2009年5月21日木曜日

頓智・のセカイカメラの最近





今まで何度か取り上げた頓智・のセカイカメラですが、先週、世界1300社から50社に選ばれ米国のTiE Conferenceで受賞プレゼンを行っています。その時のプレゼン内容が以下です。以前より随分とこなれてきました。

http://www.youtube.com/watch?v=1De9YCeKz_A

又、日経コミュニケーション編集長との対談が以下にあります。井口さんの発想が柔軟であることがよく分かります。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20090501/329438/?ST=keitai

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20090501/329431/?ST=keitai

井口さんのブログにある下記は示唆的です。

そういう意味では、セカイカメラのアニメ化というのは凄くやってみたいことのひとつです。それは磯監督との対談でも感じた事なのですが、もはやITサービスは単なる技術的案件であるに留まらずライフスタイルを内包した社会学的現象であるべきなのですね。 ですから、アニメーションを通じた生活感覚との共振現象とでもいうべきムーブメント化が可能なのであれば、それこそセカイカメラの世界観を拡張していくうえでも非常に有効なのではと思っています。頓智・としては新しいデバイス開発も含めて連動可能なアニメ化企画をお待ちしています。

「ITサービスは単なる技術的案件であるに留まらずライフスタイルを内包した社会学的現象であるべき」という部分に注目しています。こういうことを頭で分かる人は多いのですが、それが具体的にどういう全体イメージなのか?というのは、もともと世界全体を一生懸命一人で把握しようと努力してきた人間でないと、実感できないものです。人間中心設計やデザインについて書いている棚橋氏のブログにある下記のような焦りや苛立ちを感じた人間でないと、直面する世界に対応しきれないでしょう。

繰り返しになりますが、モノが会話などのコンテキストのなかにどういうコトバでどうやって登場するかによって、モノの評価などは簡単に変わります。それは 個々人の利用というコンテキストのなかにあるのではなく、もっと大きな社会のなかでの利用のコンテキスト、社会におけるコトバのコンテキストのなかにある わけです。
それは狭義の人間中心設計が無視しているところであり、従来のマーケティングが相手にしてきた領域です。僕はそれを統合的に広義の人間中心のデザインとして統合していく必要を感じています。

<中略>

従来の人間中心設計的な考え方は、見事にその罠にはまってしまっています。そこには白川静さんや杉浦康平さん的世界もないし、これまでのクリエイティブの 世界の人々が活躍してきた世界観も見殺しにしてしまっているし、民藝的な世界も、エコロジカルな世界も拾えていない。そんな狭い箱のなかに閉じこもってデ ザイン云々をいっててよいのかしら?というのが僕の疑問。

これは、ぼくが「さまざまなデザイン」に書いた以下のコメントに近い内容だと思います。

DSやWiiの任天堂が携帯電話に進出すれば、それは従来の地図からすれば産業の上下関係を崩すと見られがちですが、より人間に近いところで感覚的な要素を重視される分野が、そのノウハウを使って生活シーン全般まで商品領域を拡大するという見方をすべきです。卑近な言い方をすれば、女の子と付き合ったこともないハイテクおたくの男の子が、女の子の喜ぶケータイを作れるか?という疑問に答えが出てくる時代になってきたのです。

2009年5月18日月曜日

日本人の感性は世界に通用する(?)

この前のエントリー「任天堂のローカライズ」において、岩田社長の「日本人の感性は世界に十分通用することを証明したのではないでしょうか。」 という言葉に疑問符をつけましたが、この部分について八幡さんよりコメントをいただきました。

此れは、「ガラパゴスの罠」の入り口のような感じがします。「感性」は、そもそもが、理性とは独立に存在したり、機能したりはしないはずです。もし、感性だけが機能して、理性を完全に欠いている人間がいたとしたら、そりゃ、モンスターでしょう。

日本的な創造性の特徴が、西欧的なものと異なっているのはごく自然ですが、それを、理性的なものを抜きにしてでき上がったと考えることが、アブナイのではないではないでしょうか。

日本的感性の象徴とされる枕草子にしても、源氏物語にしても、それぞれに、きわめて優れた理性的な構成、批評精神、物事の本質を的確に把握し、それを、見事に言語的に〈普遍的に〉表現する能力が横溢してます。そのように、小生の友人の社会学者も見ていました。このような理性的な精神が、11世紀の日本にすでに存在していたことは、西欧の歴史から見て驚くべきことだと。

