずと見えてくる日系企業は多いのではないか・・・と想像します。

2009年11月15日日曜日

結構売れているヨーロッパ史の本

ジャック・ル・ゴフの『子どもたちに語るヨーロッパ史』について、「さまざまなデザイン」に書いたのですが、アマゾンでの売り上げランクをみてちょっと驚きました。一回目見たときは200番台、二回目で3000番台でした。今年の9月に発売されたヨーロッパ関係の本としては意外です。塩野七生のイタリア関係を別にすれば、最近、売れないと言われるヨーロッパの本も売れるものは売れるのか、と。それも、特に前半の通史で目新しいところはありません。中世への切り込みに新鮮さを感じたとすれば、それはアナール学派ならではの日常世界の心性で引っ張ったとしか考えれません。

また、随分と重版が続いている松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』と同じように、実は大人を対象としながらも子供がメインの相手であるかのように装う方法が、敷居の下げ方の定番としていいのかとも思います。とするならば、敷居さえ下げれば関心がひけるということは、ヨーロッパの心理的距離感の問題ーヨーロッパは面倒で遠いーは、実につまらないところで躓いていると言えまいか、ということになります。いや、塩野本はそこまで敷居を下げているわけではないですから、これは一体何が障害なのだろうと疑問を呈さざるを得ません。

それなりのマーケットはあるということなのでしょう。日本の工芸品が売れ、パリにブランドの洋服を買いにくるより、日本国内の温泉にでかける方がまったりとできてよいーパリでブランド品を買い捲っていた、あの林真理子でさえーという傾向が強くあったとしても、イタリアオペラや北欧デザインである程度の人が集まるように、一定の層は相変わらずヨーロッパに目が向いています。問題は、この関心の活かし方ではないか?と考えます。あるいはコアグループの力の集結度なのかもしれません。

かつてのようにヨーロッパに関心を集中させるべきというのではなく、文化多元化の現況においての分散化は決して悪いわけではありません。考えるべきなのは、分散化への認識とヨーロッパの影響力の適正評価ではないかと思います。

2009年11月12日木曜日

ヨーロッパのナショナリズム

先週書いた「相手にすべき対象はもっと大きいかもしれない」に、八幡さんがコメントをくれました。ぼくが「もっと大きいかもしれない」と書いたのは、文化を語ることがビジネスの枠外に出るかもしれないということなのですが、相手の姿が曖昧ではいけないので、ビジネス枠でそれ以外をどれだけカバーできる話しになるだろうかということでもあります。下記の八幡さんのコメントは、そのようなぼくの「思考の途中」をピタリとあててくれたような爽快さがあります。

来年の大学院の講座では,「ヨーロッパのナショナリズムと,統合EUの未来」という事にしました,ナショナリズムの本で大ベストセラーになったベネディクト・アンダーソンのImagined Community は,フランスあるいはアメリカのような,demotic (territorial) nationalism にはあてはまっても、中央ヨーロッパ、ドイツや旧オーストリア国支配地でのnationstate bilding,例えばコソボなどの現象を説明できません。

もっとも、demotic nationalism とethnic nationalism の区別をたてたのは、E.K. Francis (cf, Interethnic Relations, Elsevier, 1975) です。demotic nationalism の場合、或るテリトリー上で暮らしている人々全体を新国家〈nation state) の国民であると規定してしまうのですが、ethnic nationalism の場合は、建設されるべき新国家の国民である資格を有する民族的由来、歴史とその文化的性格の如何によって、どの民族集団が、新国家のメンバーであるかを決めることになります。

ナショナリズム革命以前に、すでに国家の範囲が明白になっていて、アンシャンレジームの中央政権をひっくり返せば、それで新しいnation state が成立したフランス、アメリカがこれです。しかし、フランス革命の年に、1789個の主権国家が存在していたドイツ語圏では、旧政権の転覆で革命を成功させるのはテクニカルな理由で不可能でした。したがって、さまざまな国に分かれて生きていたドイツ人を、その言葉、文化、歴史に目覚めさせ、ドイツ文化という共通意識を醸成させてから、それを新国家樹立の基礎にする方策がとられ、これが東ヨーロッパからバルカン半島にまで広がった、ドイツ発のnation state 建設のモデルになりました。

こういうことが、今でも、『文化』のそれぞれの国民での捉え方の違い、文化が入っている大枠の違いになるのではないかと思います。どのくらい続くか判りませんが、それぞれの国内に抱え込んでしまったムスリム民族に対する、例えばフランスとドイツのアプローチには、違いが見られます。経済的、政治的、社会的現象と一応無関係に、仏教がヨーロッパのそれぞれの地域でどのように見られ、扱われているか、面白いところですが、情報をあまり持っておりません。

2009年11月11日水曜日

日本の文化産業を考える

昨日、「さまざまなデザイン」に「アニメや漫画で何を伝えたいのか?」を書きました。アニメや漫画というジャンルを語るにしても、この表現形式が何を伝えるのに適しているのか?という論議なしに、「日本の文化産業としてどうにかしろ」という方向に向き勝ちではないかと思ったからです。

先日も、東京で会った出版社の漫画担当の編集者が、「マンガ雑誌も単行本もメタメタですよ」と自嘲気味に市場の下降線を嘆いていました。一時、何でも漫画化されました。外務省の仕事も漫画で解説することで敷居を低くしようとしました。しかし、ぼくが思うに、しかるべき内容は漫画では伝えきれないし、だいたい、漫画という表現形式は難しいことを簡単に説明できる魔術ではないと思うのです。言葉の表現スペースが少ない分、逆により分かりにくい説明を余儀なくされることもあります。絵が言葉で伝えきれない部分を全てカバーするとはありえないのです。

しかし、何か漫画のほうが「文章より説明力に勝る」という思い込みが強くできたように感じます。ここにアニメや漫画の優位性を見すぎたため、海外市場が増えてきたとき、戦略のたて方を間違えた(もちろん、戦略などなかったというのが、多くの意見でしょうが・・・)一つの要因があったように思えます。特に、「難しいことは、如何に噛み砕いても、そのレベルを維持しながら説明する」という文化が強いヨーロッパにおいて、上述の思い込みは空振りを招く結果を促したと言えまいかと考えるのです。

今日の日経ビジネスオンラインに「アニメは次の成長モデルを作れるか?」という記事がありました。

社会が成熟する中で、これから重要な役割を担うのがアニメ、ゲーム、日本映画、クラシック音楽などの分野だ。これをビジネスととらえるならば、「文化産業 (クリエーティブ産業)」と名づけることができる。製造業が弱体化する中で、こうした産業は日本の次の成長の糧の1つとして期待される。

文化産業自体は昔から存在する。だがきちんと利益をあげる事業形態、つまりビジネスモデルの構築に成功したものは少ない。映像、アニメなど芸術文化のビジネスモデルは、まだ完成度が低い。こうしたビジネスでいかにモデルを構築していくのか。まず、アニメから考察していく。

上記が主旨ですが、この表現形式は何を伝えるのに優れるのか?という分析がされるかどうか、そこにぼくは注目してみたいです。

オリーブの実に種は必要か?

ちょっと意外なタイトルかもしれません。「味から語る文化」で七味オイルのことを書きましたが、実は今、七味オイル味のオリーブのテスト販売も手がけていて、近々、本格販売します。上記にリンクしたYouTubeのPRビデオをみれば分かりますが、オリーブを石で叩き割って種を出すシーンがあります。これを入れたのは、日本で「オリーブは丸いほうが美しいから、種ありがいい」という意見が複数あったからです。

これにたいして、味のローカリゼーションは積極的に行うが、南イタリアの伝統的オリーブの食べ方そのものをローカライズする必要はないだろうと考え、あえてその方法をデモで示したわけです。肝心なのは、伝統的なレシピをローカライズ(ペペロンチーノを七味に代えた)することで、形状を変えることではない、と。およそ種がないほうが味が均一に広がるし、一度口に入れたものを人前で外に出すという躊躇を排除することができます。「美味しくて食べやすい」ことを優先すべきだと考えたのです。




「種あり」の意見で気になったのは、そこに売る側の論理が潜んでいることでした。バーのカウンターで出したとき、「見栄えがよくて金がとれる」というのは、食べる側の論理ではありません。そういう論理にしたがってはいけないとも思いました。あくまでもユーザーのロジックが味方しないといけません。そして、もう一つ、伝統的な南イタリアの食べ方を知って「種なし」を主張しているとは思えないところが、ひっかかりました。

そうしているうちに、この「種あり」「種なし」には、世代ギャップが反映されていることにも気づきました。「なし」を支持するほうが「あり」より世代が若いのです。全てではないですが、傾向として「あり」に拘るほうが年齢が上ではないかという風景がおぼろげに見えてきました。このオリーブは酒のつまみとして、若い人達が多いワインバーで売ることがマーケティングのコンセプトとしてあるので、「あり」に固執するロジックに振り回されてはいけないと判断しました。




スーパーマーケットのオリーブの棚に行くと分かりますが、多くは瓶詰めで種ありが並んでいます。我々は瓶詰めをやめました。保存食的な連想を断ち切り、酒のつまみとして一晩に食べきるというスタイルの変更を促すのが大事だと考えました。よって真空パックとしました。イタリアの青空市場で量り売りで販売されるオリーブの世界のカジュアルさに近い方を選んだのです。

まだまだ詰めるべき点はあるでしょう。しかし、イタリア文化のどこを尊重し、どこを日本のユーザーにマッチさせるか、この基本を設定したうえは、できるだけそれをキープしたいと考えています。文化を維持するのは大事。しかし、それに振り回され過ぎてもいけない。その落としどころにロジックがないといけないと思います。先日、ある名の知れたシェフに「やはり、美味しくて食べやすいのが一番でしょう。だから種なしがいいと思いますよ」と言われたとき、ユーザー文化を尊重しておいて良かったと感じました。

2009年11月9日月曜日

相手にすべき対象はもっと大きいかもしれない

昨晩、ミラノに戻りました。今日のミラノは雨です。そこで二本のブログを「さまざまなデザイン」に書きました。今週読んだ本を二冊とりあげました。管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』です。趣向の全く違う読書案内ですが、結局、人は分かるところまでしか分からず、分からない地平を分からないとどう自覚するかにかかっているというのが、二つの本に関する共通点です。あるいは真空地帯で見知らぬ吸入口に惑わされないための力をもっていないといけない、というのも両者に通じる内容でしょう。

一昨日、明治大学で宮下芳明さんの講演会『「面白さ」の計算科学:エンターテイメントコンピューティング~その誤解と真実』で、コンピューターは100%の完全性をもっていないことを前提に、インターフェースが設計されないといけないという指摘がありました。これはぼくも同じ認識をもっているので、「そうか、時代の方向はこちらと考えていいのだな」と思いました。ただ、こういう分野は、往々にして「方向さえ合っていれば」が端緒であり全てであることがあるので、その矢印の及ぶ範囲の目測を誤ってはいけません。真空地帯の見極めです。

「文化とビジネス」をテーマに色々と考えてきましたが、ヨーロッパ文化部が相手にすべき対象は、もっと大きいのかもしれません。そういうことを思う日が何日かありました。文化自身のもつ力と範囲の認識や、その出力の方法に貢献すべき課題がもっとあるのではないか、と。

そういう意味で、ヨーロッパ文化部はいわばマーケティングをさらに重ねる必要があるとの自覚を新たにしました。逆に、われわれが話す内容に意味があると思われるには、相手がどこの地平までを見ているかを知らないといけないということでもあります。

活動は継続してこそ意味があります。

2009年11月4日水曜日

新刊が少ないヨーロッパ関係の本

今日、丸の内の丸善で本棚を眺めながらため息が出ました。ぼくはこの2年間くらい、ヨーロッパについて書かれた新書を片っ端から読んできました。ハードカバーも読みますが、ヨーロッパ関係のハードカバーは学術的な傾向の本が多く、ぼくが狙いとする「ヨーロッパへの一般的視線がどうなっているか?」という関心からやや外れます。すると、新書の動向が気になるのです。

しかし、新書の棚に買うべき本があまり見当たりません。新刊が少ないのです(統計的数字ではなく、本棚での印象ですが、そう狂いはないと考えています)。既に見慣れたタイトルばかりです。リスボン条約の批准が遅れたためか、EUへの新しい動向をレポートする本も少ないし、ヨーロッパ内の移民やイスラムの問題も、「とりあえず、今までの本でカバーしているか・・・」というムードが漂うようで、「今、これを言わなくては!」との意気込みがありません。

明らかに新書の最近の売れ筋とは違うところにヨーロッパが位置しているとしか表現しようがないほどです。新書はその性格上、新聞→雑誌の後にくる紙媒体のジャンルだと思っていますが、新聞でもヨーロッパの記事が少ない以上、その先の掘り下げを積極的に行っている人が少ないことが想像されます。

