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2009年1月31日土曜日

世の中で一番怖いもの・・・それは水です




さて、山下一根さんの師匠であったハイム大司教は、グーグルでBruno Heimで検索すると129万件ヒットします。ウィキペディアでは以下のように書かれています。上の写真は英国の小説家アガサ・クリスティと一緒に並んだハイム大司教です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bruno_Heim

2003年に亡くなったそのハイム大司教は甥と山下さんに遺言状を残しました。

<ここから引用>

ハイム大司教からの小生へのA4で23枚にもなる遺言からの一つを伝えます。

『Mio Carissimo Amatissimo Ikkon、 世の中で一番怖いものは何か分かりますか?私は水だと思います。私は、この90年以上の人生で、第1次世界大戦も第2次世界大戦も、実際にこの目でヒトラーの演説も見ました。そしてユダヤ人をスイス国内にかくまうことにも手を貸し、大司教になってからもエジプト、スウェーデン、イギリスとみてきました。それでも水は怖いのです。何をいいたいか、霊的息子よ、わかりますか? ようは水、流れということなのです。

洪水はすべてを流し去って無になり何も残りません。流れも、それまでの思想、考え、方向を一瞬のうちに『気づかないうちに』変えてしまいます。だから、流れをかぎつける力を養いなさい。たとえ、その時代時代の教会と異なる流れでも、その流れは見ていなさい。社会あってのこの世、われわれは神の子であって、神じゃないのですよ。人間です。一人では生きていけないのです。。。。以下続く。。。。。 2002年11月22日

あなたの血のつながりのない、しかし誰よりも愛した父、ザントの大司教より』
とかかれています。すごいです。この言葉。。。

<ここまで>

水が怖い・・・これは、ぼくの胸にもズシンときました。

2009年1月30日金曜日

ヨーロッパにおけるカトリックとは何か




ぼくはどこの宗教にも属していないのですが、山下さんの語るヨーロッパにおけるカトリックとは何かを読んでいて、やはりひとつの文化体系そのものだなあという印象を持ちます。それもイタリア文化と相似です。イタリア人が良く言うシンパティコ(人に対して感じが良い)ということが如何に重要か、山下さんは別の面から語っているように思えます。以下、昨日に引き続き、山下さんの文章です。

<ここから>

本来、2000年も歴史的にはいいことも悪いことも、この世のすべてにおいてきわみを歩んできたカトリックが今なお現在も存続しているということは、決して、その権威や権力からではありません。それはこのカトリックという枠組み(組織だけでなく、その考えにおいても)この世を渡るための大きな「知恵」(知識ではない)の最高の結晶というところにあります。

人が壁にぶつかったときに、どのように耐えるか、、例えばローマの父親代わりの多くの枢機卿は、僕の日本への出発前に口を大にしてこのように「あえて」いいました。

『ぶち当たったら希望を持つな、現実をみてカトリシズムに基づいて歩め!』。これは、一見聖書の言葉とあい矛盾するように見えます。しかし、人間は現実と向き合って、どんな困難にあってもそれを一度受け入れ『なにくそ~』という力を育てたいということからなのです。

この点から、例えば日本のカトリックは、知恵からすこし離れて、知識でものを判断していこうとする傾向があります。そうなると、その組織はドイツ語で言うところの『ゲットー』のようにどんどん視野が狭くなり、困難がさらに困難になり、行き着くところは、『自分たちはがんばっているのにうまくいかないのは、社会が悪いからだ』という考えになります。しかし、なぜこの点がまちがえかというと、もちろん社会が悪いとしても、例えばその施政側が悪いとしても、もし本来のカトリシズム、キリスト教ヒューマニズム、そして法学的に言えば、自然法論でいえば、かれらも権利のある、あえてキリスト教的に言えば神の子なのです。なので一番大切なのはやはり『対話(コミュニケーション)』がたりないということなのです。

小生の紋章のモットーは、SIMPLICITER ET CONFIDENTER (単純に、信頼を持って!)です。
これは小生がマルタ騎士修道会に入ったときに、上長が選びました。この言葉は、キリスト教の言葉ではなくローマ帝国の時代によく言われた言葉だそうです。信頼関係→対話→単純に→スマートな生き方
ということです。

