2010年4月24日土曜日
ミラノサローネ見学は思索の旅といえる
4月14日から10回に渡って、「さまざまなデザイン」にミラノサローネを散策しながらの感想を書き連ねてきた。事前にプレスリリースされた作品をネットや雑誌でチェックするということは極力せず、毎日歩き回る地区だけ決めて、目についた展示会に片っ端から覗く。膨大なデザインを観察しながら、「全体として人はどんな気分で、どっちの方向を見ているのだろう」を考えていく。ここでのデザインはインテリア周辺が中心だが、実は対象はデザインでなくてもいい。しかし、ライフスタイルやビジネスとのリンクが見えやすいから、デザインは良い材料と言ってよい。それもクルマではなくインテリアや雑貨がいいのだ。
あるデザインを眺めた時、別のどういうデザインや概念を想起するか?という、思索のプロセスを書いてみたのだが、同時にそのデザインをみる人たちの反応の観察結果も記すようにした。たとえば、ガエタノ・ペーシェのデザインの前でカップルでキスしているシーンを頻繁にみたのは、単にモチーフがキスだったからだけではないだろうとも考えた。写真展でキスの写真をみて、カップルがそれを真似るかどうかは、その写真の質にもよるのではないかと思う。いずれにせよ、作品をみてモチーフの物真似をするのは楽しいし、それを眺めるのも気分がよいが、キスという行為はその気分をかなりたかめた結果であるといえる。
プログラムされた散策は面白くない。だいたい、それは散策とは言わないだろう。ある程度心に余裕をもって通りをジグザグに歩きまわらないと発見はないし、今接した作品を消化する楽しみがなくなる。直線的歩行など、この文脈において何の役にも立たない。とにかく浴びるようにデザインを見続け、その記憶が脳内に堆積していくなかで、ある時、「あれは、こういう意図ではないか?」とか「今、人が望んでいる世界ってこんなのでは?」とー自分にとってはまったく脈絡も無いようにーアイデアが浮かんでくる。
その意味であらゆるデザインは、そのマッピングのなかでのコンポーネントでしかなく、しかし重要なコンポーネントである。主役は常にマッピングする自分にある。このことを忘れてはいけない。各デザイナーの意図はできるだけ写実的に理解しないといけないーそれは視覚情報通りという意味ではなく、文字で説明されている視覚とデザイナーや企業の意図も含めてという意味だー。だが、その後の生成作業は器の設定、自身の頭と心のセットアップにかかっているのだ。このセッティングにミスがあると、壊れたコップに水を注ぐような無駄な時間つぶしに自らつきあうことになる・・・そして、本人は徒労を感じるだけ。
あるテーマが、かつての時代において面白く、今の時代において面白くないということはない。常にアングルによって面白さが見出される。面白くないと思われても、一方でそのテーマに一定の支持者がいるのならば、テーマのおかれる文脈そのものの変貌に注意を払わないといけない。何らかの軋みがあり、次の地殻変化が現出させる異なった風景を、今、想像してみる。この態度をキープするのは骨でないとは言わないが、それを辞めた時、地雷を踏んだことになる。多くのテーマは普遍的であり歴史がある。知るべきは、我々の人生はここにしかないということだ。
・・・・だから、思索の旅はエキサイティング。
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