ヨーロッパの価値が相対的に下がっている現在ですが、それにしても、この無関心ぶりはあまりにあまりだ・・・と思います。相対的に下がった以上に、無関心であるところに危惧を抱くのです。ハードカバーでかなり掘り下げたテーマで書かれていても、それが新書レベルに落とし込みがされていないということは、ハードカバーのテーマが一般性を獲得せずに、そこで留まっていることも意味するのではないかと想像するのです。何らかのアクションの必要性を思います。


味から語る文化

前回、「JETROでの勉強会」で書きましたが、その後、ますます「味と文化」がぼくのなかで大きなテーマになってきました。そのあたりの動向を「さまざまなデザイン」に今日書きました。「人の舌で寿司を食うな!」というちょっと品のないタイトルです。そして、これを書いておこうと思った直接の動機は、社会学者の八幡さんとの会話です。この内容は「長期戦は思想の確立で勝つ」で記しました。思想と舌が直接リンクするかどうかは別にして、ある痕跡を頭や心に強く残すことが非常に重要であるという意味において、ぼくはデザイン以外の武器をもっと使わないといけないと思ったのです。

ぼくはデザインの分野に20年近く軸足を置いてきましたが、同時に食品の世界にも15年ほど関わってきました。それで昨年より、長野善光寺前にある七味唐辛子の老舗、八幡屋礒五郎の七味とトスカーナのエキストラヴァージンオイルのミックス(250mlの新鮮なオイルに7gの七味唐辛子)により、両方の食材の両方の文化圏へのローカリゼーションを図っています。この商材の発展系で今、七味オイル味のオリーブをテスト販売しているのですが、ここに大きな潜在性を見出してきています。

よく人に話すのですが、「日本文化が好きで寿司を食べるのではなく、ヘルシーという価値のもとに寿司を選択し、それを何度か食べるうちに寿司が好きになり、だんだんと日本文化にも興味をもつようになる」のであって、「クールジャパンという旗印のもとに寿司を食べるのではない」のです。しかし、そこで記憶された味は強いインパクトを与えることになります。

したがって、味を持ち出すことで、デザインの話だけでは到達し得ない部分にアプローチできると思います。が、デザインというテーマでアプローチすることの可能性を見切ったわけではなく、人の生活がさまざまな要素で成立している以上、こうした多様なアングルから説明していくことが大事であると再認識したのです。以前、紹介したYouTubeのビデオ(下記)ですが、この映像から語れる文化をもっと増やすつもりです。


2009年10月18日日曜日

JETROでの勉強会

この前に書いた駐日ドイツ大使の講演会の後、溜池のアークヒルズにあるJETRO(日本貿易振興機構)で勉強会を行いました。いろいろな部署の方が30名近く参加くださり、また外部からも数名おいでいただきました。最初に、ぼくがPPTでプレゼンをし、それから質疑応答という形をとりました。

プレゼンのなかで、「ユニバーサルとは言葉で理解し合えることで、心で通じ合えると思わない」ということを言いました。これは「少なくても、マスレベルでのビジネスを企画するにあたって」という前提がありますが、この点に質問がありました。「感性的にいいと思える共通点があるような気がするのですが・・」と。

ぼくも、感性的な共通点はあると思います。「さまざまなデザイン」で書いた「夏の虫の鳴き声」もそうですが、日本人独自であると思っている感じ方には、かなりユニバーサルに通じるものがあります。しかし、一方、それは記憶や経験あるいは学習ということがベースになっている面もあります。つまり、ある事象に対する感じ方に自慢するのもおかしいし、卑下するのもおかしいというのが、ぼくの考えです。

寿司や刺身をはじめて食べて美味しいということはあまりないことだし、子供の食の好みをみれば分かるように、ある価値的説得によって「これは美味しい」と思わせることが、かなりのケースに当てはまるのではないかと思います。明治時代に来日した西洋人が日本の音楽を聞き、「これはすばらしい」とは即言わなかったことも、一例になるでしょう。

勉強会の後、赤坂で数人と食事をともにしたのですが、七味オイルの開発ストーリーやYouTubeのビデオの話がかなり受け、このような事例から文化の話に持ち上げていくのがいいのかなと思いました。今回の勉強会は20-30代の若手がメインだったのですが、彼らにもっと語りかけること、彼らがポジティブに動いていくことができるような外部的バックアップ(環境づくり)をすること、このあたりにぼくのやるべきことがありそうだと感じました。





駐日ドイツ大使の講演会

今週14日、駐日ドイツ大使の講演会を聞きに、四谷の上智大学に行きました。大使は3回目の日本駐在で近々、外務省を退官するようです。したがって、ここでの講演は最後のスピーチ。タイトルは「国際社会におけるドイツの役割」です。聴衆は150-200人くらいで、年齢層はさまざまですが、さすがに在校生が多いです。


第二次大戦後のドイツと日本の類似点と相違点をあげていくなかで、EU統合は文化的近似性に基づいているが、東アジア共同体にはその類似性を日本と韓国やその他諸国の間にみず、実現の難しさを示唆します。この話を聞きながら、「文化的類似性」って何だろうと思います。似ているといえば似ているし、違うといえば違う。もちろん大使は、文化的相違だけではなく、ルクセンブルグにある司法システムなどを例に、このような制度のないアジアでの統合への道は極めて実現性に乏しいと批判するのです。

ぼくは東アジア共同体の実現が何も困難を伴わないとは思わないし、それが何十年かかるか分かりませんが、文化的相違性があったとしても、お互いの共通目標を設定しようと探りあう行為とプロセス自身に意味があるのだろうと考えます。でも、一般的に東アジア共同体は批判されやすい。それはそれでかまわないのですが、EUの実現に多大な年数を費やしたように(リスボン条約の批准だって光明がみえてきたのは、数週間前のアイルランド国民投票の結果による)、現在の東アジアの状況をもとに、どこまで「現実性」を論議する意味があるのだろうか・・・という気がして仕方がありません。「現実性」とは作っていくものではないか?と思います。

講演の後の質疑応答で、ぼくは質問に立ったのですが、それは上記の内容ではなく、「日本社会はこの数十年、ヨーロッパに対して心理的距離感をより持ちつつあるのではないかと思うが、大使は長年の日本とのつきあいのなかで、そのようなことは感じないか?」と聞きました。それに対する大使の答えは「そういうことを感じたことはない。日独はライフスタイルをみても分かるように近づきつつある」。外交官に聞くべき質問ではなかったかな?とも思いましたが、これはこれでひとつ分かることがあります。

講演会の後、キャンパスに立っていると、一人の女子学生が近づいてきて「さっき、大使に質問された方ですよね。とても興味がわきました」と言われました。「あのような問題を考えたことはありませんでした」と。5分ほど彼女と話したのですが、ヨーロッパとの距離感を意識するには、何らかの実践的経験が必要だなと当然なことを思いました。いずれにせよ、若い学生が、何らかのことを考え始めてくれるというのは、嬉しいことです。






2009年10月12日月曜日

国際文化会館での勉強会

先週、六本木の国際文化会館で勉強会を主宰しました。業界を超えた十数人の方にお集まりいただき、最初の40-50分がぼくの側からの話題提供、残りの2時間余が皆さんとのフリーディスカッションです。話題提供は、6月に日欧産業協力センターのセミナーで話した内容が中心ですが、最後のまとめに「ものの見方」を出しました。

議論の中での、ある方の発言「ヨーロッパでは目標は目標であり、それが達成できるかどうかを日本ほど強く求められない。目標をたてることに意味があり、結果、未達であっても日本ほど責められない」には大いに頷くものがありました。目標自身への考え方の違いがありますが、ぼくは、この発言からヨーロッパ統合を推進したジャン・モネのことを思いました。

ヨーロッパのあり方では、何かが上手くいかなかったとしても、それは手段や手順のまずさであり、目標自身の設定について反省することはあまりありません。だから長年のプロセスを経てEUが成立したのであり、日本でよくある「目標設定が悪かったと反省し、ゼロから出直します」という考え方では、EUは成立しなかったであろうということを、ぼくはモネの「回想録」を読んで思ったのです。

日本のよさのひとつは道徳的優位性であるとするなら、目標に対する考えの違いは、世界での道徳的優位性に役立つのだろうか?ということがテーマになるのではないかと思うのです。約束を守るとかいうことは信義上の問題として道徳圏内として、計画の目標は圏外ではあるまいか?という意味で、我々が損をしない評価軸はどこにあるのか、自分の文化定義とヨーロッパの文化定義をエレメント的にもっと突き詰めることが必要と思われます。

もちろん文化をどこまでブレイクダウンできるかは難しい問題ですが、それを諦めていると、話はまるっきり前進しません。どうにかして前進させるための試行錯誤をやるしかありません。今週の水曜日も他の場所での勉強会です。そのあたりでひとつの実践的方向性をみつけたいと考えています。

尚、「さまざまデザイン」に「石倉洋子『戦略シフト』を読む」を書きました。日本に来てから1週間に至らぬ時点でどんなことを思ったかの記録でもあります。


2009年10月4日日曜日

米国とヨーロッパの違い

検索エンジンでヨーロッパ文化に関する記述を探していたら、今年の7月のコラムですが、アメリカ文化とヨーロッパ文化を比較している記事がありました。読者コメントにあるように、必ずしも「正解」ではないし、こういう一般化で不機嫌になる人達は多いようですが、十分に話題を提供してくれています。

http://www.reasonpad.com/2009/07/what-differentiates-europeans-from-americans-europe-and-usa/

200年間という時間や100キロという距離に対するアメリカとヨーロッパの違い、クルマのデザインの違いーヨーロッパのクルマのほうが曲線的ー、教育システムーヨーロッパは無料で大学入試がないー、教会の位置ーアメリカでは宗教が政治と一緒になっているーなど、沢山のアイテムがあります。参考まで。

2009年10月3日土曜日

文化の定義を自ら行え

来週に迫った東京で行う勉強会のPPTを作っています。基本的には、6月のセミナーで作ったPPTを利用するのですが、色々と手直ししたりページを追加しています。今回、ぼくが話し合いの題材を提供し、皆さんに自由に討議していただくという形を考えているため、どのような形で話題提供するのが最適か?ということになります。結局のところ、何のためにヨーロッパ文化を理解するか?といえば、以下のようなところに行き着くのかなと考えています。

あえて線引きをすることで、状況の傾向や構造がみえてくるものである。そして線引きして複数の文化を比較することによって見えてくるそれに違和感があれば、線引き自身の妥当性を検討すればいい。線引きすることを怖がってはいけない。ヨーロッパ文化も日本文化も、それらの文化を再定義する自由が誰にでもある。


この文化の定義をそれ自身が行うことに意味があると思うのです。コンテンポラリーアートの村上隆が長谷川等伯ではなく伊藤若冲を自分の源流として取り上げ、自分なりの日本美術の流れを再構成したようにあるいはイタリア陶器メーカーのCOVOがヨーロッパで受ける日本風の食器をデザインしたように、相手の姿を自分なりに見極め、同時にその相手に対して説得性をもつために自分の姿を見直しをすることが重要です。

村上隆が、漫画やアニメといえど、その文化背景説明なしに外国に輸出しても一過性なものにしかならないと書いていますが、単に「アニメが受けた」という事実をもってアニメ輸出促進を図るのではなく、そのアニメが受ける理由と地域の文化をスタディをすることが優先させられないといけないと思います。そして、どう説明が不足しているか?を自覚的にみないといけないでしょう。

トヨタが2005年周辺よりレクサスをL- finessというデザインポリシーのもとで世界統一戦略を図り、この戦略が失敗に終わったことは多くの人が知るところです。そして、この6月の新社長記者会見で地域重視の商品戦略に変更せざるをえないことを発表しました。以下の中身の意味するところは小さくありません

地域、すなわち、「マーケットに軸足を置いた経営」です。お客様やマーケットを直視し、マーケットの変化を捉え、その現場を熟知した人が迅速に判断する経営です。今回の副社長体制では、こうした考え方から、各副社長は地域の責任者となります。


「アニメが世界でクールだ」などという分けの分からない発言を繰り返し、ズブズブと自分の位置が沈下していくことに気づかない・・・そういう事態を回避すべきです。ローカライズにあまり手をかけなくても受け入れてくれる地域もあるし、ローカライズがなければまったく相手にしてくれない地域もあるでしょう。それを他人の受け売りではなく、自分自身の見方で勘をつけていくことです。

2009年9月29日火曜日

地図の描き方で文化差は見えない?


