2011年8月28日日曜日

イノベーション議論と南欧の考え方





今日、東大のi.school の夏のシンポジウムが開催された。ミラノにいたぼくは、その場で何がどう語られたかを、Twitterブログを通じて読むしかない。それらから推測できることは、ただ一つ。南欧的な考え方の適用がイノベーションの議論のなかで行われているのでは?ということだ。だから、恐ろしく久しぶりに、このヨーロッパ文化部ノートに書き留めておこうと思った。

直観思考と分析思考のどちらにも旗を立てない発想は、そもそも南欧の強みで、常にそれを南欧の人たちは主張してきた。「こういうことをカナダの大学の人が言っているよ」と南欧人に話しても、「それで、いまさらなんなの?」という反応が返ってくるのがおちだ。適量的なデータにいつも疑心暗鬼であり、そうしたデータに基づいた企画書に敬意を払わないー少なくても、自分が推進する場合ー。プロジェクトの最初の段階は、ある直観とそれを共有する言語化されたロジックーそれもプリミティブで一向に構わないーでスタートする。

論理的であるとは、近代の数学的な論理性を指すのではなくー北の冷たい論理ではないー、もっと緩やかなものを言っている。毎日の生活で「説得性をもつ」というレベルでの論理性だ。そういう「南欧の論理」に北の人たちも親近性を感じているのが、この数十年ではないかと思う。岡田温司『イタリア現代思想の招待』のレビューで以下を引用したが、このあたりの相違を説明するのにわかりやすいと思う。

バロックが培ったのは、言語の技術としての修辞ー「機 知」、「才知」、「奇想(concetto)」はその代表ーである。それゆえ修辞とは、たんに外面的な言葉の彩にすぎないものでもないし、ましてや、主体 がみずからの主義主張を他者に押し付けるための道具とみなされるものでもない。そうではなくて、修辞とは、人間存在にとってもっとも根源的で本質的なもの であり、美的でかつ倫理的、実践的でかつ政治的なものである。

たとえば「奇想(コンチェット)」を例にとってみよう。わたしたちは「奇想」という とき、「コンセプト」としての「概念」のことを考えがちである。だが、それは実際には、カント以来のドイツ哲学が練り上げてきた「概念 (Begriff)]とは根本的に異なるもの、否、むしろ正反対のものですらある。というのも、ドイツ語の「概念」は、「つかむ、握る」という意味の動詞 greifen に由来するが、「コンチェット」は、逆に、「受胎する、いだく」という意味のラテン語conceptoに由来するからであるつまり、何かを自分のものに するのではなくて、何かに場を与えることを意味しているのであり、客体を把握しようとする主体の動きではなくて、そうした主客構造を超えて、外から到来す る何ものかを受け入れる心構えのことをさしているのである。それゆえバロックの修辞は、アイデンティティや「リアリティ」やジェンダー等をめぐる近代に支 配的なイデオロギーにたいする異議申し立てにとってもまた、有効な武器を提供してくれることになるのだ。

ここで書かれている concetto に関する記述は、イノベーション議論のコアに使えるのではないかと思う。言い換えれば、「直観思考と分析思考という二分法ではいけない」と語った瞬間に罠にはまっているわけだ。このあたりの地雷の越え方を、「文化選択の時代」に向けて準備するーいや、できるー状況が整ってきたのはあるまいか、というのがぼくの感想だ。