いわゆる、感性だけでは、単なる私的な日記記事も、書けない筈ですから。日本的な特徴を、「感性」によるものだと捉えたがる心性こそが、理性的/論理的なものから逃避したい心理のあらあれであり、そのような、穴蔵希求的な精神傾向が、ガラパゴス化現象の原因だろうと見ているのですが。

少し前までの日本には、「真剣勝負」に直面する状況があったわけですが、これは動物的な本能的な反応もさることながら、理性的な読み・判断も決定的な意味を持っていました。今の経済社会では、リスクテーキングがそれに当たるようですが、情緒や感性だけではリスクをとる決断へ出来ませんね。

リスクをとらないことと、ガラパゴス化には、このような、水面下の共通点があると思うのです。日本的な感性が日本の個性だと言うような言説もありますが、個性が個性として成立する為には、普遍的な基盤を踏まえ、その上に立って、しかも尖っていることではないでしょうか。普遍的なものを無視し、あるいはそれから離れて個性を主張しても、それは、所詮、真剣勝負を避けているハグレオオカミの遠吠えでしかないでしょう。

すべて、言葉である限りの言葉は、すべて論理的であるはずです。さもなければコミュニケーションの役には立ちませんから、言葉ではありえない筈です。「感性」偏重は、ガラパゴス化の陥穽であると考える所以です。

任天堂は、自分のところのソフトやハードが海外で受けたことの裏にある論理を把握していないのか?そう言う論理が介在したことが成功の理由だとは認識していないのか?

任天堂もアブナイですかね?

任天堂は娯楽分野であるがゆえに、他分野ほどに異文化をあえて考える必要がなかったのであり、DSやWiiが海外市場でも大成功を収めたことをもって、任天堂がユニバーサルなロジックとは何かを掴んでいるとは言い切れないようです。もちろん成功してナンボというのがビジネスですから、この成功はこれで称賛してしかるべきにせよ、岩田社長の言説をもって、「日本人の感性でバンバンやっていいんだ!」と思い込んでしまうと、大きなミスをおかすことになります。

任天堂にみるローカライズ

東洋経済オンラインを眺めていたら、DSやWiiでヒットを飛ばしている任天堂の社長インタビューのなかに、製品開発と文化について触れている部分があったので引用します。

――任天堂の商品は海外でも支持されています。開発段階から海外展開を意識しているのですか。

 人が何を面白いか ということに関しては、文化に根差しているものと、人が普遍的に感じているものがあるのではないかと思います。ただ、人が何を面白いかということを測定す る方法もなければ、理論も確立されていない。われわれは、あくまで仮説を立てて、それに基づいて行動しているにすぎません。それでも、なるべく多くの人が 興味を持ってくれそうなテーマを探していますが、「脳トレ」をつくったときやポケモンのキャラクターを展開したときに、世界中に受け入れられるとわかって いたかというと大いに疑問ですね。

 ポケモンを海外展開する際に、現地の関係者が言ったことを今でも忘れません。「こんなかわいいのはモ ンスターじゃない」と。米国で売りたいならこうしろと、筋肉ムキムキにした企画案の絵が送られてきた。そのときに前社長の山内溥(現相談役)は「成功例が ないのなら、なおのことチャレンジする価値がある」と言いました。娯楽はほかと違うから価値があるわけで、違うものがうまく行ったときにはすごく大きくな る。日本のまま変えずに行け、というのが山内の示唆でした。

 「脳トレ」も最初から勝算があったわけではないけれども、多くの人が興味を持ったということは、日本人の感性は世界に十分通用することを証明したのではないでしょうか。

――海外展開の際に、バージョンを変えるケースもあるのですか。

  ソフトによっては「ローカライズ」と「カルチャライズ」を意識します。ローカライズというのは単純に言葉を変えるだけなのですが、カルチャライズというの は現地の文化に根差した要素を足すということです。例えば「脳トレ」のときは少し工夫をしました。発売時点で川島隆太先生(脳トレの監修者、東北大学教 授)の知名度が国内とは違っていたので、興味を持っていただくきっかけをつくりたいということで日本生まれのパズル「数独」を(海外バージョンに)入れま した。数独は英国や米国で流行していたのですね。


娯楽分野は自動車や家電と違い、ローカリゼーションをしない分野といいます。ソニーのプレイステーションも〇Xなど日本の記号をそのまま使っています。任天堂の岩田氏は、「ローカライズ」と「カルチャライズ」と使い分け、ローカライズを狭義に使用しているようです。ぼくは、これはこれでいいのだと思うのですが、「日本人の感性は世界に十分通用することを証明したのではないでしょうか。」という言葉が気になります。海外市場で受けたのは、感性なのでしょうか?