ぼくは『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』の冒頭で、イタリア人の描く地図を例としあげました。

ミラノからスイス国境近くの彼の別荘に出かけるに際し、まっすぐ一本のラインを引いて「高速道路のこの出口で下りては駄目!」というNO!の連続を記してくれたのです。北を図の上におくとか、道路のカーブなど一切を無視した地図です。これをみて、考え方が実に連続的であると感じ入った覚えがあったのです。

この例に限らず、ヨーロッパ人の地図の描き方は鳥瞰的な地理把握をあまり得意とせず、「あそこで右に曲がって500メートル行き、その先を左に・・・・」というような把握の延長線で書くので、一枚の紙に書ききれずに、次の紙を必要とすることがままあります。それに対して日本人は地図を地図の文法で描くことを苦とせず、A4の紙に全ておさまるように出発点から終点までを描ききることを普通としており、ここに頭の働き方の違いをみました。



しかし、一つ疑問がでてきました。確かにデスクに落ち着いて地図を描くのであれば、こういう差が文化差としてでてきますが、例えばクルマを運転している最中に、こういう頭の働き方の違いが出てくるだろうか?ということです。クルマの運転のように直前の状況に集中しているとき、鳥瞰的な位置把握を瞬時に行うことは可能か?もし不可能であれば、それはイタリア人が描いたような「ここで出るな!」的な発想に極めて近くなるのではないだろうか?ということになります。

人の位置把握には状況次第のことがあり、確かに静かな状況では地図教育の差が出てくるかもしれませんが、ダイナミックな状況ではそうした地図教育の差は出てこず、もっと人の基本的能力がモロに出てくるのではないだろうか・・・・ということが言えそうです。地図の使用はタイミングを間違えてはいけないことを「さまざまなデザイン」に下記書きましたが、裏づけの一つとして、以上のような仮説を挙げられるかもしれません。

http://milano.metrocs.jp/archives/2203


2009年9月27日日曜日

経済問題の見方を考える

いわゆる西洋的価値観が形作る世界が音をたてて崩れていくような20世紀であった・・・・ということを、21世紀に入っての9年で実感している人達が多いのではないかという感じがします。そして、それがよりスピードアップしています。そういうなかでヨーロッパ文化を語る意味はどこにあるのか?ということをよく考えています。一つはヨーロッパ文化を例に、ものの見方をどうつくっていくかということで、以下にメモを書いてみました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2222


もう一つ、多様な世界の実例を知ることが、精神的余裕を作っていくのではないかということも考えています。以下はその問題意識に対するダイレクトな答えではないですが、非常に密接な位置にあります。

http://milano.metrocs.jp/archives/2229


最近、ダボス会議の東京事務所ができたようですが、色々なところでダボス会議に毎年参加されている方の意見を読んだり聞いていて、「世界のリーダーが個人の資格で参加して新たなトレンドを作る」と説明するわりに、失礼ながら、どうもピンとこないことが多いです。ほんとうに状況が見えているのだろうか?と思うことが少なくありません。それだけのレベルを謳うわりには、三点観測から導かれたような意見であると思わせる印象をとんと受けないのです。

このあたりの違和感が、このごろ大きくなりつつあります。何かを語っているようで、何かとても大きな穴を見過ごしている・・・・という感じを強く受けるのです。これで本当にいいのだろうか・・・という気がして仕方がありません。ぼくはこのあたりの不安や不足感を根拠に今、自分で語れることの内容をひたすら探っています。

昨日、ローマ教皇が「経済に倫理を組みこむことが大きな挑戦的課題」という発言をしています。

http://www.corriere.it/politica/09_settembre_26/intervista-papa-gian-guido-vecchi_8639da18-aa95-11de-a0d4-00144f02aabc.shtml

これは先日の英国国教会の「経済はエコノミストに任せておくには重要すぎる」という発言と同じ問題意識に基づいています。

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article6836496.ece


宗教界が経済問題をこのように見ているなか、同じようなレベルで俗界の人達がものを考えているのか、それが気になります。それらしい言葉は聞くことには聞くのですが、宗教界が「大きな挑戦的課題」というほどにはダイレクトにシリアスに思っていないのではないか、それは宗教界のほうが状況の深刻さをより実感しているのではないか、という推測に基づきます。要するに、肝心なのは、目の前の現実をどう大きい範囲で深くみていくか?ということなのでしょう。




2009年9月23日水曜日

文化理解の目的を書く

「ヨーロッパ文化を伝える」を6回にわたり書きましたが(下記が最終回)、結局のところ、自分の立場と見方をヨーロッパ文化理解の仕方を通じて確立する実例という位置づけになりました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2210

「生活シーン」を重んじながらエピソードの羅列で終わらない鳥瞰的なポジションの獲得の方法。しかし、そのポジションの使い方は慎重を要する。こういう作業を経て、自分のオリジナル文化をどう見直すか。こんなことを書きました。これをプレゼンのストーリーに作りこんでいこうと思います。

2009年9月21日月曜日

「ヨーロッパ文化の伝え方」

本当はここに書こうと思ったのですが、どうも気分的(?)に「さまざまなデザイン」に「ヨーロッパ文化の伝え方」というエントリーを連日書いています。以下がスタートです。今日、3回目を書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2163

これをどういう目的で書いているかというと、ぼくなりのヨーロッパ文化の見方をポリシーという面から整理しておこうと思ったのですが、もう一つは、ヨーロッパに関係のない人達にも参考になる部分とは何かなということを前々から考えていたので、そのためのポイントを要約するという役割もあります。事前に構想をまとめて書いているわけではなく、その日に書き終えた時点で、次に何を書かなければいけないかを考えている状態で、話しが前後するところが出るかもしれませんが、勘弁してください。

ただ、このあたりのまとめを来月日本で行う勉強会のプレゼンに使おうとは思っています。

2009年9月18日金曜日

「・・で、日本はどうなの?」「えっ、大きい政府がトレンドでしょう」

昨日、バカンス明け初めてアイルランド人の友人に会うと、挨拶もそこそこに、「さて、民主党になってどうなの?」と知日派の彼は聞いてきます。ぼくがA、友人がIです。

A: いやぁ、民主党の考えがいいかどうかより、まず変わることが重要だったから、いいと思うよ。そりゃあ、できないことは沢山あるし、失敗も数多だと思う。でも、政権が変わらないよりはいい。

I: そうだよね。アメリカの新聞も騒いでいたけどね。

A: うん、鳩山論文とかね。反米、反グローバル主義とか・・・。

I: でも、あれは日本国内向けなんだから、それはそれで分かるよ。そうなんでしょう? アメリカ人もああやって牽制しているだけだからね。

A: そう、国内向けが外に出たわけだけで、色々と脇が甘いとか言われているけど、メディアも出来レースだからな。それなりに神経を使う必要はあるけど、神経症的に萎縮することはまったくないよね。

I: ベルルスコーニみたいにならないとね(笑)。




・・・・という内容なのですが、この最後の「ベルルスコーニみたいにならないとね」というのは、イタリア首相が18歳の女の子に熱心だとか、ローマの邸宅にコールガールを大勢呼んで金を渡したという一連のスキャンダルです。これがイタリアの新聞だけでなく世界各紙に広まり大いに叩かれているのですが、イタリアは政治家の私生活はほっておくべきという考え方も強いこともありますが、私生活にも厳しい国のメディアはここぞとばかり報道しています。本人に直接聞いたわけではないので真相は知りませんが、メディア王といわれるベルルスコーニは報道のからくりやメディアの一過性を熟知しているので、よくも悪くも話題に取り上げられることがPRの極意であると思っている節がありそうな気がします。つまり、どんな世界各国から合唱のように批判されようが、そう「神経症的な萎縮」が見えません。これを指しています。

I: でも、民主党で大きな変化があるのは何なの?

A: 大きな政府になるのではないか?ということを指摘している人はいるね。だいたい、今の時代、大きな政府は時代遅れで、小さな政府がトレンドだといってね。確かにそういう流れがあったけど、経済恐慌で方向ががらりと変わったよね。いいか、わるいかではなく。

I: えっ、そんなことを言っているのか?オバマの動きなんか明らかに大きな政府に目が向いているし、ヨーロッパでは常にフランスがそうだった。ドイツや英国だって、じょじょに大きな方に議論が言っているよね。

A: なんかね、トレンドの定義にもよるけど、どうも世界のトレンドが見えているようで見えていない人が多くてね。


どこで読んだか忘れましたが、政府だけでなく企業も大企業の価値が見直されている、時代は大きい方へ移行しつつあるという記事がありました。「トレンドにのっていなくても、小さな政府を目指すべきか」という問いかけが必要な時期に、「トレンドだから、小さな政府」というのはピントが外れているのではないかと思います。どうもトレンドの掴まえ方自身がどうもしっくりいないな、と思っているところです。どうしても「片手落ち感」がつきまとうのです。

2009年9月17日木曜日

経済問題は誰が考えるのか?


この数日のオンラインニュースを眺めていての感想です。

リーマンショックから一年たち、経済回復の兆しは色々なところで楽観的に取り上げられますが、労働状況を厳しくなる一方です。失業率の増加だけでなく、そのスピードが加速化しています。EUでは今年に入って24歳以下の若者の失業が8%から18%になったことが報道されています。下記では、イタリアの悪化振りが激しいと指摘しています。

http://www.corriere.it/economia/09_settembre_17/economia_futuro_giovani_in_trappola_ferrera_ff556152-a350-11de-a213-00144f02aabc.shtml

英国の失業率が19995年以来の最悪の数字だという記事も昨日でています。

http://www.telegraph.co.uk/finance/financetopics/recession/6196531/UK-unemployment-jumps-to-highest-since-1995-as-recession-pain-bites.html



経済環境の悪化が社会不安を引き起こすのは避けられないプロセスです。これには必ず時差があり、ブローのようにじょじょに効いてきてきます。特に若者への影響は厳しく、冒頭の数字のような極端な数字がでます。同記事では公式の失業率にはカウントされない、イタリアでのニートの増加も憂えています。英国国教会は、金融業界の猛省を求めており、社会における経済問題の重要性を考えるとエコノミストに任せておいてすむことではないと語っています。

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article6836496.ece


フランステレコムは昨年から今年9月までに23人の従業員自殺者を出しています。

http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2009/09/14/france-telecom-xavier-darcos-recoit-didier-lombard_1239915_1101386.html#ens_id=1236711

業績そのものより14万人から10万人に削減するリストラ策が原因であったようですが、この状況を重くみた政府が介入をはじめした。リストラそのものを中止する方向で検討が進んでいるようです。

以上の記事を読んでいて、社会のあるべき姿の作り方について考えています。





いろいろある欧・米の足並みの乱れ

昨日、デンマークの環境大臣が12月にコペンハーゲンで開催される環境会議に対する各国首脳の動きが鈍いと語っている下記記事を読みました。オバマも医療保険改革に手一杯で環境対策ができないと読んでいます。これだけだと開催国の焦りとも感じます。

http://politiken.dk/newsinenglish/article789144.ece


しかし、今日の以下の記事は、ヨーロッパと米国が共同歩調しない溝について触れています。

http://www.guardian.co.uk/environment/2009/sep/15/europe-us-copenhagen

以前から、京都プロトコールについて合意しない米国の姿勢、あるいは北海道のサミットの直前にも米国方式を導入することに熱心であるとの報道が数々ありました。ここにきて、また従来の合意をチャラにして米国方式で主導権をとろうとする思惑にヨーロッパ側が反撥しています。

米国新政権はブッシュ時代より環境対策に積極的に取り組むとしていますが、国内の医療保険改革が足かせになって世界レベルの合意が十分なレベルなものにならない可能性もあり、これまで主導権をとってきたヨーロッパは焦りまくっているということのようです。

政治力の勝負が際立ってきました。



2009年9月16日水曜日

トスカーナの時間の流れ方

2月、松岡正剛が『17歳のための世界と日本の見方』において文化交流の一例として、たらこスパゲッティをあげていたので、日本の七味唐辛子とイタリアのエキストラヴァージンオイルをミックスした七味オイルの商品開発ストーリーを書きました

文化差の重要なポイントの一つは、時間の流れだと思いますが、これだけは口で何度語ってもなかなか伝わらない、そこにいないと分からない、そういう類のものだと感じます。そして、この時間の感覚差が実は、商品構想をするにあたっても「背後で効いてくる」ものです。その伝達の一環として、「オリーブ農園の一日」というビデオを作り、YouTubeにアップしました。


2009年9月14日月曜日

オバマの医療保険改革を阻むもの

昨日の日曜日、ワシントンに約10万人が集まり、オバマが進めている医療保険改革への反対運動が繰り広げられたニュースが世界を駆け巡っています。「大きな政府」を作ることになるというのが反対派の主張になりますが、大きいか小さいかの目安の一つに、「社会の連帯」のあり方があると思います。そう考えていたときに、米国の医療保険改革のモデルはスイスにあり、まさしく、その「連帯」がキーワードであることを、スイスの専門家が語っている以下記事をみつけました。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/Swiss_advise_US_over_healthcare_reforms.html?siteSect=106&sid=11202900&cKey=1252854789000&ty=st

オバマ当選後、米国政府とスイスの健康省は何度もミーティングをもってきており、今年退任するスイスの担当官は来年ハーバード大学に在籍して世界の医療関連事項について助言を行っていくとのことです。スイスのシステムが完全であるわけがないですが、必要あれば違法移民を含めてカバーする、スイスのシステムに米国が強い関心をもっていることは確かです。



その彼らー米国の担当ーが、スイスのエキスパートが「連帯」を語ると、驚いた目つきでスイス人を眺めると、スイスの担当官が語ります。そして、米国人は連帯の意味するところを、スイス人と同じようなレベルで理解していないと言うのです。米国では健康は自己責任であり、雇用者事項であり、そこに公的機関が関与しないのに対し、スイスでは国と州が重要な役割を果たします。