本来のカトリック主義、そこから拡大した汎ヨーロッパ主義のエッセンスを見直してきたときに、この対話は大切なことです。それも、万人に刺激を与えず、対話をすることが肝心なのです。それを社会に迎合するという人もいますが、それは間違えです。なぜなら、まず、最初の一歩は、簡潔に言えば、相手にモノを頼むときにはまず相手に合わせ、『もぐりこみ』、(小生の日本に派遣されたときのスタンスもこれです)、徐々に自分の意見を言っていくということです。

これは、トレーニングが必要となりますが、なぜ大切かというと、たとえ相手が間違えているとしても、その相手と向き合う場がなければ先に進みません。その点で、カトリック社会では、特にアジア、南米が確実にその貧困問題や左傾化からローマとのヨーロッパとのBONDが立たれようとしています。そして、教皇庁は、その汚染がローマに及ぶことを必至に食い止めようと躍起なようです。ヨーロッパでは信者の数は減る一方ですが、意外と余裕なようです。なぜなら、自分たちは自分たちの資金を増やすことをしっかりダブルスタンダードで考えているからです。

<ここまで>、


昨日の「ダブルスタンダードの世界が語るもの」について、八幡さんよりコメントを頂きました。以下です。ぼくは昨日の文章を書いてから、ダブルスタンダードという表現は他を批判するための言葉ではないかと考えはじめました。自らを統一的に一律にとらえることは、八幡さんのおっしゃるように、個人であれ社会であれほぼ不可能であると考えるのが現実的でしょう。

<ここから引用>

ここでテーマになっている、ダブルスタンダード、トリプルスタンダードと言うのは、どこかに書いてある原則にしたがって出来ている制度ではなくて、どこにもそんなことは書いてないが、実際はそう成っているという事態ですね。

これはむしろ、社会の現実としてどの国にも、どの文化圏にも、そしてどのサブカルチャーにもあることではないのでしょうか。

法律が社会を作っているのではなくて、ある社会、ある文化圏において、多くの人々が昔からやっていて、そうすることが当たり前だと思っていることを文言にしたものが、法律である(モンテスキュウ)と言うことを考えれば、マルティスタンダードは、そこら中にあるし、それを撲滅しようとすることは無意味であると思われます。

現実社会を観察し、認識することが第一であると思います。先ず、広い世界を見ても、貴族の制度、とそのタイトルを廃止してしまった国は、日本とオーストリアなどが近代では思い当たりますが、オーストリアでは、旧貴族が実質的な主導権を握っている公共性のある組織(旧貴族の覆面クラブになっている)もあり、政府が、優れた業績を上げた人に、帝政時代の称号をそのまま或いはきわめてそれに近い形で授与し、ある種の共和制下の新貴族見たいな物を作っている例もあります。

第一、土地(所有制度)改革を徹底的にやった(やらされた?)国は、日本、それと、台湾くらいしか思いつきませんが、ヨーロッパでは、この二百年くらい、その例はないはずです。そう言う背景があれば、事実上、金持ちや貴族達だけが集まるような社会的な『場』も当然発生しますし、それなりの『習慣』もうまれます。

日本では、公務員のアマクダリや、ワタリが問題になっていますが、あれも、法律でそう定まっているのではなく、法律の穴を利用して行われている習慣ですので、日本的なマルティスタンダードの一例ではないでしょうか? それを廃止させることは、勿論日本人の権利ではありますが。

こういう事実は、よくよく認識し把握しないと、実務上、大きな失敗をすることになるのではないでしょうか? 理論と現実は、特に社会的な次元では、けっして一致しないのがごく自然なことであるとおもいます。

<ここまで>

明日は、山下さんの師匠であるハイム大司教の山下さんあて遺言の一部をご紹介します。

2009年1月29日木曜日

ダブル・トリプルスタンダードの世界が語るもの




もう一つのブログ「さまざまなデザイン」で西洋紋章画家の山下一根さんを紹介したことがあります。ケンブリッジ大学紋章系図学会総裁やスペイン・ブルボン王家付高位聖職者も勤めた、前駐イギリス教皇庁大使のブルーノ・ハイム大司教 (l’arcivescovo Monsignor Bruno B. Heim)の弟子でした。ハイム氏は歴代のローマ教皇やハプスブルグ家・ブルボン家などの紋章を手がけてきた大司教です。下記URLが山下さんを紹介した文章です。

http://milano.metrocs.jp/archives/date/2008/08/page/4

今日、その彼から「ヨーロッパ論の一つとして」と題したメールを受け取りました。上の写真はローリングストーンズやブレア首相のアドバイザーを勤めたLoewenstein公と山下さんです。勲章は、これから文化を担ってくれそうな若い人に与えるものだ、というのは欧州文化を理解するうえで重要なコンセプトだと思います。

