2009年11月30日月曜日

イスラム教寺院の塔に関する国民投票(スイス)

昨日、スイスでの国民投票で、イスラム教寺院の塔の建設を禁じる法案に対して、賛成が57.5%となった。これはヨーロッパのあり方を示唆する重要な事件だ。いくつかのオンラインから記事を拾ってみた。

スイスは2割が外国人でイスラムは40万人。この結果に対する世界の反撥ー商品ボイコット等ーをスイス自身が恐れている。世俗化が進んでいるスイスであるが、それは今まで目に見えない異教を許容し、見える異教を排除するということなのか?政府はNOのキャンペーンをはったにもかかわらず、この結果だ。YESは26州のうち22州で、NOはフランス語圏が中心。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/The_minaret_ban_hits_the_headlines.html?siteSect=105&sid=11558450&cKey=1259570958000&ty=st

このニュースに勢いづく人達がいる。イタリアの右派政党では、「スイス人も異教の移民には疲れ果てたのだ。我々もスイスから学ぶべき」という声が出ている。

http://www.corriere.it/politica/09_novembre_29/castelli_croce_bandiera_italiana_e48bb956-dd17-11de-8223-00144f02aabc.shtml

しかし、スイスには4つの塔しかなく、一つは5千人の村にある塔だ。イスラムはドイツやフランスのような社会的な目に見える問題になっておらず、モスクがありスカーフを被った女性がいても、それらは目立つことはなかった。それでも、こうなった。法案YESのキャンペーンは、塔についてはさして語らず、イスラム教自身を語り、ポスターもイスラムの脅威を強調する形であった。リビアのガダフィの息子の逮捕の報復で、スイス市民がリビアでおさえられた問題もあるが、異教に関する漠然として不安が、YESに票を投じたとみるべきという。

ポイントは、中立を旗印とし、赤十字や国連などの活動を国家イメージのバックボーンとしてきたスイスが、自ら信教の自由や表現の自由に制限を加えていることによる、ヨーロッパ的価値へのマイナス点だ。

http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,664176,00.html


こうしたなかで、政府は従来のように信仰の自由を守ると盛んに言っている。

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6936802.ece


EU議長国であるスウェーデンの外務大臣は、これは偏見の結果であると言いながら、ネガティブなシグナルであると認識。しかし、通常、このような建設問題は都市計画局の判断に任すものであり、国民投票にかけること自身が奇妙だと指摘。

http://www.thelocal.se/23562/20091130/


コンテンポラリーアートは特別に難しいのか?

今日、「エコノミスト」のアート市場に関する記事を読んでいて、オークションによるアート市場が極めて偏っていて、これがどれだけ全体を表現しているのだろうかと考えた。2008年のコレクター市場が、米国35.7%、英国34.5%、中国7.7%、フランス6%、イタリア2.8%、ドイツ2.5%、スイス1.5%と続く。その他にはロシアや中東諸国が入るのだろうが、ドイツがイタリアの下に位置しているのは意外だった。それにしても、米国と英国で約70%というのは、かなり異常な数字ではないか。

上記の記事で、コンテンポラリーアートに関心が集まり始めていることは指摘している。そこで、最近、日経BPオンラインで読んだ記事を思い出した。「現代美術、難解だから売れないのか、売れないから難解なのか」というタイトル。

美術品全体で見ると、この分野には2つの市場がある。1つは「プライマリー市場」。これは作家が作ったばかりの作品にギャラリーが値段をつけて売る、最初の売買市場である。2つ目に、それが転売される市場があり、これを「セカンダリー市場」という。

両方あわせた日本の美術市場規模は1000億円といわれる(Art Trendy.net調べ)。国内オークション、交換会、百貨店美術部、美術商の取引 の合計である。このうち現代美術は約1割、約100億円程度と見込まれるが、これは世界の美術取引市場のわずか1~2%程度でしかない。