これは基本的にヨーロッパ諸国とも共通の性格をもっていますが、この医療保険の問題に関して、米国とヨーロッパを分けるものは、「連帯」の概念の違いであるとは、はっきり言えそうです。





2009年9月9日水曜日

地方はイニシアチブを奪取すべき

前回、道州制論議に必要なメンタリティを書きました。本テーマについて、八幡さんよりコメントをいただきました。欧州の地方独立論議はテロに発展するほどの切迫感があるケースがありますが、八幡さんの表現する「独立するわけではないが、しようと思えば出来ないことはない」位の実力を前提にすべきであるという見方に賛成です。以下、ご紹介します。ヨーロッパの動向をリアルにみていて分かってくる感覚ではないかと思います。

いま、日本では、道州制と地方分権が同時に議論されていますが、何か核心を欠いた議論のような気がします。中途半端な議論です。というのも、地方分権という字面をよく眺めてみると、’中央が事実上占有していた全国を統治していた省庁の権力と財源を、地方にわけるということにほかなりません。それで、道州制を推し進め、これを担い、道・州という新しい単位の中核を形成できるとはとうてい思えないからです。

というのは、いわゆる道・州へのの分権を進行させる速度や徹底の度合いは、当然中央省庁のさじ加減にかかっているわけですから、道・州の形成過程はヒモ付きのままということになるでしょう。その状態は、将来も水面下で継続する可能性がある。いいかえれば、霞が関は、道州制の仮面の影で、中央集権的支配の実効性を保持できる体制を構築することが出来るとおもわれるのです。

本当の地方分権と、それを基盤とした道・州の実現は、結論的に言えば、分権というお上の権限のお裾分けではなく、「分国」をウエーバーの言う「理念型」として、いいかえれば、「分国」を覚悟して実施されなければなりません。それは、地方が、要求し、交渉し、地方のイニシアティブで「獲得」するもの、言葉を極めれば「奪取するもの」でなければならないとおもいます。「独立するわけではないが、しようと思えば出来ないことはない」位の実力(政治的・経済的)を備えた道・州の連合体としての日本という国家を再設計するのでなければ、道州制の議論は空論にとどまるでしょう。

          

2009年9月4日金曜日

道州制導入論議に必要なメンタリティとは?


今日は最近思っていることをメモします。

衆院選挙での民主党の大勝に関する記事をオンラインで色々と読んでいますが、「要するに、誰でも変化に対応するのは億劫で面倒なんだ」ということを感じます。当たり前のことです。大手新聞社の政治部記者も、今まで官邸記者クラブにいて自民党人脈を作っていけば記事が書けて出世もできたのにー「私は歴代首相の新入りの頃から知っている」ー、その人脈が生きない、出世の形がみえない。それは大慌てでしょう。なんせ民主党は記者クラブ制を廃止し情報の流通を良くするというのですから、既得権勢力はしばらく苦い思いをしなくてはいけません。

それはアメリカ側の声も同じです。誰を頼りにすれば分からないし、民主党が何を考えているか分からず心配だ、日米関係はどうなるのか?と。最近、中国に重点をおきはじめていた米政府が何を言ってるの?だいたい、もう米国を頼ってくれるなと大統領が4月ロンドンで記者会見したじゃないと思う一方、あれだけ強い絆が日米関係にあると喧伝していたのは芝居だったのかという気にさせる雰囲気です。確かにNYTにはそういう内容の記事が書いてあり、例の鳩山論文ー反米、反グローバリゼーションと受け止められたーを槍玉にあげて「理念的」だと批判もしていますが、「あれっ、アメリカ大統領の演説って、もっと理念的じゃなかったっけ?」と思いました。





それをまた日本のマスメディアは「アメリカのご機嫌を損ねたのではないか」「ご迷惑をおかけしたのではないか」という調子で書くものですから、どうしたものかと頭を捻らざるをえません。本音はいざしらず、とりあえず中国や韓国は政権交代を歓迎すると言っているのですから、「世界が困惑している」わけではないようです。およそアングロサクソン系の情報だけで何が分かるのかという疑問もあります。確か先日スペインの新聞も好意的な記事を書いていました・・・と思っていたら、日経ビジネスオンラインが以下の記事を書いています。「経済成長は悪なのか?  「お気楽な国」、日本を嗤う欧米メディア」というタイトルです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090903/203966/

確かに日本が「お気楽な国」と見られていることは承知していますし、民主党が短期で何らかの実績をあげて国民を喜ばせてくれる確率は低いかもしれませんが、先に書いたようにFTとWSJなどの英米紙で何が見えるのだろう?という疑問が一つ。それを欧米メディアと総括する鈍感さは逆に井の中の蛙的だし、この記事の底には「欧米からは気に入られなくては」という切迫感が流れているような印象をもちます。ぼくは、ヨーロッパ市場で売れるためにはユニバーサルや欧州文化を理解しないといけないと言っているので、この日経ビジネスオンラインの記事に同調するのでは?と想像される向きもあるのではないかと思うのですが、ぼくの意見は逆なのです。この記事にあるような単眼的な見方を脱するべきだというのが、ぼくの考え方です。




「さまざまなデザイン」に、比較をしないと落ち着かないところを改め、「美味しいものは美味しい」と率直に言える文化土壌を日本に作る必要があるだろうと昨日書きました。以下です。

http://milano.metrocs.jp/archives/2072

実は、これは最近盛んに議論されている地方分権や道州制を考えるときの基本メンタリティではないかということがバックにあるのですが、このメンタリティを良しとするところからすると、日経ビジネスオンラインの記事にあるメンタリティはバツだということです。

2009年9月2日水曜日

プレゼンにおける層分け

ヨーロッパ文化部のプレゼンの仕方を色々と考えています。


ヨーロッパを切り口にするという点では何も変更の必要を感じないのですが、もう少し問題を多層に明確化し、どこが一般レイヤーで、どこがヨーロッパレイヤーか、という層別をしないといけないかなと思っています。どういうことかというと、アピールすべき相手は様々で、それこそヨーロッパに関心も縁もないけど、問題の深層には関心があるという方にどう話していくか?も、考えないといけないと思い始めたのです。

そこで、どのような表現が一般レイヤーにくるかですが、ビジネスと文化の関係性をもってこようと検討しています。ビジネスにおいて文化が無関係であると思っている人は誰もいないでしょうが、実際の交渉ごとや人事管理を対象とした「異文化コミュニケーション論」がカバーしてきた領域など、文化理解はいつも見え隠れしています。もちろん言葉や生活習慣の違いなど、市場つくりや商品つくりでの課題も文化領域に入ってきました。そして、ぼくがポイントにしているのは、これらにプラスして「違った感覚」「違った認知」なのだというのが一点目になります。

二点目は、文化は総体的な理解を求めるものであるがゆえに、一人で行う文化理解の重要性を語ることです。そこは自分の専門ではないからという理由で、どこかに穴をあけることを怖がる、あるいは自分の言葉や考えの表明を避ける、こういう態度をどうやって変えていけばいいのかというテーマがあります。全てにおいて知識が均一にあることはありえないし、どこのレベルであれば合格ということがないのは、どこのレベルにおいても失格はないのだという認識に自信をもって辿り着くとは、どういうことなのか?が、分かりやすく語られないといけないでしょう。




次にヨーロッパのレイヤーです。これは、「ミラノサローネ2008」で書き、本にも使ったヨーロッパ文化の4つの特徴をあげることかなと思います(下記から4回分のブログ)。これが「理解の大枠」の一例になります。実は、定番のプレゼンのなかで、これらの特徴を言うのをあえて落としてきました。何か結論じみた言い方になるのではないか、と。

http://milano.metrocs.jp/archives/205

しかし、こういう結論じみたところを更に発展させることに意味があるのではないかと思い、これを再び引っ張り出してくることにします。できれば、もう少し肉付けはしたいと思います。これにあわせた視覚的資料も揃えてみましょう。この流れのなかで、「重さ」「軽さ」の問題も扱えそうです。また、チャールズ・イームズの映像「パワー・オブ・テン」の発想が活かせればいいのだが・・・と考えています。

・・・・まだまだ悩みそうです。


2009年8月30日日曜日

YouTube のストーリー別案

4回連続でプレゼンの原稿を書き写してみましたが、やはり書いたものはダメです。やはり、これを話してもというか、このような喋り方はできません。また、そういう文章的な側面もさることながら、話題を盛り込みすぎた嫌いがあります。一回の短いビデオですべてを伝えることは無理なので、シリーズ化するなどを構想に入れないといけないかもしれません。

そこで、具体的なテーマをもっと絞ってみたらどうかと考えています。そのポイントですが、(3)で書いた以下の部分を掘り下げたらどうかと思います


西洋の都市や建築がシンメトリーであることが多く、日本がその逆であることを知っていても、それが謝罪の乞い方によくある、「すみません。昨日までのことは水に流して、なかったことにしてください」と関連付けてみれないといけないわけだね。日本では「今」と「ここ」が一番重要だという見方とアンシンメトリーの繋がりがみえてくると面白いね。シンメトリーは全体がつかめないと駄目だから。

これはデザインの問題と社会意識の関係を説明するのに好都合な例です。ビデオで表現すべきなのは、日常のコミュニケーションレベルで生じる代表的文化差を、よく知っている視覚的に分かる別の例で示すことではないかと考えると、このあたりから挑戦してみようかと思うわけです。もう少し案を練ってみます。

2009年8月29日土曜日

YouTubeのストーリー(4:最終回)

(3)からの続きです。


A: そうねぇ。一人で全てを知ることはできないけど、どの点とどの点がどう繋がっているか?ってことに注意を向けていけば、自然と見えてくるものがあって、こういうことが分かってくると、色々な展開ができそうだね。

: それはそう。ヨーロッパのコンセプトを日本にどう持ってくるかという課題にも役立つね。とにかく、江戸時代以来、日本にはヨーロッパを学んだ人は山のようにいるわけだよ。今もあらゆる専門家がいるんだけど、ヨーロッパ人と何か一緒にコラボレーションするとか、ヨーロッパ人に何かを売るための文化理解はどうなのかというと、どうかな?というところだよね。相変わらずヨーロッパは勉強の対象だったりするんだ。

そして、「そもそも、それは18世紀のどういう考え方がもとで・・・」ということで、議論の大方の勝負を決めようとするんだね。それじゃあ、だめなんだ。近代の有名な哲学者の言ったことが重要じゃないとは言わないけど、今のヨーロッパの一般人のリアルな考え方や感覚の大雑把な傾向を、日本との比較のうえで知ることが最初にこないといけないのだと思う。それが、最初にいった心理的バリアをクリアするための必要条件でしょう。

A: じゃあ、最後になるけど、こういうヨーロッパ文化理解をプロモートしようという動機は?

: 自動車、デザイン、インテリア、電子部品、ユーザービリティとか色々な分野にビジネスプランナーとして係わってきて、電子機器のインターフェース、特にそのヨーロッパでのローカリゼーションに関与しはじめて、多くの問題が目に見えているのに、その問題に気づかない、あるいは「たいしたことないだろう」って思っている人達が多く、仮にそれに気づいていたとしても、解決に必要な文化理解が不足している。これを痛感したんだよね。確かに、これはある程度、経験や知識を統合して立ち向かわないといけないテーマで、「あっ、これは僕向きのプロジェクトだ」と思ったんだね。


それで、プロジェクトをやればやるほど、必要とされる文化理解レベルと実態のギャップに気づき、これは何とかしなきゃあと思った。下にあるような文化人類学のホールが提示した、ハイコンテクストカルチャーとローコンテクストカルチャーのような考え方を聞いたことがないというより、こういうことを一度も考えたことがない人が多いわけなんだ。これは、各文化圏の傾向を把握するのに、とっても役立つんだけどね。




そうしてあらためて日本におけるヨーロッパやその文化を眺めなおしてみると、ヨーロッパへの関心や認識が、ヨーロッパの世界のなかの位置づけと比べ合わせてアンバランスに低いということを再認識したんだ。で、『ヨーロッパの目 日本の目』という本やブログを書いたり、話すという活動をはじめたというわけ。

A: なるほど。上手くいくといいね。こういう方向が間違っていると言う人はいないだろう。テーマはヨーロッパ文化だけど、応用のきくというか、一般性の高い話しなんで、多くの人たちが問題の底にあるものに気がついてくれるといいね。


以上です。これだけのボリュームだと15分から20分の対談になりそうです。原稿を読んで話すと説得力に欠けるので、実際にビデオで喋る内容は、原稿と変わってくると思います。


2009年8月27日木曜日

YouTubeのストーリー(3)


(2)からの続きです。


A: 加藤周一の『日本文化における時間と空間』に書いてある、シンメトリーとアンシンメトリーの違いにあるバックグランドの説明なんかすごくためになるね。



: 西洋の都市や建築がシンメトリーであることが多く、日本がその逆であることを知っていても、それが謝罪の乞い方によくある、「すみません。昨日までのことは水に流して、なかったことにしてください」と関連付けてみれないといけないわけだね。日本では「今」と「ここ」が一番重要だという見方とアンシンメトリーの繋がりがみえてくると面白いね。シンメトリーは全体がつかめないと駄目だから。

A: その話しが、日本文化の軽さを重視する点とも絡むのでしょう?

