2009年9月29日火曜日

地図の描き方で文化差は見えない?


ぼくは『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』の冒頭で、イタリア人の描く地図を例としあげました。

ミラノからスイス国境近くの彼の別荘に出かけるに際し、まっすぐ一本のラインを引いて「高速道路のこの出口で下りては駄目!」というNO!の連続を記してくれたのです。北を図の上におくとか、道路のカーブなど一切を無視した地図です。これをみて、考え方が実に連続的であると感じ入った覚えがあったのです。

この例に限らず、ヨーロッパ人の地図の描き方は鳥瞰的な地理把握をあまり得意とせず、「あそこで右に曲がって500メートル行き、その先を左に・・・・」というような把握の延長線で書くので、一枚の紙に書ききれずに、次の紙を必要とすることがままあります。それに対して日本人は地図を地図の文法で描くことを苦とせず、A4の紙に全ておさまるように出発点から終点までを描ききることを普通としており、ここに頭の働き方の違いをみました。



しかし、一つ疑問がでてきました。確かにデスクに落ち着いて地図を描くのであれば、こういう差が文化差としてでてきますが、例えばクルマを運転している最中に、こういう頭の働き方の違いが出てくるだろうか?ということです。クルマの運転のように直前の状況に集中しているとき、鳥瞰的な位置把握を瞬時に行うことは可能か?もし不可能であれば、それはイタリア人が描いたような「ここで出るな!」的な発想に極めて近くなるのではないだろうか?ということになります。

人の位置把握には状況次第のことがあり、確かに静かな状況では地図教育の差が出てくるかもしれませんが、ダイナミックな状況ではそうした地図教育の差は出てこず、もっと人の基本的能力がモロに出てくるのではないだろうか・・・・ということが言えそうです。地図の使用はタイミングを間違えてはいけないことを「さまざまなデザイン」に下記書きましたが、裏づけの一つとして、以上のような仮説を挙げられるかもしれません。

http://milano.metrocs.jp/archives/2203


2009年9月27日日曜日

経済問題の見方を考える

いわゆる西洋的価値観が形作る世界が音をたてて崩れていくような20世紀であった・・・・ということを、21世紀に入っての9年で実感している人達が多いのではないかという感じがします。そして、それがよりスピードアップしています。そういうなかでヨーロッパ文化を語る意味はどこにあるのか?ということをよく考えています。一つはヨーロッパ文化を例に、ものの見方をどうつくっていくかということで、以下にメモを書いてみました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2222


もう一つ、多様な世界の実例を知ることが、精神的余裕を作っていくのではないかということも考えています。以下はその問題意識に対するダイレクトな答えではないですが、非常に密接な位置にあります。

http://milano.metrocs.jp/archives/2229


最近、ダボス会議の東京事務所ができたようですが、色々なところでダボス会議に毎年参加されている方の意見を読んだり聞いていて、「世界のリーダーが個人の資格で参加して新たなトレンドを作る」と説明するわりに、失礼ながら、どうもピンとこないことが多いです。ほんとうに状況が見えているのだろうか?と思うことが少なくありません。それだけのレベルを謳うわりには、三点観測から導かれたような意見であると思わせる印象をとんと受けないのです。

このあたりの違和感が、このごろ大きくなりつつあります。何かを語っているようで、何かとても大きな穴を見過ごしている・・・・という感じを強く受けるのです。これで本当にいいのだろうか・・・という気がして仕方がありません。ぼくはこのあたりの不安や不足感を根拠に今、自分で語れることの内容をひたすら探っています。

昨日、ローマ教皇が「経済に倫理を組みこむことが大きな挑戦的課題」という発言をしています。

http://www.corriere.it/politica/09_settembre_26/intervista-papa-gian-guido-vecchi_8639da18-aa95-11de-a0d4-00144f02aabc.shtml

これは先日の英国国教会の「経済はエコノミストに任せておくには重要すぎる」という発言と同じ問題意識に基づいています。

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article6836496.ece


宗教界が経済問題をこのように見ているなか、同じようなレベルで俗界の人達がものを考えているのか、それが気になります。それらしい言葉は聞くことには聞くのですが、宗教界が「大きな挑戦的課題」というほどにはダイレクトにシリアスに思っていないのではないか、それは宗教界のほうが状況の深刻さをより実感しているのではないか、という推測に基づきます。要するに、肝心なのは、目の前の現実をどう大きい範囲で深くみていくか?ということなのでしょう。