日本市場が小さいのは、エコノミストのデータにも出ているので、多分、およその傾向としてこうなのだろう。この引用した記事はこうデータをひいた後、コンテンポラリーアートの比率が特に低い理由を下のように説明している。

傾向としては海外のコレクターは好んで現代美術を買う。リスクは大きいが、値上がり益も見込めるからだ。これに対して日本のコレクター、特に公立美術館は保守的だ。リスクを避けて現代美術よりも近代作品を購入しがちだ。
今のところ日本の現代美術の市場は海外に比べると極端に小さい。いずれ追いつくと見ていいのか。どうもそうではないようだ。

ある画廊経営者はこう言う。「欧米では学校の行事で現代美術館によく行く。だから抵抗感が少ない。日本人は学校では近代作品しか学ばない」

あたりまえのことではあるが、人は作品の価値を十分に理解しないと作品を買わない。見て美しい、感動するというだけではだめだ。特に現代美術の場合は作品が生まれた背景や様式などの理解、つまりリテラシーが必要になる。

問題は一番最後の段落だ。「特に現代美術の場合は作品が生まれた背景や様式などの理解、つまりリテラシーが必要になる」の部分。学校で近代作品は学んでいると明記しており、そのため日本でも近代作品のリテラシーはあり、市場が成立していると言っている。別に自然な環境で近代作品を学んだわけでもないとするなら、どうして、現代美術に対して奇妙な説明を加えるのか? なんとも意味不明としかいい様がない。ここには言葉によってアートを説明することに対する嫌悪感が漂っている気がする。

2009年11月27日金曜日

成功商品事例を集める

二つの文化の企業の間にたって仕事をしていてよく目にすることは、片方の企業が「ここだけ変化すれば何とかなるはずだ」と考えれば、もう一方は「そこだけ変えただけでは、変えたことにならない。全体から変える必要がある」と主張しがちであるということです。それは日本の企業がこうだ、ヨーロッパの企業がこうだではなく、いずれにせよ違う文化が相対せば、そのようになるのがかなり必然であるという意味です。

そこをあまりしつこく主張すると、「そんなこと言ったって、これが自分たちの文化なんだから仕方ないだろう!」と開き直ります。それはそうです。それで上手くといわないでも、それなりに回っていれば、そこまで変える動機がありません。よって危機的状況に陥ったときに、目を覚まさないといけなくなる。

ブランドに対する認識は、このように日本のモノがヨーロッパで存在感を失ってきて初めて分かり始める時期ではないかという気がします。「自分たちの製品モデルは、ヨーロッパと比較して圧倒的に多いので、ヨーロッパメーカーのようには綺麗におさまらない。しかし、このバラバラな感じが日本的で良いのだ」と弁解を重ねてきた人達も、実は、「ブランド構築ができていなかったから、その場その場で対応する羽目になり、結果的にバラバラになったのだ」というロジックを十分に理解していなかった。が、そろそろ、それが分かってくる頃ではないかと思います。クルマメーカーなど、この代表例です。

日本はディテールから出発し、西洋は全体のコンセプトからはじめる。それが江戸時代の大名屋敷とフランスの城の外観に表現されるわけですが、それがブランド力という面でみたとき、ヨーロッパ市場でマイナスに作用している現実を直視しないといけないでしょう。サムスンやLGのような韓国メーカーが、大量の携帯電話モデルを作っており、それは実情として一見日本メーカーと同じように見えるかもしれません。しかし、「まとめ方」でマシな方法をとったがゆえに、違ったブランドイメージを確立できたといえそうです。

今、ぼくは文化を理解することで商品が売れた実例を集めようと考えています。キッコーマンの醤油などもそうでしょう。コカコーラもそうだと思います。でも、なるべく今まで事例として挙がってこなかったモノやサービスで、文化理解の重要性を知ってもらいたいと思います。そこにリアリティがあるだろう、と。