2009年5月16日土曜日

フィアットのGMヨーロッパ買収計画

最近、気になっている動向を書いておきます。フィアットがクライスラーと提携合意した後にGMヨーロッパの買収に乗り出しました。この動きに対して、特にアングロサクソン系のメディアに「また、イタリア人が・・・」と、「ビジネス手腕は俺たちが上」と思わせるような書きっぷりが目立ちます。

以下の『エコノミスト』の記事も、その傾向があります。こういうのだけ読んでいると、頭の働きが自由にならない好例だと思うので紹介しておきます。

http://www.economist.com/opinion/displayStory.cfm?story_id=13610819&source=hptextfeature

別にぼくはフィアットを応援しているわけではなく、あくまでも、トレンドの掴み方として書いているのでご注意を!

袋小路にはまり込まない方法論




6月3日に日欧産業協力センターで行うセミナーですが、ぼくと八幡さんのディスカッションでは、「ユニバーサルとは何か? 日本文化のユニバーサル性とは何か?」をテーマにしていきます。これらの点が整理されないと、どうにも袋小路的な思考経路に入っていきます。

以下はトヨタと日産、それぞれのデザイントップがイタリア人デザイナーと対談した内容です。

http://response.jp/feature/2005/1227/f1227_1.html

http://response.jp/feature/2003/0404/31iot_kt0404_01.html

日本人のデザイナー達は、非常に理解するのが難しいことを話しています。何百万台という量産体制の会社のデザインフィロソフィーが、こんなに理解不能な内容で良いのだろうか?という疑問をもちます。ユニバーサルとは、コミュニケーションで理解しあえることです。どうも日本文化の特徴とは「言葉にならない固有のこと」だけであると思い込んでいる方たちが多く、この点にぼくは疑問を呈し、八幡さんと話し合うつもりです。

合理性はヨーロッパの特権ではなく、日本でも昔からある文化の一パートであると分かれば、上記のような難しい話に逃げ込まなくてすむはずなのです。昨年亡くなった加藤周一が『羊の歌』に書いていました。昭和の世界大戦時、日本は数量的に世界一となれないと、「もののあわれ」などに逃げ込んだ、と。もっと、我々は自由に日本文化を考えていいと思うのです。それが結果として、ヨーロッパ文化と手の繋げる部分を増やすことになります。即ち売れる商品開発です。


2009年5月12日火曜日

日・EU フレンドシップウィーク欧州セミナーのご案内



この2月より、ヨーロッパ文化部ノートでセミナー企画の方向性を探ってきましたが、第一弾が決まりました。経済産業省とEUのJVである日欧産業協力センター(千代田区一番町)で実施します。以下、ご案内をペーストします。6月3日、お会いできることを楽しみにしています。


日・EU フレンドシップウィーク欧州セミナーのご案内

欧州市場の文化理解とビジネスへの活かし方
日 時 2009 年6 月3 日(水)午後15:00 ~ 17:00
会 場 日欧産業協力センター
参 加 無料 言 語 日本語

5億人の市場をもつ欧州。その市場でいま、日本製品の存在感は低下しているのだろうか。それは、日本企業の欧州あるいは欧州文化への関心の低さと関わりがあるだろうか。このたび、日・EU フレンドシップウィークを記念して、欧州文化の再認識と、文化理解をビジネス・製品開発へどう活かすかをテーマにセミナーを開催致します。