2009年9月23日水曜日

文化理解の目的を書く

「ヨーロッパ文化を伝える」を6回にわたり書きましたが(下記が最終回)、結局のところ、自分の立場と見方をヨーロッパ文化理解の仕方を通じて確立する実例という位置づけになりました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2210

「生活シーン」を重んじながらエピソードの羅列で終わらない鳥瞰的なポジションの獲得の方法。しかし、そのポジションの使い方は慎重を要する。こういう作業を経て、自分のオリジナル文化をどう見直すか。こんなことを書きました。これをプレゼンのストーリーに作りこんでいこうと思います。

2009年9月21日月曜日

「ヨーロッパ文化の伝え方」

本当はここに書こうと思ったのですが、どうも気分的(?)に「さまざまなデザイン」に「ヨーロッパ文化の伝え方」というエントリーを連日書いています。以下がスタートです。今日、3回目を書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2163

これをどういう目的で書いているかというと、ぼくなりのヨーロッパ文化の見方をポリシーという面から整理しておこうと思ったのですが、もう一つは、ヨーロッパに関係のない人達にも参考になる部分とは何かなということを前々から考えていたので、そのためのポイントを要約するという役割もあります。事前に構想をまとめて書いているわけではなく、その日に書き終えた時点で、次に何を書かなければいけないかを考えている状態で、話しが前後するところが出るかもしれませんが、勘弁してください。

ただ、このあたりのまとめを来月日本で行う勉強会のプレゼンに使おうとは思っています。

2009年9月18日金曜日

「・・で、日本はどうなの?」「えっ、大きい政府がトレンドでしょう」

昨日、バカンス明け初めてアイルランド人の友人に会うと、挨拶もそこそこに、「さて、民主党になってどうなの?」と知日派の彼は聞いてきます。ぼくがA、友人がIです。

A: いやぁ、民主党の考えがいいかどうかより、まず変わることが重要だったから、いいと思うよ。そりゃあ、できないことは沢山あるし、失敗も数多だと思う。でも、政権が変わらないよりはいい。

I: そうだよね。アメリカの新聞も騒いでいたけどね。

A: うん、鳩山論文とかね。反米、反グローバル主義とか・・・。

I: でも、あれは日本国内向けなんだから、それはそれで分かるよ。そうなんでしょう? アメリカ人もああやって牽制しているだけだからね。

A: そう、国内向けが外に出たわけだけで、色々と脇が甘いとか言われているけど、メディアも出来レースだからな。それなりに神経を使う必要はあるけど、神経症的に萎縮することはまったくないよね。

I: ベルルスコーニみたいにならないとね(笑)。




・・・・という内容なのですが、この最後の「ベルルスコーニみたいにならないとね」というのは、イタリア首相が18歳の女の子に熱心だとか、ローマの邸宅にコールガールを大勢呼んで金を渡したという一連のスキャンダルです。これがイタリアの新聞だけでなく世界各紙に広まり大いに叩かれているのですが、イタリアは政治家の私生活はほっておくべきという考え方も強いこともありますが、私生活にも厳しい国のメディアはここぞとばかり報道しています。本人に直接聞いたわけではないので真相は知りませんが、メディア王といわれるベルルスコーニは報道のからくりやメディアの一過性を熟知しているので、よくも悪くも話題に取り上げられることがPRの極意であると思っている節がありそうな気がします。つまり、どんな世界各国から合唱のように批判されようが、そう「神経症的な萎縮」が見えません。これを指しています。

I: でも、民主党で大きな変化があるのは何なの?

A: 大きな政府になるのではないか?ということを指摘している人はいるね。だいたい、今の時代、大きな政府は時代遅れで、小さな政府がトレンドだといってね。確かにそういう流れがあったけど、経済恐慌で方向ががらりと変わったよね。いいか、わるいかではなく。

I: えっ、そんなことを言っているのか?オバマの動きなんか明らかに大きな政府に目が向いているし、ヨーロッパでは常にフランスがそうだった。ドイツや英国だって、じょじょに大きな方に議論が言っているよね。

A: なんかね、トレンドの定義にもよるけど、どうも世界のトレンドが見えているようで見えていない人が多くてね。


どこで読んだか忘れましたが、政府だけでなく企業も大企業の価値が見直されている、時代は大きい方へ移行しつつあるという記事がありました。「トレンドにのっていなくても、小さな政府を目指すべきか」という問いかけが必要な時期に、「トレンドだから、小さな政府」というのはピントが外れているのではないかと思います。どうもトレンドの掴まえ方自身がどうもしっくりいないな、と思っているところです。どうしても「片手落ち感」がつきまとうのです。

2009年9月17日木曜日

経済問題は誰が考えるのか?