: 西洋は大理石に象徴されるように、伝統的に重要なものは重いという価値があったよね。日本は木や紙などで軽く、それが洗練さを生むという評価をしてきた。その西洋でもだんだんと「重いだけじゃあ能がない」と考えつつある。でもだからといって、建築構造的な面を省略しちゃあいけないんだ。あくまでもストラクチャーはキープしながら軽くなることを求めるんだね。そういうところから、重さの変化の流れを徐々に知っていけばいいと思うんだ。軽さを主張するにもほどがあるってことだね。


A: そのほどを上手く表現した一つに、写真にある橋本潤さんがデザインした「蜘蛛の巣の椅子」があるんじゃないかってことね。ミラノサローネで前の作品よりヨーロッパの人たちの反応が良かったという理由をそこから想像するわけか。

: いろいろな理由があるだろうけどね・・・・。全体性あっての軽さ、断片的なはかない軽さじゃないもの、こういうのが受ける傾向はあると思うんだ。特に一般的な市場でね。昔、軽小短薄という言葉が日本の工業製品の強さを表現するのに流行ったけど、それを表立って悪口を言うヨーロッパ人は多くなかったと思う。でも、「なんか違うんだよなぁ」という違和感を長く持ってきたと思うんだよね。体が大きい、力があるという人間工学的な側面もあるんだけど、「これはかくあるべし」という認識と感覚の差も出ていると思う。これが文化差だと考えている。

A: だんだんとビジネス寄りに話をもっていこうか。文化が分からない実態みたいなのを。

: うん。対象が物理的なモノである場合は、違和感を引きずりながらも、高品質で適正価格であれば消費者もNOとは言わなかったわけだ。でも、高付加価値化ということが日本メーカーの方向付けにあって、やたら機能が増え、しかも価格が高くなってきた。するとニコニコ顔もひきつってくるわけだよ。作り笑いにも限度があってね。




が、流れはモノからコトというけど、ある意味、電子機器のインターフェースはコトに近いかもしれない。認知工学的な要求が大きくなってきて、作り笑いが苛立ちに変わってきたように見えるんだ。だって、ON、OFFだけじゃない抽象的プロセスの作業をユーザーは強いられるわけだから、分かりづらかったら、「もうイヤダ」とギブアップされる可能性が高いし、カーナビなんかでは、分かりずらさで人身事故を起こす可能性があるわけだ。

かつて原子力発電所や飛行機などに係わるエキスパートがインターフェースが原因で引き起こすトラブルが指摘されてきたけど、今はいわばアマチュアレベルにその問題が下りてきたってことなんだ。今後、あらゆるデバイスがさらにインターフェースが中心となってネットワークを作っていくから、人の頭のなかの働きを理解することがより重要になっていく。人は環境の動物だからね、思考習慣とかいろいろ違うわけで、文化理解が大切ってことだね。ただ、これは文化とビジネスを巡る問題の一側面だよ。


(4)へ続く。

YouTubeのストーリー(2)


(1)の続きです





A: じゃあ、意図は分かったけど、この文化理解を実際にどうすればできるのか?ていうことだよね。難しそうだなぁ。

: それを簡単とは誰も言わないよね。完璧な理解はなく、理解しようとする意志と努力があればいいわけだけど、なるべく日常生活に近いところで理解できればいいと思っている。ここで文化の定義について言っておくと、「文化とは生きるための工夫」であるという、政治学の平野健一郎さんの『国際文化論』にある表現を使わせてもらっている。いわゆる高級文化も含むけど、それだけではない。人々が生きるに際しての内面的外面的活動の全てを指しているんだ。それで、日常世界に話しを戻すと、デザインとか視覚的に分かりやすく、それも身近であったり良く馴染んでいるモノやコトから入っていくのがいいと考えている。

加藤周一の数々の本は、こういう比較例を満載しているけど、これを目で見て身体でわかってくると理解が相当違うんじゃないかと思うんだよね。世の中の事例には不足しない。でも、それをどう見るか?なんだ。日本は部分から全体を考え、西洋では全体から部分を考える。それぞれの代表例として、江戸時代の大名屋敷と、西洋のお城をあげているんだ。


これはまず全体を考えたということが想像しにくいよね。部屋をどんどんと足していった増築的なイメージがある。まさしく細かいところからの発想だ。それに対して、西洋のお城は最初に全体の姿を考えている。そして次に部屋割りを考える。当然なんだけど、皆が皆、こうしたはっきりした傾向を示すわけじゃないけど、このパターンが文化的に逆であるという主張は通りにくいと思うんだ。


こういう違いが、立体的なコンセプトを作るときのアプローチの差になって出てくるわけなんだ。この部分からみるというのは、固有性の尊重というか、二つのものに共通要素を見るより、差別化することに拘るという傾向を生むわけで、火山という自然でできたもののカタチに対しても同じ反応をすることになる。


これは日本の富士山に似ているけれど違う。本当は韓国の山なんだけど、これをみて「富士山は世界一美しい山だ」と言うのは、やはりおかしいと感じないといけない。富士山は美しい山とぼくも思うけどね。で、テーマは、こういう比較を実際にデザインを作るとき、あるいは見るときににどう活かすか?ということになると思う。


(3)へ続く・・・・


2009年8月26日水曜日

YouTubeのストーリー(1)


タイトルは「YouTubeのストーリー」ですが、正確にはYouTubeに投稿するビデオのストーリーです。ヨーロッパ文化部の主旨をビデオでも説明してみようかと思い、今、ドラフトを書いています。これは話す原稿なので手書きのほうがいいかなと考えノートに書いているのですが、やはりデジタル情報としても欲しく、ここに書き写します。対談形式です。





A: ヨーロッパ文化に対する理解を深めるというのは、特にお勉強して学ぶっていうことじゃないよね。

: そう、どちらかといえば勉強しすぎないことのほうが大事かもしれない。どんな手段を使ってもいいから、視点を沢山もつのが大事なんだよね。そして皮膚感覚というか、ヨーロッパには日本ともアメリカとも違った感覚世界がある、という事実を知ることが重要だ。

ヨーロッパというと、ギリシャ文化を知らないといけない、ローマ帝国以来の歴史を知らないといけない、キリスト教を知らないといけない、というように「知らないといけない」とされることが多すぎて、ここに心理的バリアをもっている日本人がたくさんいる。そして、その結果、「難しいものにはフタをしよう」と考えるんだね。

A: それが結局、日本のものづくりのメーカーの商品企画や文化発信では、ヨーロッパの文化文脈とは離れたアウトプットを生むということなんだ。

: もちろん、歴史のことを知っていたほうがいいに決まっているんだけど、そこで踏みとどまってはいけないと思う。もっと「ヨーロッパってこんなもんなんだ」というざっくりとした全体像を掴むことに力を使ったほうがいい。それも一人で分かることが大切で、あの国は誰々の専門だから、この分野は誰々がエキスパートだからといって怖じ気づいては駄目。




武蔵大学のヨーロッパ比較文化学科が編纂した『ヨーロッパ学入門』という便利な本があって、各分野の専門の先生が集まって書いている。これはヨーロッパを勉強する大学生のタネ本になっているらしいんだけど、これはこれでいいとしても、この本は「一人で分かる」というテーマに応えてくれないんだよ。それじゃあビジネス上、困るんだ。いちいちエキスパートを探しているんじゃあ、大枠の方針なんていつまでたっても決められない。

A: で、どうしてヨーロッパか?ってことだけど・・・。

: 今、話した内容は基本的にヨーロッパに限らず、どの地域にも通じることで、日本にも通じる。社会学の宮台真司の『日本の難点』という、日本のあらゆる問題について一人で語りとおした本も、同じ狙いにあると思っている。よって根幹の部分でヨーロッパだから・・・ということはないんだけど、5億人の市場があるEUを日本はあまりに見なさ過ぎるというアンバランスが問題だと思う。その問題のコアにヨーロッパに対する心理的敷居を自ら作っているとなるとね、どうかと思うんだ。

A: でも、ヨーロッパは色々な言葉もあってアプローチしずらいという見方も仕方がないところもある?

: じゃあ、アジアはどうか?ということになる。日本語、韓国語、中国語、タイ語、インドネシア語と色々な言葉があるわけだ。今、アジアが盛んに期待をもって語られているけど、確かにアジア文化の多様性を指摘する声は沢山あるけど、言葉がネックとなるから市場開発しないとはならない。経済成長という面があるにせよ、心理的問題も大きいと思う。何か、アジアは気楽にいけるだろうという思い込みがね。

(2)へ続く・・・・・

2009年8月14日金曜日

『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』




このブログでも時々、「北ヨーロッパの社会」というカテゴリーでスウェーデンやデンマークのネタをテーマに記事を書いていますが、一般によく取り上げられる環境論と絡めたことはなかったと思います。が、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』を「さまざまなデザイン」に以下レビューを書きながら、これはヨーロッパ文化部ノートのテーマに極めて近いと感じました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1991

上記でも触れましたが、これは「全体から部分」というアプローチをとらなければいけない環境論において、どうしてそのアプローチをとらねばいけないか、それを日本で伝統的に傾向として強い「部分から全体」手法をどう覆さないといけないか、優れて文化理解をもとにした図式を描かないといけない問題です。小澤氏もこれは技術論ではなく、極めて政治的・経済的・社会的アプローチが必要であると説いていますが、残念ながら本書を読む限り、すくなくても社会的説得性は強化した方がよいだろうとの感想をもちました。

いろいろな政治・経済問題において、人々の心のありように信じられないほどに無防備になるのと同様、動物としての人間存在という事実も忘れがちです。小澤氏は後者を強調しているのですが、これは前者と並行して全体像を描いてこそ、よりリアルな現実を認識することを誘導できると思います。

小澤氏は「スウェーデンを真似しろとは言っていない」と盛んに書いています。「スウェーデン? 人口と経済規模が全然違うじゃない。そんな国をモデルにしろなんて非現実的」という反論を何千回も聞かされた人ならではの防御だと思いますが、ぼくは環境論のまったくの素人ながら、こと環境論のかなりの部分については、スウェーデンモデルを真似ることを厭わない「勇気」が必要かもしれないなと漠然とした印象をもっています。だから、文化的解決が非常に重要になります

今、「モノは所有しなくていいんじゃない。必要な時に借りれば」という発想が世界にじょじょに広まりつつあります。これはエコロジーとは別の次元で、モノへの執着から心が離れつつある現象として語られ、去年の経済恐慌で激減した自動車市場を前に、スズキ自動車社長の鈴木修氏が「経済が復活したとして、これまでクルマを買った人たちがクルマに戻ってくるだろうか?」と危惧するゆえんです。カーシェアリングはその象徴です。また、PCのハードディスクにデータをおかずにヴァーチャル上に配置するとの発想ーグーグルに代表されるーは、こういったスタイルの先鞭を作っているともいえます。

小澤氏の上記著書においてスウェーデンの大手家電メーカーが廃棄責任の問題の解決法として、洗濯機のいわばリースを実験的に行っていることを紹介しています。使用料は電気代と一緒に電気会社に支払い、修理がきかなくなったらメーカーが新しい製品を再度リースするとの方法です。これは環境保護のひとつですが、実際、だんだんと台頭しつつあるライフスタイルとマッチしているのです。つまり、文化的調和のとれる社会機運が整いつつあるとまでは言えませんが、方向としては「そっち」なわけで、これをどう加速させるかというステップであることは確かでしょう。


2009年8月13日木曜日

AR技術と洗濯機の発達で思うこと




このブログでセカイカメラのことを何度か取り上げてきました。主にオープンプラットフォームというテーマで書いてきました。今、セカイカメラはAR「拡張現実」というカテゴリーで、その世界のなかの一プレイヤーとして取りあげられており、今週もBBCニュースの記事になっています。このARという技術によって、ヴァーチャル・リアリティが現実に入ってくるというより、現実がヴァーチャル・リアリティを取り込んでいく流れを作っていくことになります。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8193951.stm

さて、ヨーロッパ文化部としては、これまで電子デバイスのインターフェースやヴァーチャル・リアリティで生じる文化差の受け入れキャパ問題に注目し、この文化差を理解していかない限り、ビジネス面での失速は当然ながら、(カーナビのような機器から生じる)生命の危機など多くのトラブルを抱え込むことになると話してきました。その観点からすると、このARは現実と人の日常行動の接点がもっと大きくなるので、より文化差が目に見える形で出てくるのではないかと考えています。