2009年11月25日水曜日

思想表現・伝達の論理

八幡さんより以下フィードバックをいただきましたので掲載します。語りつくすべき重要さを書かれています。

<ここから>
今月23日付けの『ヨーロッパ文化部ノート」の以下の書き込みを拝見しました。

彼らがよく喋るのは、「自社のブランドとは考え方であり、それをあらゆるアングルから伝達することによって相手に痕跡を残すことが重要なんだ」という思考が強いからだと再認識しました。

単一のメディアだけでは世の中に浸透しきれない時代になってきたという認識がもちろんありますが、そのことに対する危機意識が日本より強いのが、ヨーロッパの政治家であり企業なのでしょう。なぜなら、考え方を伝えるには、多面的でなくてはならず、その考え方に接する時間を受け手により持ってもらうことが大事だからです。視覚的に分かるもので自然な理解を求めるという手法は、「伝えるのは考え方である」という認識がないからでしょう。

池上英子さんの、『美と礼節の絆』は、米国の社会学、あるいは歴史学関係の年間最優秀賞を、計五つも受賞した作品ですが、日本の関連方面の専門家からは、真っ向正面からこれを取り上げた反応がいまだに見られないのはいささかフシギです。

この作品にはいくつもの特徴がありますが、その中の一つは、まさに、多方面から、手を変え品を替え、さまざまなヴァリエーションで、作者の頭の中にあるターゲットにむけて読者の説得する、日本的なこの手の著作としては、非常にこまやかな、かゆいところに手の届くようなステートメントとその多才な説明の仕方にあるといえるでしょう。

一つのアイデアを説明するのに、読者の意表をつくような、常識の向こう側から着想された具体例を幾つも提示し、それを、時にはユーモアを交え、皮肉を織り交ぜた言葉を紡ぎ合わせて、そのアイデアの位相や理論的な機能を描写して見せる、そのことによって、読者に彼女のアイデアを具体的な背景の中において想像させ、理解させてしまう表現方法です。

やはり、相当のエネルギーを注入して言語表現の組み上げに努力していることが伝わってきて、これこそ、アメリカやイギリスの社会学者のよくかけた作品に見られる特徴だな、と想いました。

池上さんの場合、使っているのは「書かれた言語」という一つのメディアではありますが、その使い方の多方面で多彩なこと、安西さんがイタリアのデザイナーとの会話で経験されることと、彼女の『思想表現・伝達の論理』は同根であるという感じがします。

2009年11月23日月曜日

どうして沢山のメディアを使うか?

先週、イタリアのデザイン商品を扱うメーカーを何社か回っていて、今更ながらにつくづく思ったことがあります。彼らがよく喋るのは、「自社のブランドとは考え方であり、それをあらゆるアングルから伝達することによって相手に痕跡を残すことが重要なんだ」という思考が強いからだと再認識しました。その様子を「さまざまなデザイン」(下記)に4回にわけて書きました。痕跡の集積がブランドなのです。

http://milano.metrocs.jp/archives/2364

いわゆるPRだけでなく、ポスター製作などの仕事をコミュニケーションと呼びますが、それがどうしてそう分類されるかは、基本的に「ブランドとは考え方である」という定義が根付いているからだといえます。先月、八幡さんと話した内容を「長期戦は思想の確立で勝つ」というタイトルで書きましたが、先週の出張で思ったことは、以下の内容に直接リンクします。

http://milano.metrocs.jp/archives/2281

だから、沢山話さないといけないのです。だから、政治家や企業トップもブログやFacebook あるいはTwitterなどあらゆるメディアを駆使するモチベーションが高くなるのです。単一のメディアだけでは世の中に浸透しきれない時代になってきたという認識がもちろんありますが、そのことに対する危機意識が日本より強いのが、ヨーロッパの政治家であり企業なのでしょう。なぜなら、考え方を伝えるには、多面的でなくてはならず、その考え方に接する時間を受け手により持ってもらうことが大事だからです。視覚的に分かるもので自然な理解を求めるという手法は、「伝えるのは考え方である」という認識がないからでしょう。