この数日のオンラインニュースを眺めていての感想です。

リーマンショックから一年たち、経済回復の兆しは色々なところで楽観的に取り上げられますが、労働状況を厳しくなる一方です。失業率の増加だけでなく、そのスピードが加速化しています。EUでは今年に入って24歳以下の若者の失業が8%から18%になったことが報道されています。下記では、イタリアの悪化振りが激しいと指摘しています。

http://www.corriere.it/economia/09_settembre_17/economia_futuro_giovani_in_trappola_ferrera_ff556152-a350-11de-a213-00144f02aabc.shtml

英国の失業率が19995年以来の最悪の数字だという記事も昨日でています。

http://www.telegraph.co.uk/finance/financetopics/recession/6196531/UK-unemployment-jumps-to-highest-since-1995-as-recession-pain-bites.html



経済環境の悪化が社会不安を引き起こすのは避けられないプロセスです。これには必ず時差があり、ブローのようにじょじょに効いてきてきます。特に若者への影響は厳しく、冒頭の数字のような極端な数字がでます。同記事では公式の失業率にはカウントされない、イタリアでのニートの増加も憂えています。英国国教会は、金融業界の猛省を求めており、社会における経済問題の重要性を考えるとエコノミストに任せておいてすむことではないと語っています。

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article6836496.ece


フランステレコムは昨年から今年9月までに23人の従業員自殺者を出しています。

http://www.lemonde.fr/la-crise-financiere/article/2009/09/14/france-telecom-xavier-darcos-recoit-didier-lombard_1239915_1101386.html#ens_id=1236711

業績そのものより14万人から10万人に削減するリストラ策が原因であったようですが、この状況を重くみた政府が介入をはじめした。リストラそのものを中止する方向で検討が進んでいるようです。

以上の記事を読んでいて、社会のあるべき姿の作り方について考えています。





いろいろある欧・米の足並みの乱れ

昨日、デンマークの環境大臣が12月にコペンハーゲンで開催される環境会議に対する各国首脳の動きが鈍いと語っている下記記事を読みました。オバマも医療保険改革に手一杯で環境対策ができないと読んでいます。これだけだと開催国の焦りとも感じます。

http://politiken.dk/newsinenglish/article789144.ece


しかし、今日の以下の記事は、ヨーロッパと米国が共同歩調しない溝について触れています。

http://www.guardian.co.uk/environment/2009/sep/15/europe-us-copenhagen

以前から、京都プロトコールについて合意しない米国の姿勢、あるいは北海道のサミットの直前にも米国方式を導入することに熱心であるとの報道が数々ありました。ここにきて、また従来の合意をチャラにして米国方式で主導権をとろうとする思惑にヨーロッパ側が反撥しています。

米国新政権はブッシュ時代より環境対策に積極的に取り組むとしていますが、国内の医療保険改革が足かせになって世界レベルの合意が十分なレベルなものにならない可能性もあり、これまで主導権をとってきたヨーロッパは焦りまくっているということのようです。

政治力の勝負が際立ってきました。



2009年9月16日水曜日

トスカーナの時間の流れ方

2月、松岡正剛が『17歳のための世界と日本の見方』において文化交流の一例として、たらこスパゲッティをあげていたので、日本の七味唐辛子とイタリアのエキストラヴァージンオイルをミックスした七味オイルの商品開発ストーリーを書きました

文化差の重要なポイントの一つは、時間の流れだと思いますが、これだけは口で何度語ってもなかなか伝わらない、そこにいないと分からない、そういう類のものだと感じます。そして、この時間の感覚差が実は、商品構想をするにあたっても「背後で効いてくる」ものです。その伝達の一環として、「オリーブ農園の一日」というビデオを作り、YouTubeにアップしました。


2009年9月14日月曜日

オバマの医療保険改革を阻むもの

昨日の日曜日、ワシントンに約10万人が集まり、オバマが進めている医療保険改革への反対運動が繰り広げられたニュースが世界を駆け巡っています。「大きな政府」を作ることになるというのが反対派の主張になりますが、大きいか小さいかの目安の一つに、「社会の連帯」のあり方があると思います。そう考えていたときに、米国の医療保険改革のモデルはスイスにあり、まさしく、その「連帯」がキーワードであることを、スイスの専門家が語っている以下記事をみつけました。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/Swiss_advise_US_over_healthcare_reforms.html?siteSect=106&sid=11202900&cKey=1252854789000&ty=st