ところで、ARはどのように世界を変えるツールなのでしょうか?単なる複数機能の統合でしょうか?デジタルによって複数の製品が一つに統合されるというトレンドがありますが、複数機能が一つに統合されていくというのは、デジタル化とは別に世の中では起こってきたことです。そこで、考え方の参考に「さまざまなデザイン」で紹介したユーザー工学の黒須正明さんが提唱している人工物発達学について、ここでも触れておきます。

黒須さんは、機能統合への発展過程について、洗濯機を垂直発達(*)の例に取り上げています(『人工物発達研究ー通巻第二号』総合研究大学院大学より)。基本的に達成すべき目標は繊維ものを洗って綺麗にすることで、人力から電気への利用、複数機能の統合化が発達プロセスになっています。


(*)人工物の多様性には、国家や民族など空間軸に対応したものと、時代変遷という時間軸に対応しているものがある。そして後者には、垂直発達と水平発達があり、垂直では、ある人工物が時代とともに置き換えられたり駆逐され、水平では、ユーザーにとって選択肢が増えるパターン。例えば、音楽プレイヤーや腕時計は水平発達にカテゴライズされる。

獣衣をまとっていた時代には洗濯は不要であったと想像すると、洗濯は繊維物を着たところに起源があっただろうと考えられます。繊維吸収力の回復と悪臭の除去を目的に、手で足で洗いはじめました。そのなかで、タライや洗濯板が開発されましたが、洗濯は、洗う、絞る、乾かすというそれぞれの行為によって成立します。そこに人工物が行為を支援するに際し、それぞれのステップの効率化だけではなく、それぞれのステップの連続化をも目標に入ってきますが、それが一気に実現したわけではありません。

電気の導入をみても、最初は洗うステップのみ。絞るのは手でした。これも手で直接絞ることから、ローラーに洗いものを挟み込むという工夫が次段階で出ています。しかし、ローラーでの絞りはかなりの重労働であったため、脱水機能が考えられました。これも最初の脱水機能は洗濯とは別の機能だったのですが、濡れた衣服の入れ替えを連続化するために全自動洗濯機が開発されたというわけです。これで洗いから絞りのプロセスは完成形に近くなったのですが、乾燥はまったくの手作業です。それで乾燥機が出ました。しかし、連続化プロセスとしては未完成で、絞ったといえど、濡れた衣服を移動させるのも面倒な作業で、洗濯乾燥機の誕生となりました。が、別置きの乾燥機も存在しているのが現在です。

話を人工物発達学の根幹に戻すと、これはもともと、目標一に対して手段や人工物が複数存在する多様な状況から着想されたものです。例えばコミュニケーションという目標に、対面、手紙、葉書、電報、固定電話、携帯電話、無線電話、携帯メール、パソコンメールが存在しており、ユーザーがどういう背景や理由で、これらのどれかを選択するのか?という疑問からスタートしています。したがって当然、使用される文化も絡み、文化人類学などと近くなります。尚、文化とは国家文化や民族文化だけでなく、世代や性あるいは宗教など多種の要素を基においた共通の行動・思考の様式を指しています。

ARは系列的には水平発達型のものかな?とも思うのですが、上記で音楽プレイヤーなどの水平発達ではなく洗濯機という垂直発達の例を取り上げたのは、実はARは垂直発達を遂げていくのではあるまいか(もしかしたら、長期的にみて、携帯電話のカメラがカメラ自身を駆逐する可能性も否定しきれない趨勢を鑑み)ということを感じているからです。

このテーマについては、今後も書いていきます。

2009年8月11日火曜日

秋の活動への準備スタート




ヨーロッパ文化部の秋の活動に対して着々と準備をはじめています。ヨーロッパ文化を伝える趣旨に関し、最近「さまざまなデザイン」に以下を書きました。これは明治大学大学院の管啓次郎さんのゼミに提出した「安西洋之の36冊」レポートに対する感想の抜粋です。

今、ぼくはヨーロッパ文化をどう日本の人に伝えるかを考えている。そして、実際、本やブログも書き、多くの人の前で話すこともはじめた。もともと全体性の理解に対する拘りが強かったが、多くの経験を積み、それをある時点で統合しようと思ったとき、「ヨーロッパ文化」という具体的な名称で、ぼくの頭のなかに統合の事例として現れたのだった。

ただ、実を言えば、ヨーロッパ文化を伝えるとは、ヨーロッパに関する情報を伝えることと同義ではない。言ってみれば、新たな視点や考え方を提供するにあたってのネタである。しかし、それはよく言われる「〇〇で何が分かる」「〇〇に役に立つ」「〇〇に学ぶ」という次元とは距離をもつ。ぼくの狙いは、異文化の人達と一緒に何かをするための文化理解とは何か?を突き詰めることだからだ。そして、まずは、その目標ラインを「ビジネスのため」と限定している。あえて線引きすることで、伝える内容の構造が見えてくるのではないかと考えている。

これをここでもう一度引用したのには、一つのブログと一つのネット記事を読んだからです。まず地政学あるいは戦略論が専門の奥山真司さんのブログです。これから英国に留学する方へのアドバイスとして、日本の研究方法を「八百屋」とし西洋のそれを「料理人」と比喩されたと書かれています。その理由を下記としています。

なぜ八百屋なのかというと、彼らはデータの品揃えが勝負であり、ひとつのテーマについてどこまで詳しいことを知っているかということで勝負しているからです。

なぜ料理人なのかというと、彼らは厳選された材料を選らんで自分のやり方で調理するのが勝負なのであり、ひとつのテーマについてどのような鋭い解釈・分析をできるのかで勝負しているからです。


なるほど、上手いことを言ったなぁと感心したのですが、八百屋は八百屋という線引きがありながら、料理人よりは線引きが緩いからなと思いました。それは職種としてよりも、(比ゆ的にいえば)視覚的に見える目的枠が、後者においてより明確なのではないかとも考えます。加藤周一が指摘した、時間の出発点と終結点が明白なユダヤ的思考が西洋文化の根にあり、その限られた時間枠であるがゆえに建築的構造的世界観を作る傾向にあるとしたことは、研究の方法をも当然変えていくだろうということになります。意図的に線引きし、そのなかで出る例外をどう扱うかのルールを自分で決めていくことが日本の研究者は苦手であるがために、情報量で範囲を確保する方向にいくのではないかともいえます。

もう一つのネット記事とは、日経ビジネスオンラインにあった作曲家の伊東乾氏と湯浅譲ニ氏の対談なのですが、現代音楽やその周辺に対する膨大な情報が交信するなか、これを主要読者であるビジネスマンがどれほどに読み込むかを考えるとき、奥山真司さんが比喩する「料理人」的な訓練が問われているだろうと思います。以下は伊東乾氏の対談冒頭部分の発言ですが、この部分の意図と背景を知ったうえで、この対談を読み込むと色々なことが見えてきます。

―― ところが、メディアの前面で、そういう声を出せる場がなくなっているわけです。僕の作品を聴いてくださる方があるのは、とてもありがたいことです。 でも、もしマーケティングで考えられたら、現代音楽の聴衆は本当に数が知れています。これが同じ僕でもベートーベンとかバルトークとか古典を演奏すれば、 クラシックファンというのはもう1ケタくらい増えるでしょう。でもそれだって、クラシックは徹底してマイナーで、ポップスの比ではありません。

 それらと比べて、40歳を過ぎてから、考えがあって書き始めた読み物の方が、はるかに社会的反響は大きいわけですね。この日経ビジネスオンライン も毎日、数百万人のアクセスがあって、毎週僕が書くものも何十万という人が目にして、厳しいコメントを返してもらえることも多くて。もう3年目に入りまし たが、とてもいい経験というか、勉強にもなっているわけです。

この対談のテーマは、ぼくが問題にしている「ユニバーサルとローカルあるいはローカリゼーションの必要性」と直結しています。電子デバイスのインターフェースに地域差を尊重することと、バッハやベートーヴェンにあるフォークロア的な要素に関する感じ方の違いと共通部分をどうみるか。こういう視線でみれば日本的インターフェースをヨーロッパで平気な顔をして売れなくなるはずなのですが、どうも面の皮が厚いのではなく、単に自慢の感性にも磁場があるようだとしか言いようがないと結論づけざるをえない状況を「半ば意図的」に作っています。垂直構造でもやれる、水平展開には耐えられない・・・という次元の前に、こういう問題が横たわっているので、そのためにヨーロッパ文化を理解する意味をまず把握してもらわないと困る、ということになっています。

今月は、このブログももっと頻繁に書いていこうと思います。

*「安西洋之の36冊の本」は以下から3回連続で書名と200文字コメントをレポートから転載しました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1942

2009年8月8日土曜日

職業の最適化を求める

前回の八幡さんの記事に対する茅根健(ちのけん)さんのコメントです。今、日本でも労働人口の流動化が盛んに言われていますが、「流動化」は国内だけでなく、産業がフラットになるのと同様、労働力の面でもフラットと流動化の視点が重要です。シリコンバレーにおけるアジア人が例によくあげられますが、どこで国の雇用確保と産業力の向上の線引きを引くか、常により厳しい問いかけがプレッシャーになりつつあります。


僕の記事に対する八幡さんの意見を読んで。

>世界が flat になればなるほど、自分の、そして自分の社会の立ち位置を他との比較で明確に把握する必要がありますから、内向き引きこもり傾向がますます強くなる日本に とっては、昔のドイツの職人の養成過程で義務づけられていたWanderschaft (日本の場合、海外での修行)を、大学卒業などの最終試験の受験条件にするくらいの発想がむしろ必要なのではないかと思います。

この八幡さんの意見には賛成です。もっともっと外に出る必要があると思いますが、と同時にその後日本に戻ってきたいと思わせる環境作りも同時に 行っていくべきではないでしょうか。またまた自分の業界の話になってしまいますが、やはりこちら(ヨーロッパ)で修業をしている日本人は多くの方が出来る ならばヨーロッパに居続けたいと考えています。それと、大切なのが「学ぶ」ことから「自分に何ができるか」へのシフトだと思います。この辺の線引きがまだ まだ日本人の方(自分も含めて)には難しいのではないでしょうかね。

また、

>今では、医師、弁護士、若手の研究者、将来は専門家として身を立てたいと思っている大学生(あるいはギムナジウムの学生)は、進んで機会を求めて国外へでてみるようです。

と仰っていましたが、これは自分が実際にドイツに住み始めて現地の人間とコンタクトをとるようになって実感するようになりました。が、現実的には 職場の環境や収入の面etc.でドイツに残るよりも海外に出た方がよいという面があるのも最近の傾向だよ、と友人のドイツ人が言っています。

安西さんが時々おっしゃっているに、やはり年々外国人のビザ取得などが難しくなってきており、EU域外の外国人に対するEU入国・定住などの門戸 が狭くなってきているように感じます。今のうちにその門戸を確保しておかないと今後ヨーロッパ―日本でのビジネスを考えたときにますます大変になっていく のではないかと個人的にも思います。だからといって自分にそのための打開策が思いついたわけではないのですが。。。

大した感想ではないですが、メールさせていただきました。

ベルリンも最近はようやく夏らしい天気が続いています。まぁ、どこまで続くかわかりませんが(笑)それでは、良い夏を。

ちのけん

2009年8月5日水曜日

若者の旅修行

ベルリン在住のバイオリン職人である茅根健さんは、イタリア、オランダ、ドイツの他の都市の工房で修行を積んできたわけですが、先日の記事「バイオリン職人「ちのけん」の目標」に対して、八幡さんからコメントをいただきました。自分たちの技量に自信をもつことが世界を知らなくてよいという陥穽にはまらない、いわば謙虚さをいかに持続するか、そういう問題点を指摘されています。

茅野健さんのドイツの師匠が言われた事には、確かにうなづけるのですが、一方、ドイツの職人の世界では、昔から、一定の修行を終えて Geselle として、自由行動を許された若ものが、他所の土地を回って修行する事(Wanderschaft) が、マイスターの試験を受けるための必須の条件でありました。20 世紀の後半にも、部分的には現実におこなわれていて、二人組の大工の職人が、固有の制服を着て、徒歩で旅をしているのに出会ったことがあります。違った土地、習慣、文化、人々に出会って識見を広める事が其の意味であったようです。

index.php.jpg(Wikipedia: Wanderjahre より。職業の異なった若い職人が、旅の途中で出会う。)


今では、医師、弁護士、若手の研究者、将来は専門家として身を立てたいと思っている大学生(あるいはギムナジウムの学生)は、進んで機会を求めて国外へでてみるようです。世界が flat になればなるほど、自分の、そして自分の社会の立ち位置を他との比較で明確に把握する必要がありますから、内向き引きこもり傾向がますます強くなる日本にとっては、昔のドイツの職人の養成過程で義務づけられていたWanderschaft (日本の場合、海外での修行)を、大学卒業などの最終試験の受験条件にするくらいの発想がむしろ必要なのではないかと思います。

2009年8月1日土曜日

バイオリン職人「ちのけん」の目標

何度もここに登場くださっているベルリン在住のバイオリン職人である茅根健さん(通称、ちのけん)から、興味深いメールをいただきましたので転載します。拙著『ヨーロッパの目 日本の目』で、ヨーロッパから学ぶのではなくヨーロッパ人と何か一緒にやるための文化理解が必要な時代になっていると書きました。その本の趣旨と同じことを茅野健さんは工房のボスから耳にしメールをくれました。