この観点から対ヨーロッパビジネス戦略をみたとき、何が不足しているかが自ずと見えてくる日系企業は多いのではないか・・・と想像します。

2009年11月15日日曜日

結構売れているヨーロッパ史の本

ジャック・ル・ゴフの『子どもたちに語るヨーロッパ史』について、「さまざまなデザイン」に書いたのですが、アマゾンでの売り上げランクをみてちょっと驚きました。一回目見たときは200番台、二回目で3000番台でした。今年の9月に発売されたヨーロッパ関係の本としては意外です。塩野七生のイタリア関係を別にすれば、最近、売れないと言われるヨーロッパの本も売れるものは売れるのか、と。それも、特に前半の通史で目新しいところはありません。中世への切り込みに新鮮さを感じたとすれば、それはアナール学派ならではの日常世界の心性で引っ張ったとしか考えれません。

また、随分と重版が続いている松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』と同じように、実は大人を対象としながらも子供がメインの相手であるかのように装う方法が、敷居の下げ方の定番としていいのかとも思います。とするならば、敷居さえ下げれば関心がひけるということは、ヨーロッパの心理的距離感の問題ーヨーロッパは面倒で遠いーは、実につまらないところで躓いていると言えまいか、ということになります。いや、塩野本はそこまで敷居を下げているわけではないですから、これは一体何が障害なのだろうと疑問を呈さざるを得ません。

それなりのマーケットはあるということなのでしょう。日本の工芸品が売れ、パリにブランドの洋服を買いにくるより、日本国内の温泉にでかける方がまったりとできてよいーパリでブランド品を買い捲っていた、あの林真理子でさえーという傾向が強くあったとしても、イタリアオペラや北欧デザインである程度の人が集まるように、一定の層は相変わらずヨーロッパに目が向いています。問題は、この関心の活かし方ではないか?と考えます。あるいはコアグループの力の集結度なのかもしれません。

かつてのようにヨーロッパに関心を集中させるべきというのではなく、文化多元化の現況においての分散化は決して悪いわけではありません。考えるべきなのは、分散化への認識とヨーロッパの影響力の適正評価ではないかと思います。

2009年11月12日木曜日

ヨーロッパのナショナリズム

先週書いた「相手にすべき対象はもっと大きいかもしれない」に、八幡さんがコメントをくれました。ぼくが「もっと大きいかもしれない」と書いたのは、文化を語ることがビジネスの枠外に出るかもしれないということなのですが、相手の姿が曖昧ではいけないので、ビジネス枠でそれ以外をどれだけカバーできる話しになるだろうかということでもあります。下記の八幡さんのコメントは、そのようなぼくの「思考の途中」をピタリとあててくれたような爽快さがあります。

来年の大学院の講座では,「ヨーロッパのナショナリズムと,統合EUの未来」という事にしました,ナショナリズムの本で大ベストセラーになったベネディクト・アンダーソンのImagined Community は,フランスあるいはアメリカのような,demotic (territorial) nationalism にはあてはまっても、中央ヨーロッパ、ドイツや旧オーストリア国支配地でのnationstate bilding,例えばコソボなどの現象を説明できません。

もっとも、demotic nationalism とethnic nationalism の区別をたてたのは、E.K. Francis (cf, Interethnic Relations, Elsevier, 1975) です。demotic nationalism の場合、或るテリトリー上で暮らしている人々全体を新国家〈nation state) の国民であると規定してしまうのですが、ethnic nationalism の場合は、建設されるべき新国家の国民である資格を有する民族的由来、歴史とその文化的性格の如何によって、どの民族集団が、新国家のメンバーであるかを決めることになります。