オバマ当選後、米国政府とスイスの健康省は何度もミーティングをもってきており、今年退任するスイスの担当官は来年ハーバード大学に在籍して世界の医療関連事項について助言を行っていくとのことです。スイスのシステムが完全であるわけがないですが、必要あれば違法移民を含めてカバーする、スイスのシステムに米国が強い関心をもっていることは確かです。



その彼らー米国の担当ーが、スイスのエキスパートが「連帯」を語ると、驚いた目つきでスイス人を眺めると、スイスの担当官が語ります。そして、米国人は連帯の意味するところを、スイス人と同じようなレベルで理解していないと言うのです。米国では健康は自己責任であり、雇用者事項であり、そこに公的機関が関与しないのに対し、スイスでは国と州が重要な役割を果たします。

これは基本的にヨーロッパ諸国とも共通の性格をもっていますが、この医療保険の問題に関して、米国とヨーロッパを分けるものは、「連帯」の概念の違いであるとは、はっきり言えそうです。





2009年9月9日水曜日

地方はイニシアチブを奪取すべき

前回、道州制論議に必要なメンタリティを書きました。本テーマについて、八幡さんよりコメントをいただきました。欧州の地方独立論議はテロに発展するほどの切迫感があるケースがありますが、八幡さんの表現する「独立するわけではないが、しようと思えば出来ないことはない」位の実力を前提にすべきであるという見方に賛成です。以下、ご紹介します。ヨーロッパの動向をリアルにみていて分かってくる感覚ではないかと思います。

いま、日本では、道州制と地方分権が同時に議論されていますが、何か核心を欠いた議論のような気がします。中途半端な議論です。というのも、地方分権という字面をよく眺めてみると、’中央が事実上占有していた全国を統治していた省庁の権力と財源を、地方にわけるということにほかなりません。それで、道州制を推し進め、これを担い、道・州という新しい単位の中核を形成できるとはとうてい思えないからです。

というのは、いわゆる道・州へのの分権を進行させる速度や徹底の度合いは、当然中央省庁のさじ加減にかかっているわけですから、道・州の形成過程はヒモ付きのままということになるでしょう。その状態は、将来も水面下で継続する可能性がある。いいかえれば、霞が関は、道州制の仮面の影で、中央集権的支配の実効性を保持できる体制を構築することが出来るとおもわれるのです。

本当の地方分権と、それを基盤とした道・州の実現は、結論的に言えば、分権というお上の権限のお裾分けではなく、「分国」をウエーバーの言う「理念型」として、いいかえれば、「分国」を覚悟して実施されなければなりません。それは、地方が、要求し、交渉し、地方のイニシアティブで「獲得」するもの、言葉を極めれば「奪取するもの」でなければならないとおもいます。「独立するわけではないが、しようと思えば出来ないことはない」位の実力(政治的・経済的)を備えた道・州の連合体としての日本という国家を再設計するのでなければ、道州制の議論は空論にとどまるでしょう。

          

2009年9月4日金曜日

道州制導入論議に必要なメンタリティとは?


今日は最近思っていることをメモします。

衆院選挙での民主党の大勝に関する記事をオンラインで色々と読んでいますが、「要するに、誰でも変化に対応するのは億劫で面倒なんだ」ということを感じます。当たり前のことです。大手新聞社の政治部記者も、今まで官邸記者クラブにいて自民党人脈を作っていけば記事が書けて出世もできたのにー「私は歴代首相の新入りの頃から知っている」ー、その人脈が生きない、出世の形がみえない。それは大慌てでしょう。なんせ民主党は記者クラブ制を廃止し情報の流通を良くするというのですから、既得権勢力はしばらく苦い思いをしなくてはいけません。

それはアメリカ側の声も同じです。誰を頼りにすれば分からないし、民主党が何を考えているか分からず心配だ、日米関係はどうなるのか?と。最近、中国に重点をおきはじめていた米政府が何を言ってるの?だいたい、もう米国を頼ってくれるなと大統領が4月ロンドンで記者会見したじゃないと思う一方、あれだけ強い絆が日米関係にあると喧伝していたのは芝居だったのかという気にさせる雰囲気です。確かにNYTにはそういう内容の記事が書いてあり、例の鳩山論文ー反米、反グローバリゼーションと受け止められたーを槍玉にあげて「理念的」だと批判もしていますが、「あれっ、アメリカ大統領の演説って、もっと理念的じゃなかったっけ?」と思いました。