概 要
孤立したガラパゴス諸島からの脱出方法
― プラットフォーム作りに方向転換する時代の文化理解 -

独自の生物進化を遂げた南太平洋のガラパゴス諸島になぞらえ、日本市場のガラパゴス化が言われるようになって久しい。日本では成功する製品が、多くは標準仕様の設定のギャップから、海外では悉く敗北する傾向にあることを指している。先行する発展が世界を引っ張ることなく逆に乖離を促してしまう。携帯電話の孤立性を表現するために使われはじめ、その他、ゲームソフトやカーナビなどが例にあげられやすい。しかし、残念ながら、この傾向はITや電機業界だけでなく、あらゆる分野にあてはまることを、あらゆる分野のエキスパートが指摘している。

‘70年代に日本の輸出力が高まり、MADE IN JAPAN が高品質のブランドとなったが、今からみると、そこにもガラパゴス化への分岐点はあった。高品質は肯定されるが、過剰品質は否定される。その問題に正面から向き合わなかった。高品質で多機能であることに普遍性があると思い込んだ。ここに陥穽があった。我々にとって良いものが、必ずしも隣人にとって良いものとは限らない。

一方、海外の国に目を向けてみると、ガラパゴス的陥穽に落ち込む危険が全くないわけではなく、同じようにその危険性はある。ただ、共通する文化土壌の広さや、常に隣人の存在を意識せざるを得ない環境があることが多い。米国製品や欧州製品がガラバゴス的とは言われにくい背景がここにある。すなわち、プラットフォームが共有されやすいことが有利に働いている。

プラットフォームとは基盤という意味で使っている。製品仕様ではソフトウェアがのるハード部分を指したり、ソフトウェアではオペレーションシステムを意味したりする。階層の下部構造である。プラットフォームの成功具体例では、スウェーデンのIKEA(家具)やオランダのTomTom(カーナビ)が挙げられると思う。

ここで我々は一つの仮説をたてた。ヨーロッパ文化には「普遍性への志向」という特徴があった。日本文化がどちらかといえば「固有性への拘り」が強かった。それが世界で普及するプラットフォーム作りを不得手にした遠因ではないか、と。したがって、何がユニバーサル文化か?何かローカル文化か? これらを把握するフレームをもつことが大切ではないか、と。

従来、ヨーロッパ文化は「北欧エコロジー」「地中海ライフスタイル」という範疇で扱われることも多い。ここではユニバーサル文化を推進してきたアイデアマンたちの考え方の土台とその今を知ることフォーカスする。

プ ロ グ ラ ム
司会進行 安西 洋之 氏(ヨーロッパ文化部主宰:在欧ビジネスプランナー)

15:00 開会の辞 日欧産業協力センター 事務局長 塚本 弘 氏

15:05 「なぜ欧州ビジネスに文化理解が必要か?」

‘80年代後半の冷戦終結で文化が前面に出るようになったと言われるが、製品ビジネスでは電子機器のインターフェースの普及が、市場文化理解が求められる一つの理由となろう。また、プラットフォームを考えるにあたっても文化理解は必要になる。それもアカデミックな知識ではなく実践的な理解が大切だ。今年4月のミラノデザインウィークの事例なども示しながら、具体的方向を探る。
講師:ヨーロッパ文化部主宰 在欧ビジネスプランナー 安西 洋之 氏

15:45 「ヨーロッパのプラットフォームと日本文化」
江戸の賢人たちは、かなり西洋的合理性を理解していたと思われる。しかし、維新による歴史の断絶が「日本らしさ」とは情緒性や繊細な感性のみであるとの思い込みを生んだ。これがユニバーサルなプラットフォームを作りにくくしている。ヴィジョンのあり方や作り方のヒントを考えていく。
講師:元上智大学教授(社会学) 八幡 康貞 氏

16:25 質疑応答


17:00 閉会の辞 日欧産業協力センター 事務局長 塚本 弘 氏


講 師 の 紹 介
安西 洋之
ビジネスプランナー:1983年、上智大学文学部フランス文学科卒業 いすゞ自動車勤務後、1990年よりイタリア在住。2000年 日本と欧州のインターフェースとしてモバイルクルーズ株式会社を設立。自動車、建築、デザイン、ユーザビリティなど多岐の分野に関与してきた。ブログ「ヨーロッパ文化部ノート」(http://european-culture-note.blogspot.com/)「さまざまなデザイン」(http://milano.metrocs.jp/)で広義のデザインのあり方を探っている。