ナショナリズム革命以前に、すでに国家の範囲が明白になっていて、アンシャンレジームの中央政権をひっくり返せば、それで新しいnation state が成立したフランス、アメリカがこれです。しかし、フランス革命の年に、1789個の主権国家が存在していたドイツ語圏では、旧政権の転覆で革命を成功させるのはテクニカルな理由で不可能でした。したがって、さまざまな国に分かれて生きていたドイツ人を、その言葉、文化、歴史に目覚めさせ、ドイツ文化という共通意識を醸成させてから、それを新国家樹立の基礎にする方策がとられ、これが東ヨーロッパからバルカン半島にまで広がった、ドイツ発のnation state 建設のモデルになりました。

こういうことが、今でも、『文化』のそれぞれの国民での捉え方の違い、文化が入っている大枠の違いになるのではないかと思います。どのくらい続くか判りませんが、それぞれの国内に抱え込んでしまったムスリム民族に対する、例えばフランスとドイツのアプローチには、違いが見られます。経済的、政治的、社会的現象と一応無関係に、仏教がヨーロッパのそれぞれの地域でどのように見られ、扱われているか、面白いところですが、情報をあまり持っておりません。

2009年11月11日水曜日

日本の文化産業を考える

昨日、「さまざまなデザイン」に「アニメや漫画で何を伝えたいのか?」を書きました。アニメや漫画というジャンルを語るにしても、この表現形式が何を伝えるのに適しているのか?という論議なしに、「日本の文化産業としてどうにかしろ」という方向に向き勝ちではないかと思ったからです。

先日も、東京で会った出版社の漫画担当の編集者が、「マンガ雑誌も単行本もメタメタですよ」と自嘲気味に市場の下降線を嘆いていました。一時、何でも漫画化されました。外務省の仕事も漫画で解説することで敷居を低くしようとしました。しかし、ぼくが思うに、しかるべき内容は漫画では伝えきれないし、だいたい、漫画という表現形式は難しいことを簡単に説明できる魔術ではないと思うのです。言葉の表現スペースが少ない分、逆により分かりにくい説明を余儀なくされることもあります。絵が言葉で伝えきれない部分を全てカバーするとはありえないのです。

しかし、何か漫画のほうが「文章より説明力に勝る」という思い込みが強くできたように感じます。ここにアニメや漫画の優位性を見すぎたため、海外市場が増えてきたとき、戦略のたて方を間違えた(もちろん、戦略などなかったというのが、多くの意見でしょうが・・・)一つの要因があったように思えます。特に、「難しいことは、如何に噛み砕いても、そのレベルを維持しながら説明する」という文化が強いヨーロッパにおいて、上述の思い込みは空振りを招く結果を促したと言えまいかと考えるのです。

今日の日経ビジネスオンラインに「アニメは次の成長モデルを作れるか?」という記事がありました。

社会が成熟する中で、これから重要な役割を担うのがアニメ、ゲーム、日本映画、クラシック音楽などの分野だ。これをビジネスととらえるならば、「文化産業 (クリエーティブ産業)」と名づけることができる。製造業が弱体化する中で、こうした産業は日本の次の成長の糧の1つとして期待される。

文化産業自体は昔から存在する。だがきちんと利益をあげる事業形態、つまりビジネスモデルの構築に成功したものは少ない。映像、アニメなど芸術文化のビジネスモデルは、まだ完成度が低い。こうしたビジネスでいかにモデルを構築していくのか。まず、アニメから考察していく。

上記が主旨ですが、この表現形式は何を伝えるのに優れるのか?という分析がされるかどうか、そこにぼくは注目してみたいです。

オリーブの実に種は必要か?