<ここから引用>

ヨーロッパ社会ではネガティブな意味でなくてポジティブな意味で、ブルジョワ階級とノブルス(聖界・俗界貴族)階級が謳われます。くだんなく言えば、金持ちは地位がほしい、貴族は金がほしい、 それがうまく結びついています。実際、小生の欧州時代も、勲章がほしい有産階級の人にそれなりの爵位や勲章を仲介して、謝礼やスポンサードを得ることはかなりありました。

それはヨーロッパ人が紋章の標語でも最も好むラテン語の格言、ATTENTIO MAGNA ET VIRTUS AUDAX = 細心の注意力と大胆な行動力裏付けられた一見ダブルスタンダードのようなことですが、実は日本人が忘れてしまった上手な、上品な協調性がもたらした結果なのかもしれません。

ハイム大司教は32個の勲章を持っていましたが(ちなみにま小生はまだ4個ですが、、、)それは、前にも話したように、外国では王様は勲章は年寄りにではなく文化をになってくれ「そう」な若人に与える風習からきているのかもしれません。

例えば、小生の大親友の、Prince Rupert zu Loewensteinというババリアの最後の国王の孫で、イギリスで、BANKERをしていて、30年以上ローリングストーンズのファイナンシャルアドバイザーをしていたかれは、その貴族の人脈を生かして、有産階級には地位と冨を、そして、自分はその対価としてそれなりの金をもらい、文化を擁護するというスタンスが出来上がっていました。以下リンクは彼のミックジャガーとの記事です

http://www.citywire.co.uk/professional/-/news/wealth-management/content.aspx?ID=326765&ViewFull=True


http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-459659/Mick-Jaggers-secret-divorce.html


このように、古くからの伝統を形を変えても資本主義の中に取り入れて生き残ってきましたが、それに対する教会の役割は、何の因果が、衰えてきました。それはそのような社会で、まず第1に、いわゆる、流れにのることも必要なときにもう一つの流れを作ろうとしてしまったこと。第2に、実はこれは僕の師匠のハイム大司教が、あらゆるデザインはもちろん工業デザインだが、前提としてコミュニーケーション・デザインでなければならないといったように、すなわち、今時代は何を必要としているかということの計算の前に、権力闘争や、またお金が出て行く一方で、あらゆるこのコネクションをつかって、このコミュニケーションを増やすことが大事です。

例えば、ローマ市内の不動産の3分の1はVの字(VATICANO)、イタリア・コカコーラ、イタリアのシェルのBOARDING STAFFには多くの貴族、サケッチ公爵やボルゲーゼ公爵をバチカンは送り込んでいるし、FIAT会長のコルデオ・ランツァ・ディ・モンテゼメロCordeo laza di montezemelloの兄は枢機卿です。

つまりダブル・トリプルスタンダードにローマ以外の教会が慣れていなかったことがあるかもしれません。
私は、西欧での10年間で、徹底的に、神学よりもじっさいには外交論・学を学んだのですが、(もともと僕の修道会、マルタ騎士団の司祭はロビイストとして、その権力とともに活動することが多いので)、つねに、とりあえず、ものを語るときには1,2,3と3つの論が即座にいえるようにというトレーニングはよくされたものです。これは、フランスの小学校の国語の授業でもそのようになっています。

<ここまで>

このなかで世の中の流れにのえなかった教皇庁のことに触れていますが、それについて、山下さんは以下のような見方をしています。

<ここから>

世の中の流れに乗れなかった大きな原因は、愚衆政治的にはカリスマと愛されたヨハネ=パウロ2世といわれています。かれは大衆の求めていることにさまざまな波を起こした代わりに(ポーランドの共産党打破にバチカン銀行 IORから多額の資金を流したこと)、教会そのもの求心力を失ってしまいました。今のベネディクト16世はそれをなんとか元の原点に返ろうと努力していますが、前教皇のまいた種が育ち「すぎた」ことに苦労しているようです。

<ここまで>

ダブルスタンダードやトリプルスタンダードと呼べばよいのか、それともスタンダードにある幅をどう寛容の心をもって広げておくか、こういう問題を指摘していると考えます。スタンダードとは何なのか、その定義自身が今の世の中で見直されるべき時なのでしょう。