2012年2月9日木曜日

ふたたびヨーロッパを考える




この数日、ミラノ市内で開催されているセザンヌ展や17-19世紀の絵画を美術館で鑑賞しながら、ぼくにとってのヨーロッパを考えている。約30年のつきあいで何が分かり、何を分からないこととして脇においてきたのか。

はじめてヨーロッパの地を踏んだのは大学生のときで1979年だった。パリの印象派美術館でセザンヌの作品の数々をみてから33年後、ミラノの王宮でセザンヌを眺める。その間に舞台となった南仏には何度も足を運んでいるが、どのていどセザンヌの目線を共有できるようになったのだろう。もちろん33年ぶりの再会というわけではなく、いろいろな場所でセザンヌに接しているが、今、33年を想う。

17-19世紀のミラノを舞台にした絵画をみると、確かに街のかなり細かいところに至るまで現在の姿と比較できるし、その頃の家の匂いも何となく想像ができるくらいには経験を得てきた。しかし、彼らが何をどう考えていたのか、それは相変わらず分からない。正直に言っておこう。そこまでぼくは、その時代のイタリア語の書籍に接していない。

ヨーロッパの地位の低下は1世紀以上前からの現象だといえばそうなのだが、2008年以降、それも昨年のユーロ危機以来、ヨーロッパは深く問い詰められている。同時に、ぼく自身のヨーロッパ経験の棚卸をするときなのではないかと感じている。ローカリゼーションマップでビジネスのための文化理解については考えが深まってきているが、それとは別に、ぼくがヨーロッパをどうみるか、どう考えるか。ふたたび、おさえるべきタイミングがきた。

それをセザンヌの絵画を眺めて想う。それも印象派の技法を学ぶ以前の作品を、ミラノの同時代の画家たちの作品をみながら想起する。1昨年の12月、パリでモネの回顧展とヴェルサイユ宮での村上隆展をみて、二つのラインがどう繋がったかを書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/3738

この数日、セザンヌの印象派以前とミラノの同時代の画家がつながっている。そういうつがなりをみながら、ぼくが全然分からない世界がぽっかりと穴があいたようにあるのを感じ、そこにヨーロッパの知るべき要素がかたまっているのだろう・・・と考える。