ちょっと意外なタイトルかもしれません。「味から語る文化」で七味オイルのことを書きましたが、実は今、七味オイル味のオリーブのテスト販売も手がけていて、近々、本格販売します。上記にリンクしたYouTubeのPRビデオをみれば分かりますが、オリーブを石で叩き割って種を出すシーンがあります。これを入れたのは、日本で「オリーブは丸いほうが美しいから、種ありがいい」という意見が複数あったからです。

これにたいして、味のローカリゼーションは積極的に行うが、南イタリアの伝統的オリーブの食べ方そのものをローカライズする必要はないだろうと考え、あえてその方法をデモで示したわけです。肝心なのは、伝統的なレシピをローカライズ(ペペロンチーノを七味に代えた)することで、形状を変えることではない、と。およそ種がないほうが味が均一に広がるし、一度口に入れたものを人前で外に出すという躊躇を排除することができます。「美味しくて食べやすい」ことを優先すべきだと考えたのです。




「種あり」の意見で気になったのは、そこに売る側の論理が潜んでいることでした。バーのカウンターで出したとき、「見栄えがよくて金がとれる」というのは、食べる側の論理ではありません。そういう論理にしたがってはいけないとも思いました。あくまでもユーザーのロジックが味方しないといけません。そして、もう一つ、伝統的な南イタリアの食べ方を知って「種なし」を主張しているとは思えないところが、ひっかかりました。

そうしているうちに、この「種あり」「種なし」には、世代ギャップが反映されていることにも気づきました。「なし」を支持するほうが「あり」より世代が若いのです。全てではないですが、傾向として「あり」に拘るほうが年齢が上ではないかという風景がおぼろげに見えてきました。このオリーブは酒のつまみとして、若い人達が多いワインバーで売ることがマーケティングのコンセプトとしてあるので、「あり」に固執するロジックに振り回されてはいけないと判断しました。




スーパーマーケットのオリーブの棚に行くと分かりますが、多くは瓶詰めで種ありが並んでいます。我々は瓶詰めをやめました。保存食的な連想を断ち切り、酒のつまみとして一晩に食べきるというスタイルの変更を促すのが大事だと考えました。よって真空パックとしました。イタリアの青空市場で量り売りで販売されるオリーブの世界のカジュアルさに近い方を選んだのです。

まだまだ詰めるべき点はあるでしょう。しかし、イタリア文化のどこを尊重し、どこを日本のユーザーにマッチさせるか、この基本を設定したうえは、できるだけそれをキープしたいと考えています。文化を維持するのは大事。しかし、それに振り回され過ぎてもいけない。その落としどころにロジックがないといけないと思います。先日、ある名の知れたシェフに「やはり、美味しくて食べやすいのが一番でしょう。だから種なしがいいと思いますよ」と言われたとき、ユーザー文化を尊重しておいて良かったと感じました。

2009年11月9日月曜日

相手にすべき対象はもっと大きいかもしれない

昨晩、ミラノに戻りました。今日のミラノは雨です。そこで二本のブログを「さまざまなデザイン」に書きました。今週読んだ本を二冊とりあげました。管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』です。趣向の全く違う読書案内ですが、結局、人は分かるところまでしか分からず、分からない地平を分からないとどう自覚するかにかかっているというのが、二つの本に関する共通点です。あるいは真空地帯で見知らぬ吸入口に惑わされないための力をもっていないといけない、というのも両者に通じる内容でしょう。

一昨日、明治大学で宮下芳明さんの講演会『「面白さ」の計算科学:エンターテイメントコンピューティング~その誤解と真実』で、コンピューターは100%の完全性をもっていないことを前提に、インターフェースが設計されないといけないという指摘がありました。これはぼくも同じ認識をもっているので、「そうか、時代の方向はこちらと考えていいのだな」と思いました。ただ、こういう分野は、往々にして「方向さえ合っていれば」が端緒であり全てであることがあるので、その矢印の及ぶ範囲の目測を誤ってはいけません。真空地帯の見極めです。

「文化とビジネス」をテーマに色々と考えてきましたが、ヨーロッパ文化部が相手にすべき対象は、もっと大きいのかもしれません。そういうことを思う日が何日かありました。文化自身のもつ力と範囲の認識や、その出力の方法に貢献すべき課題がもっとあるのではないか、と。

そういう意味で、ヨーロッパ文化部はいわばマーケティングをさらに重ねる必要があるとの自覚を新たにしました。逆に、われわれが話す内容に意味があると思われるには、相手がどこの地平までを見ているかを知らないといけないということでもあります。