八幡 康貞
社会学者:ミュンヘン大学博士課程で社会学を勉強後、15年以上ドイツにてジャーナリスト活動や研究を行う。帰国後、日本大学国際関係学部助教授,上智大学比較文化学部教授を歴任。その間(1992-1997)ザンクトガレン大学,チューリヒ大学,ハレ=ヴィッテンベルク大学客員教授。現代欧州を多角的にフォローしている。

申 込 み
申込用紙にご記入の上、FAX(03-3221-6226)またはEmail(seminar@eujapan.gr.jp)でお申込みください。申込み受領後に受講書・会場地図をお送りいたします。
氏名
会社
部署
役職
Tel
Fax
Email
業種

<問合せ> 日欧産業協力センター TEL : 03-3221-6161 Fax: 03-3221-6226 (担当:樋口・宮本)
※ご記入頂いたお客様の情報は、適切に管理し、本セミナー運営のために利用いたします。

2009年5月2日土曜日

デンマークの社会主義者




メーデーにちなんだ記事で目を引いたのが、これです。デンマークの記事です。

http://politiken.dk/newsinenglish/article701442.ece

若者の労組離れという現象がありながら、調査によると三分の一の人達が「私は社会主義者である」と答えています。従来の社会主義と、もっと緩やかな共同体重視的な意味合いで社会主義と名づけている、二つのカテゴリーが混合しています。

右翼と左翼という区別もそうですが、何が右で何が左というのは、極めて定義づけが難しく、時代、国、テーマによって同じ内容が右にいったり左にいったりします。この調査をみて、「社会主義者」というのもポジションが変わりつつあるだけでなく、定義そのものが変化してきていることがわかります。人々がそう思い、そう使い始めれば、定義は変わるものです。

それが北欧の一国、デンマークでこういう変化が起きている。今後、フォローしていこうと思います。

2009年5月1日金曜日

ミラノサローネ2009あるいは情緒のこと






鈴木光司の『情緒から論理』(ソフトバンク新書)という本が出たようです。まだ読んでいません。ひとつアマゾンのレビューを読んでいて気づきました。

まずこの著者は、日本人は古来から情緒的な民族であり、『国家の品格』の藤原正彦が語る「情緒へ」というのは、非常に合理的な西洋人に対してこそ効果のあるアピールだということを語っています。

現代は情緒の時代であることは、日常生活でも感じることはあります。同時に、近代以降に登場する合理性や論理などといった価値観に疑いの目が向けられてい るという風潮もあると考えられます。そのような意味で、私たちは「情緒」の時代にいると思います。日本においては、大局的にみると明治維新から高度成長ま では日本の近代化の時代であり、それらを性急に推進するためには徹底した合理性と、論理的思考が必要であったと考えられます。また、その間に共産革命や大 戦を経験しています。


上記はレビューの一つですが、現代は「近代以降の合理主義に疑念をもった情緒の時代」と書いています。維新からの合理性の時代が終焉し、情緒の時代に移行したということです。つまり、維新以前の伝統に戻っていると言いたいようです。現代を情緒の時代というかどうかはさておいて、さて、情緒性とは果たして日本の伝統なのでしょうか?少なくても、合理性との相対的な位置において、日本では情緒性が何よりも優先されてきたのでしょうか?ぼくは、ここを突っついてみないと、話は行き詰まりばかりではないかと思います。

「さまざまなデザイン」でミラノサローネにみるデザイン及び文化トレンドを観察した感想文を書いていますが、上記で引用したような意見「日本の伝統は情緒である」という考え方は根強く、それがゆえに、前回のエントリーでも書いたように、レクサス L-finess に見るように「行き止まりのコンセプト」を作ることになっています

そして、以下でも書いたように、「日本らしさの表現」がコアであるような見方をする限り、開発者もそれに引っ張られます。IKEAのコンセプトにおいて、スウェーデンらしさは「のせるもの」であることに気づくことが大切だと思います。

http://milano.metrocs.jp/archives/1582

6月初めに都内で実施するセミナーでは、八幡さんに、日本の歴史において合理性は異端ではなかったことをお話しいただこうと思っています。この捩れを解いていかないと、「高品質・高機能の日本製品」以降のビジネスは、素材メーカー以外は、冴えない結果を導くばかりです。