実は今日アトリエ主のAndreasから「日本人はそろそろヨーロッパで学ぶ、ということをやめないとだめだよね」と言われてびっくりしました。まさか安西さんと同じセリフをドイツでしかも自分の勤め先で聞くとは想像もしていなかったから。

彼曰く、学ぶということもはじめは必要だけれども、いつまでそのままじゃいけない。ヨーロッパのどこそこで学んだ、ヨーロッパの誰のもとで働い た、とかそういったことは重要じゃないと。大切なのは自分。つまり、ヨーロッパでヨーロッパ人と同じ土俵に上がってちのけんなら「ちのけん」の名前で勝負 しないといけないぞ、と。今はまだ始まったばかりだから学ぶことも必要だけれども、ゆくゆくはそれが必要だと。いつかはヨーロッパの人間が「ちのけん」の ところに学びに、働きに来るように頑張れと言われました。

楽器職人の世界ではいまだにヨーロッパ信仰・アメリカ信仰が強いです。日本の外で学ぶことがありがたいと。確かに、ヨーロッパにはたくさんの日本人の楽器職人の卵がいますし、現に自分のようにどこかの工房に所属して働いている人間もいます。楽器の製作コンクールでも日本人の名前が上位に食い込むこ とももはや珍しくなくなってきました。それでも、日本人の誰それのもとで勉強、労働をしたいというヨーロッパ人はいない。なぜか?前述のAndreas曰 く「それは、日本人がヨーロッパで学ぶということをいまだに続けているからなんだよ」と。

日本人の楽器職人は決してレベルは低くないし、ほかの工房で働く日本人のうわさを聞いても、ポジティブな意見ばかりで、中には「良い工房には必ず 日本人がいる。」という人もいるくらいです。でも、まだ同じ土俵に立って自分に何ができるかという考えのもと戦っている日本人は少ない。というか、まずい ないのではないか?

自分が今勤めている工房はヨーロッパやアメリカのほかの工房と比べてもかなりレベルの高い部類に入ります。でも、そこで働いたことや学んだことよりも、そこに行けば、あの「ちのけん」がいると言われるような存在になれるように頑張ろうと目標を立てました。

事あるごとに、このAndreasは今回のようなことを言ってくれて、そのたびに目が覚める思いです。

大したことではないですが、メールさせてもらいました。

それでは。よいバカンスを。

2009年7月24日金曜日

ブルガリアにとってのヨーグルト


人工物発達学という新しい分野をユーザー工学の黒須正明さんが提唱しています。その内容は「さまざまなデザイン」に書いた以下をご覧ください。民族学、文化人類学、民俗学、歴史学、考古学、工業デザイン、ユーザー工学、認知工学、情報行動学、人間工学、機械工学、システム工学などが関係してきます。

http://milano.metrocs.jp/archives/1831

この研究誌『人工物発達研究』のなかに、総合研究大学院大学比較文化学研究専攻のヨトヴァ・マリアさんの「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」があります。そこに興味深いことが紹介されているので、ここに概要を書いておきます。

ブルガリアの社会主義の時代(1944-1989年)はヨーグルトの家庭内生産から大量生産へシフトした時期で、新しい技術や新しいイメージの形成がなされ、21カ国のヨーロッパやアメリカの企業とライセンス提携がありました。しかし、現在も継続している企業は二つだけで、一つはフィンランドのパリョ乳業、もうひとつが日本の明治乳業です。しかも、ブルガリア発のヨーグルトのイメージも共生しているのは、日本だけです。これがまず一点です。二つ目は、1960年代後半に「明治ブルガリアヨーグルト」が誕生しますが、このまえに外交ルートを通じたヨーグルトの紹介はあったようですが、明治乳業による普及の力が圧倒的に強かったということです。

個人・社会的な個性化において食品はアイデンティティを見出す上で重要な役割を果たすという意味で、フランスのワイン、ブラジルのチーズ、ブルガリアのヨーグルト(ヨーグルトはただのヨーグルトではない)という表現をしており、選挙戦でジャーナリストが政治家に問う質問に「今、ヨーグルトはいくらかご存知ですか?」というのがあるそうで、庶民生活の「物価実感値」となっています。ただ、実際の消費は減少傾向にあり、一方、「ブルガリア人はヨーグルトを良く食べる」という自己イメージは増加しています。

この自己イメージの増大というのは、ヘルシーフードとしてのヨーグルトが現代社会に貢献しているというイメージ形成と、フランスの大手ダノンのブルガリア参入で、逆にブルガリアヨーグルトを相対視することで、自己優位性を確認するに至った結果だといいます。そして、この自己優位性を明確にするために、ヨーグルトという言葉のもつ国際標準的ニュアンスを避け、「おばあちゃん」の自家製ヨーグルトを強調するKiselo Miliako という名称を使うようになりました。しかし、ダノンはまさしくその「おばあちゃん」イメージを使い、更なるマーケティング戦略に成功したというのです。

したがって、ブルガリア人はダノンに対して敵対意識をもつことがままあるのですが、今度は自家製は食品衛生上の問題はないのか?という疑念が自国製品に対して生まれてきたのです。国際標準の食品が古い食品市場を新しく作り直し、そこで古い市場は伝統で戦い、グローバル企業はその伝統イメージを利用。その結果、品質イメージで伝統派は打撃をうけるという羽目に陥ったわけです。

さて、前述したように、日本が唯一といった形でブルガリアヨーグルトのブランド構築に貢献した結果、ブルガリアはそのイメージを逆輸入し、観光資源に利用しはじめます。「2400万人の日本人がブルガリアヨーグルトで一日をはじめる」といった紹介でブルガリア自身をアピールするわけです。もちろんメインターゲットは日本人です。日本人に農家滞在の経験をしてもらうなど、「ヨーグルトの里」を訪ねるというストーリーです。が、これはブルガリアの一部であり、もっと現代的なブリガリアを知って欲しいという願いがブリガリア人には当然あり、在日ブリガリア大使の使命が、ヨーグルト以外のブルガリアを知ってもらうことだということです。

ぼく自身の感想ですが、何かをイメージリーダーに仕立て上げないといけないが、それが強すぎると全体がみえにくくなるというジレンマが、このブルガリアのケースでみえます。また、日本の「一点主義」が、こういう傾向を助長することも指摘しておいて良いでしょう。

2009年7月21日火曜日

弦楽器業界も中国や韓国を選ぶ





昨日、ヨーロッパ企業がアジアの拠点として「日本を選ばない」ひとつの、しかし大きな理由に「漠然とした不安」があることを書きました。日本の多くのビジネスマンは日本が情報流通のなかに入っているから、外とつきあうかどうかは自分の選択でどうにでもなると思っている傾向が見え隠れします。ところが、その情報の渦のなかではなく、案外、渦の周辺に位置していることを認識しないといけないでしょう。「日本には全ての情報がある」のではなく「日本でも一部の情報はとれる」ということです。

先日メッセージをくれたベルリン在住のバイオリン職人・茅根健さんも、ヨーロッパの一流楽器店は韓国や中国に拠点をおく傾向、あるいはアメリカ信奉が強すぎる日本の楽器業界という実情を伝えてくれました。楽器の場合、音楽関係のヨーロッパへの留学生が圧倒的に中国と韓国出身が多いという現況との絡みもあるのではないかとも思うのですが、それは進出地判断の全てではないだろうと想像します。彼自身も、こうした状況に風穴をあけたいと考えはじめたようです。


ブログを読んでの感想です。

実は前から気になっていたのが、アメリカやヨーロッパの一流楽器店がアジアの流通拠点として日本でなく、韓国や中国を選び、そこに職人を駐在させ るということです。安西さんが今回のブログで書いていたことを読んで、このことが再び頭をよぎりました。なぜ日本ではなくて、韓国や中国なのだろう?とい う疑問が。

バブルのころは世界中のディーラーが良い楽器も悪い楽器もこぞって売りに来ましたし、また日本のいわゆる業者(ディーラー)もこぞって買い漁りました。

が、アジアが今後も楽器マーケットの中で軽視できない存在となっている今、彼らは日本でなく韓国や中国を選びます。この辺気になるので、8月のア ムステルダム訪問で少し話を聞いてみようと思います。アムステルダムには世界的に有名なディーラーの一人がいます。彼が今の楽器マーケットをどう感じ、今 後をどう予想するのか興味がありますね。ただ、かなり忙しい人なのでそういった時間をさいてくれるかどうか分かりませんが。トライしてみます。

また、先日アトリエで話した時に出た話題です。楽器業界も一時アメリカがけん引した時期があります。確かに戦後、アメリカにおいて多くの銘器と言 われるものが取引されましたし、そういったことを背景に製作や修理の分野でも革新的な進歩もアメリカを中心に行われました。でも、今良く観察してみると、 アメリカはそのころと今も変わっていないということです。つまり、まるで時間が止まってしまったように動きがないというのです。また非常に閉鎖的とでも言 いましょうか、いまだにアメリカが世界中の楽器業界をけん引していると誤解している人が多いということ。日本の業者さんもいまだにアメリカ信奉的なところ がなくもないです。まだまだヨーロッパのディーラーと対等に付き合いが出来ているかたは非常に少ないと個人的には思っています。自分はそういったところに 少しでも風穴が開けられればと、考え始めました。

それでは。

2009年7月20日月曜日

ヨーロッパ企業の対日消極性




ヨーロッパ企業が日本進出にあまり積極的ではないことは、今に始まったことではなく、随分以前から気になっていますが、昨日、その消極性が「漠然とした不安」に基づいていることをあらためて確認し、どうしたものだろうかと思っています。その昨日のエピソードは「さまざまなデザイン」(下記)に書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1820

あれがなくなったらいい、これがなくなったらいいということではなく、何らかの具体的な情報より、多くの間接的に耳にして目にする情報というのが如何に影響力があるか。ブランド構築の反証のような話です。中国のことも、否定的なニュースや経験を沢山しているのに、まだ「その気になる」確率が圧倒的に高い。

人は全ての情報を1から10まで揃えられるわけではないので、どこか不透明な部分で「前進か、停止か、後退か」を判断していかないといけませんが、日本へのアクセスに思い至る決定的な部分で何かが日本側に欠如しているとしかいい得ないとするか、それに至るためのヨーロッパ側の文化的特性がどこかで邪魔をするのか、かなり漠然としたテーマですが、もう一度深く考えないといけないなと思い始めました。

「日本文化部」を作るということではなく、「ヨーロッパ文化部」のコンセプトとしてもっと織り込むべき内容なのでしょう。

2009年7月19日日曜日

幹部の採用条件と料理のこと

八幡さんから、イタリアの医療関係者の海外志向に関する記事についてメッセージをいただきました。


医療関係のリクルート会社というのもあるのですか!面白いですね。

イタリア人に限らず、ドイツ人も、そして多分ヨーロッパ人は一般に、

>「生まれた国が気に入らなければ脱出する」

傾向があるようです。「祖先」というイメージが、日本人ほど国土と密着していないからかもしれません。さらに、仏教でも神道でも、日本人の祖先は「礼拝」の対象であり、神格化されますが、ヨーロッパ(キリスト教)ではそうではないので、土地を離れ、国を離れることにも、それほど高い壁を感じないのかもしれません。

日本のヨーロッパ駐在員(新聞社、製造業)の資質についてお話しあったことがありますが、同じような観察を、Ka Ryu さんと言う、名古屋大学大学院をでて、富士通総研の主席研究員をしている人が、中国の日本企業とその駐在員について書いています。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1280


お読みになったかもしれませんが、この当たりが、セミナーのテーマになりそうだと思いました。


ヨーロッパは各地でひどい悪天候であったようですね。

お元気でお過ごし下さい。


そういえば、会社買収と再生で有名な、日本のある会社の創業者は、早食いの人間を積極的に採用してきたというエピソードを思い出しました。彼の父親が、軍隊でよく動く人間は早食いという法則を教えてくれたそうです。それにしたがった結果、「上手くいった」とインタビューに答えていましたが、すくなくても海外進出企業については、料理に敏感な人間の方がよいとぼくも思います。


今年のミラノの夏はどうも風が多く、これは北の方面が悪天候で南の方が猛暑という全体図と関係があるのかなと思っています。


2009年7月17日金曜日

イタリア医療関係者の海外志向

先日、フィンランドに外国人の医者が増えているという記事を書きましたが、イタリアのボローニャで実施された医療関係者の海外就職のための面接に3日間で約400人が集まったというニュースが目に入りました。

http://www.corriere.it/cronache/09_luglio_16/medici_bologna_e8bbb4b8-7250-11de-87a4-00144f02aabc.shtml