活動は継続してこそ意味があります。

2009年11月4日水曜日

新刊が少ないヨーロッパ関係の本

今日、丸の内の丸善で本棚を眺めながらため息が出ました。ぼくはこの2年間くらい、ヨーロッパについて書かれた新書を片っ端から読んできました。ハードカバーも読みますが、ヨーロッパ関係のハードカバーは学術的な傾向の本が多く、ぼくが狙いとする「ヨーロッパへの一般的視線がどうなっているか?」という関心からやや外れます。すると、新書の動向が気になるのです。

しかし、新書の棚に買うべき本があまり見当たりません。新刊が少ないのです(統計的数字ではなく、本棚での印象ですが、そう狂いはないと考えています)。既に見慣れたタイトルばかりです。リスボン条約の批准が遅れたためか、EUへの新しい動向をレポートする本も少ないし、ヨーロッパ内の移民やイスラムの問題も、「とりあえず、今までの本でカバーしているか・・・」というムードが漂うようで、「今、これを言わなくては!」との意気込みがありません。

明らかに新書の最近の売れ筋とは違うところにヨーロッパが位置しているとしか表現しようがないほどです。新書はその性格上、新聞→雑誌の後にくる紙媒体のジャンルだと思っていますが、新聞でもヨーロッパの記事が少ない以上、その先の掘り下げを積極的に行っている人が少ないことが想像されます。

ヨーロッパの価値が相対的に下がっている現在ですが、それにしても、この無関心ぶりはあまりにあまりだ・・・と思います。相対的に下がった以上に、無関心であるところに危惧を抱くのです。ハードカバーでかなり掘り下げたテーマで書かれていても、それが新書レベルに落とし込みがされていないということは、ハードカバーのテーマが一般性を獲得せずに、そこで留まっていることも意味するのではないかと想像するのです。何らかのアクションの必要性を思います。


味から語る文化

前回、「JETROでの勉強会」で書きましたが、その後、ますます「味と文化」がぼくのなかで大きなテーマになってきました。そのあたりの動向を「さまざまなデザイン」に今日書きました。「人の舌で寿司を食うな!」というちょっと品のないタイトルです。そして、これを書いておこうと思った直接の動機は、社会学者の八幡さんとの会話です。この内容は「長期戦は思想の確立で勝つ」で記しました。思想と舌が直接リンクするかどうかは別にして、ある痕跡を頭や心に強く残すことが非常に重要であるという意味において、ぼくはデザイン以外の武器をもっと使わないといけないと思ったのです。

ぼくはデザインの分野に20年近く軸足を置いてきましたが、同時に食品の世界にも15年ほど関わってきました。それで昨年より、長野善光寺前にある七味唐辛子の老舗、八幡屋礒五郎の七味とトスカーナのエキストラヴァージンオイルのミックス(250mlの新鮮なオイルに7gの七味唐辛子)により、両方の食材の両方の文化圏へのローカリゼーションを図っています。この商材の発展系で今、七味オイル味のオリーブをテスト販売しているのですが、ここに大きな潜在性を見出してきています。

よく人に話すのですが、「日本文化が好きで寿司を食べるのではなく、ヘルシーという価値のもとに寿司を選択し、それを何度か食べるうちに寿司が好きになり、だんだんと日本文化にも興味をもつようになる」のであって、「クールジャパンという旗印のもとに寿司を食べるのではない」のです。しかし、そこで記憶された味は強いインパクトを与えることになります。

したがって、味を持ち出すことで、デザインの話だけでは到達し得ない部分にアプローチできると思います。が、デザインというテーマでアプローチすることの可能性を見切ったわけではなく、人の生活がさまざまな要素で成立している以上、こうした多様なアングルから説明していくことが大事であると再認識したのです。以前、紹介したYouTubeのビデオ(下記)ですが、この映像から語れる文化をもっと増やすつもりです。