それをまた日本のマスメディアは「アメリカのご機嫌を損ねたのではないか」「ご迷惑をおかけしたのではないか」という調子で書くものですから、どうしたものかと頭を捻らざるをえません。本音はいざしらず、とりあえず中国や韓国は政権交代を歓迎すると言っているのですから、「世界が困惑している」わけではないようです。およそアングロサクソン系の情報だけで何が分かるのかという疑問もあります。確か先日スペインの新聞も好意的な記事を書いていました・・・と思っていたら、日経ビジネスオンラインが以下の記事を書いています。「経済成長は悪なのか?  「お気楽な国」、日本を嗤う欧米メディア」というタイトルです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090903/203966/

確かに日本が「お気楽な国」と見られていることは承知していますし、民主党が短期で何らかの実績をあげて国民を喜ばせてくれる確率は低いかもしれませんが、先に書いたようにFTとWSJなどの英米紙で何が見えるのだろう?という疑問が一つ。それを欧米メディアと総括する鈍感さは逆に井の中の蛙的だし、この記事の底には「欧米からは気に入られなくては」という切迫感が流れているような印象をもちます。ぼくは、ヨーロッパ市場で売れるためにはユニバーサルや欧州文化を理解しないといけないと言っているので、この日経ビジネスオンラインの記事に同調するのでは?と想像される向きもあるのではないかと思うのですが、ぼくの意見は逆なのです。この記事にあるような単眼的な見方を脱するべきだというのが、ぼくの考え方です。




「さまざまなデザイン」に、比較をしないと落ち着かないところを改め、「美味しいものは美味しい」と率直に言える文化土壌を日本に作る必要があるだろうと昨日書きました。以下です。

http://milano.metrocs.jp/archives/2072

実は、これは最近盛んに議論されている地方分権や道州制を考えるときの基本メンタリティではないかということがバックにあるのですが、このメンタリティを良しとするところからすると、日経ビジネスオンラインの記事にあるメンタリティはバツだということです。

2009年9月2日水曜日

プレゼンにおける層分け

ヨーロッパ文化部のプレゼンの仕方を色々と考えています。


ヨーロッパを切り口にするという点では何も変更の必要を感じないのですが、もう少し問題を多層に明確化し、どこが一般レイヤーで、どこがヨーロッパレイヤーか、という層別をしないといけないかなと思っています。どういうことかというと、アピールすべき相手は様々で、それこそヨーロッパに関心も縁もないけど、問題の深層には関心があるという方にどう話していくか?も、考えないといけないと思い始めたのです。

そこで、どのような表現が一般レイヤーにくるかですが、ビジネスと文化の関係性をもってこようと検討しています。ビジネスにおいて文化が無関係であると思っている人は誰もいないでしょうが、実際の交渉ごとや人事管理を対象とした「異文化コミュニケーション論」がカバーしてきた領域など、文化理解はいつも見え隠れしています。もちろん言葉や生活習慣の違いなど、市場つくりや商品つくりでの課題も文化領域に入ってきました。そして、ぼくがポイントにしているのは、これらにプラスして「違った感覚」「違った認知」なのだというのが一点目になります。

二点目は、文化は総体的な理解を求めるものであるがゆえに、一人で行う文化理解の重要性を語ることです。そこは自分の専門ではないからという理由で、どこかに穴をあけることを怖がる、あるいは自分の言葉や考えの表明を避ける、こういう態度をどうやって変えていけばいいのかというテーマがあります。全てにおいて知識が均一にあることはありえないし、どこのレベルであれば合格ということがないのは、どこのレベルにおいても失格はないのだという認識に自信をもって辿り着くとは、どういうことなのか?が、分かりやすく語られないといけないでしょう。




次にヨーロッパのレイヤーです。これは、「ミラノサローネ2008」で書き、本にも使ったヨーロッパ文化の4つの特徴をあげることかなと思います(下記から4回分のブログ)。これが「理解の大枠」の一例になります。実は、定番のプレゼンのなかで、これらの特徴を言うのをあえて落としてきました。何か結論じみた言い方になるのではないか、と。

http://milano.metrocs.jp/archives/205

しかし、こういう結論じみたところを更に発展させることに意味があるのではないかと思い、これを再び引っ張り出してくることにします。できれば、もう少し肉付けはしたいと思います。これにあわせた視覚的資料も揃えてみましょう。この流れのなかで、「重さ」「軽さ」の問題も扱えそうです。また、チャールズ・イームズの映像「パワー・オブ・テン」の発想が活かせればいいのだが・・・と考えています。

・・・・まだまだ悩みそうです。