医者、看護師、助産婦などですが、ここでいう海外とは英国などのEU内(先日の記事には、英国の医者不足が報じられていました)だけでなく、中東や北米など様々です。イタリア各地から集まってきていますが、若干、中部以南が多いかなという印象はあります。また、正確にいえばイタリア人だけでなく、イタリアで働いている外国人で「イタリアの外でチャンスを見つけたい」という人もいます。動機は給与だけでなく、職業上の経験を積み上げたいなどさまざまですが、やはり経済的理由がトップにありそうです。

この面接は、医療業界のリクルート会社が主催していますが、16年の歴史で約1600人を海外に送りだしてきたようで、彼らがイタリアに戻ってくることは少ないとのことです。一方、この記事に多くの読者からのコメントがつけられており、イタリアの専門職に対する冷遇や頭脳流出を嘆く声が多いです。

イタリアには「生まれた国が気に入らなければ脱出する」ということが(仕方がないにせよ)伝統的にあり、それが長い目で見たとき、イタリアを助けるいう構図があります。

2009年7月16日木曜日

ヨーロッパのプロフェッショナル

茅根さんのメール及びEUと韓国のFTA交渉に対する八幡さんのコメントです。

茅根さんの書き込みを読みましたが、ある資格を国境を越えて認めあうというヨーロッパの、EU成立以前からあった、プロフェッショナルな社会の慣習・通念のようなものが共通に体験されていますね。この辺が、国籍とか母国語とか、個人が取得した能力・資格以外の、個人の努力では越え難い壁を先ず前面に押し出してくる日本との違いが見えています。

国境を越えての人々の移動でも、そう言っては何ですが、単純労働と技能等の有資格者を等しく扱いたい(外人労働者)国とは違うのだということを、はっきりさせることも必要だと思います。

韓国とEUとの2国間協定の話は、大分前から出ていたのですが、外交取引では韓国にやられましたね。日本側は、EUが交渉に応じないといってますが、日本からのアプローチの仕方と、「認識」のありかたに先ず問題があったのではないでしょうか。

スイスに日本資本の工場を造って、Made in Swiss の製品をEUに売り込むしかないかもしれません。さもなければ、製造会社が独自の営業で売り込むことが主流になっている現状を見直して、かつてのように、総合商社のネットに乗せて輸出することを考え直してはどうでしょうかね。

これを読んで思い出したのが、国籍あるいはシチズンシップの問題です。日本人であるためには「日本人らしい」というのが暗黙の期待値に入っている特殊性です。ヨーロッパにおける帰化問題でもそれは少なからずありますが、期待値が極めて高いのが日本文化です。それからEUのETAについては、もっと実際の戦略論議に入ってしかるべきなのに、どうも盛り上がりに欠けるのが不思議なところです。韓国の「認識のあり方」に、もっと慌ててよいと思います。


2009年7月15日水曜日

バイオリン職人の茅野根さんの感想

以前、「さまざまなデザイン」(下記)で紹介した弦楽器職人である茅根さんからメールをもらいました。彼はドイツの工房で働いているのですが、八幡さんのコメントを読んでの感想です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1067
http://milano.metrocs.jp/archives/1076

そういえば、他人にもわりと軽く自宅の鍵を渡して留守中に掃除をしてもらうという習慣がありますが、お客さんに自宅内の各部屋を案内するのを含め、こうした空間の扱いの違いもどこかで関係してくるのかな・・・とも想像する次第です。

こんばんわ。お元気ですか?

さて、今日は安西さんのブログの一つを読んでいて、確かにそうだなぁと思ったことがあります。「外国人の医者」に関するブログです。

新しいブログでは、八幡さんの「外国人の医者を巡って」に対する意見が述べられていて、うなずくことがいくつかありました。

>母国語のレベル」といっても、どういう分野の、どの程度の言語能力かということが問題で、逆に、プロフェッショナルな世界では、特に、理学系・ 技術系の場合(医学もそれに入る)、テクニカルタームには大きな共通性があるので、言語能力の問題よりも、「うで」の方が重要だということではないでしょ うか。

これは自分がヨーロッパでいろいろな工房を回ったり、実際にいろいろなところで働いてみて同じようなことを感じました。楽器職人の世界でいえば、 最低限作業をするのに必要なレベルの言語能力を有しているならば、あとは職人の「うで」次第だと思いますし、向こうもそれをまず見極めてきます。必要最低 限の言語レベルと書きましたが、具体的に言えば、「~を切る」とか「~を削る」とか「~を塗る」とか。作業をするうえでの動作を理解できること。それと、 自分たちが使う道具などの名詞を理解できること。最低限この2つをクリアしていれば、作業にまず支障はないと思います。まぁ、工房によっては言い回しが 違ったり、特有な言い回しをすることもありますが、それは大した問題じゃないですし、外国人に限らず、現地の人間にとっても慣れなければわかりません。

2つめですが、

>わたしも、いつか、コペンハーゲンの商科大学の研究所に3ヶ月ほど研究滞在した時には、おそくまで研究室にいると、最後に帰宅する所員が、建物のマスターキーをもって来て、あとは宜しくお願いいたしますというのには、ちょっと驚きました。

これもいろいろなところで自分も体験をしています。ほんの1カ月しか実習滞在するだけなのに、お店の戸締りをすべて任せたりとか。今日は早めに上がらないといけないから、君が戸締りしてね、と鍵をすべて託されるということはしょっちゅうでした。

ブログに対する意見というよりは、共感することが多かったのでメールしました。

2009年7月14日火曜日

EUと韓国のFTA交渉

この2月、日本はスイスとFTA(自由貿易協定)/FPA(経済連携協定)に調印しました。アジアや南米の国々とは既にそのような関係をもっていますが、ヨーロッパの国とは初めてです。既にスイスとEUの間はスムーズな地ならしがされていますので、この調印により、日本はスイス経由でEUに進出しやすくなります。関税の段階的撤廃だけでなく、日系企業がスイスに会社を設立する際にスイス人を役員に含めなくてもよい、日本人の滞在許可証発行に関する人数が無制限、といった環境ができあがります。

以上が日本の対ヨーロッパ状況ですが、今日の記事によれば、韓国とEUのFTAは年内にまとまる可能性が高いとのことです。

http://www.thelocal.se/20642/20090714/

この7月からEU議長国であるスウェーデンの首相が、年内決着を目指すと発言したようです。EU加盟国27カ国の賛同が得られないといけないわけですが、スウェーデン首相は反対国の賛意を早急に取り付けるつもりであるということのようです。懸念事項はありますが、韓国にとって、EUは中国についで二番目の規模の貿易取引地域であることから、障害は突破したいというところです。

多くの韓国製家電や通信デバイスあるいは自動車が関税なしにEUに入ってくるとき、日本製は更に不利な立場に追い込まれるわけですが、スイスとのFTA/FPAの威力がどう発揮されるか・・・これは注視すべき事柄です。

外国人の医者を巡って

前回の「フィンランドの外国人の医者」に対して八幡さんからコメントを頂きました。

およそ医者に身を預ければ、後は任すしかなく、言われたように動くしかないというのが患者の立場であり、病気の内容をよりよく説明して欲しい場合、それは知識の問題であることが多いので、日本の外国人看護の導入で言われる理由に怪しさがあるのは、ぼくも同感です。

もう一つ、プロフェッショナルな資格の普遍性という指摘は興味深いです。これはEU内での資格共有ができた大きな文化的背景といえそうです。もちろん、それでも、フィンランドで医者のライセンスを取得するのに、EU市民であれば言語テストがないのにEU外の場合はより厳しいという、この線引きの理由にいろいろと「鍵」があるかもしれません。

これ、ドイツでは、1960年代からあった状況です。私事になりますが、妻は、ドイツでも、何回も入院して手術を受けた(そしてその度に前よりも元気になる)のですが、ミュンヘン大学の付属病院に入院した時、執刀医はチェコ人、麻酔医はインドネシア人でした。看護師にも、フィリッピン人や韓国人がおりました。ケルンの病院でも、同様でしたね。

もともと、医学部は入学志願者が多かったのですが、それでも、医学部学生の定員の一割を外国からの留学生の為に空けてありましたし、ドイツ人の医学生が国家試験の前に義務化されている実習の場所も、ドイツ国外のどこででも好いようになっていました。法学部の学生もそうでした。

「母国語のレベル」といっても、どういう分野の、どの程度の言語能力かということが問題で、逆に、プロフェッショナルな世界では、特に、理学系・技術系の場合(医学もそれに入る)、テクニカルタームには大きな共通性があるので、言語能力の問題よりも、「うで」の方が重要だということではないでしょうか。

「母国語」のことも、人口10万人当たりの医師の数が、日本は198人(2002年)、ドイツは337人(2003年)、イタリアは420人(2004人)で(データ:WHO. 50年前と状況はあまり変わっていないようです)あることを考えると、むしろ、国外からの流入を阻止して、医師の収入を確保しようという魂胆の道具に使われている可能性があります。

さらに、ヨーロッパでは、以前から、プロフェッショナルな「資格」については、国境や文化の壁を越えて、大きな普遍性を認めあっていたように思います。

わたしも、いつか、コペンハーゲンの商科大学の研究所に3ヶ月ほど研究滞在した時には、おそくまで研究室にいると、最後に帰宅する所員が、建物のマスターキーをもって来て、あとは宜しくお願いいたしますというのには、ちょっと驚きました。

2009年7月10日金曜日

フィンランドの外国人の医者




医者と患者の間のコミュニケーションが大事なのは当たり前ですが、OECDのレポートによれば、どこの国でも外国人の医者が増加しているようです。EU域内でEU市民は移動自由ですから、そこで増加するのは当然ですが、EU外の外国人も増えています。

http://www.helsinkitimes.fi/htimes/domestic-news/general/7014-immigrant-doctors-fill-a-gap-in-the-market.html

フィンランドもこの5年での伸びは大きく、ロシア語やエストニア語を話す医者が多くなっています。ここで興味深いのは、EU外の医者はフィンランド内で治療を行うに際し厳しい訓練を経てライセンスを獲得しますが、EU市民の医者はフィンランド語のテストさえ必要ないというのです。フィンランドではフィンランド語がメインでありながらも、スウェーデン語を話す地域もありますから、両方の言葉ができないと商売にならないというわけですが、この上の記事で気がつくのは、言葉によるコミュニケーションの問題を取り上げながらも、言葉の問題が医療活動の障害のメインとしては扱われてこなかったということです。ですから、EU市民であれば、語学テストが不要だったわけです。

「まあ、ちょっと時間が経てば、支障なくコミュニケーションができるだろう」という考えがあるのでしょうか。これは、複数言語を操るのが当たり前の社会での、極めて普通の発想であるということではないかと想像しました。医療活動の分野によっては、母国語と同じレベルでなくても「なんとかなる」という考え方が、こういう社会を作っていくのでしょう。あまり神経質にならないことの重要性を語っている。そのような印象をこの記事を読んで思いました。

2009年7月6日月曜日

旧東ドイツの快適性とスイス外交官の快適性





今年はベルリンの壁が崩壊して20年目にあたるため、「20年後」の記事が目に付きます。ぼくは20年前、イタリアに来るために色々と日本で動いていたのですが、ベルリンの壁がなくなったとのニュースは、ヨーロッパのリアルな姿を見つめるという動機を更に高めてくれました。翌年、東ヨーロッパをクルマで旅行したとき、新しいヨーロッパについて友人と大いに語り、新時代の到来に夢を膨らませたものです。

しかしながら、半数以上の旧東ドイツ人が「昔の社会が良かった」とアンケートに答えているのを読み、「あの時とそれ以降の、西ドイツの犠牲と痛みをどう思っているのだ!」と旧西ドイツの人達は思うのだろうかとも想像してみました。

http://www.spiegel.de/international/germany/0,1518,634122-2,00.html

その頃若くて、東ドイツの秘密警察の怖さを知らなかった世代だけでなく、ドイツ統一後の世界で成功を収めている人間でも、現在の社会の矛盾にヘキヘキとしている様子が伺えます。これは旧東の体制がマシかどうかの問題というより、現代社会の抱える問題そのものにどう立ち向かうべきか?に話の焦点がいくのが妥当なのでしょう。いずれにせよ、こういう社会風景のあるところで、ドイツ政府のトップが米国型資本主義に全面の賛意を表しないー今回の経済恐慌に対する財政支出に関する両国の違いーのは十分に想像のつくことです。

もう一つ、気になる記事があります。スイスの駐タイ大使という役割を外交官夫婦がワークシェアをするというニュースです。外務大臣自らバックアップしたがゆえに実現した話ですが、これを個人的な問題解決案としてだけではなく、スイスの外務省の新しいイメージとして活用しています。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/Husband_and_wife_team_form_a_diplomatic_duo.html?siteSect=107&sid=10900603&cKey=1246708754000&ty=st

お互いが得意な分野あるいは相性のよい対人関係もフルに生かすことになりますが、結局、目指すところ、「人が生きれる快適性」にあります。それが外交関係にも弾みがつくということにもなります。

上の二つの記事は全く関係がありませんが、ヨーロッパ人の目指す社会像がどんなアングルから見ても、かなり一つに点に絞られるだろうことは窺えます。