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2010年10月3日日曜日

醤油を使えば和食か?

最近、イタリアの大手香辛料メーカーから「七味唐辛子」という名前の商品が販売されていることを知った。商品パッケージの裏には焼鳥のソースレシピが書いてあり、そこに、この七味唐辛子を使うように書いてある。そうか、こういう時代になってきたか。

ヨーロッパにおいて和食は外食であり家庭料理ではない。日本の餃子やカレーのような位置に和食はない。しかし、醤油はかなり浸透をしはじめている。特に和食という料理を作らなくても、肉や魚を食べる時に醤油をかける。若い人が自分たちで寿司を作ったりしているが、それ以上には普及している。これを和食というか?と問えば、日本人の感覚からして和食とは言いがたいだろう。タバスコを使ったからメキシコ料理とは言わないと同じように。オリーブオイルを使っても地中海料理とはならない。

このように調味料がジワジワと伝統料理に影響を与えていく。もちろん醤油を使うのは、やはりあるレベル以上の家庭であろうという仮説は妥当だ。でも、そのレイヤーがだんだんと下がっていくのも確かだ。そして、こういう問いがなされる。「ヤマサとかキッコーマンを買っているんだけど、日本にはもっと別のブランドが沢山あるんでしょう?」と日本人に聞く。ヤマサやキッコーマンに不満だというのではなく、バリッラやデチェコ以外にパスタメーカーはイタリアに数多くあるだろうと日本人が思うように、醤油にも多くのブランドがあり、その一部しか自分たちは味わっていないと認識をはじめている。

醤油を使っても和食とは言わないと前述したが、実は「醤油を使えば日本料理って思っちゃいますよね」とぼくは日本の人に言っている。よく「イタリアの家で何を食べているのですか?」と質問されたとき、「まあ、イタリア食と日本食の半々。でも、醤油や味噌を使えばなんとなく和風を食べた気になることもありますよね」と答えることが多い。つまり日本食の定義自身、かなり危ういところにある。日本人は醤油に慣れているから、醤油があることで和食へ接近が図られる。しかし、肉や魚に醤油をかけるヨーロッパ人は、醤油が日本発であると知っていても、調味料としてもっとニュートラルな存在としてみている。カレー味もそうだが、伝統料理からの脱皮で異文化に触れた気になるが、終点に行き着いたとは違う浮遊したムードを味わうことになる。よって和食を食べているとは思っていない。

調味料は万華鏡だ。

2010年10月1日金曜日

やはりヨーロッパはちゃんと見ておこう


以前から言われていたが、リーマンショック以来、特に言われ始めたことの一つに、「ヨーロッパは終わりだ。これからはアジアの時代だ」という台詞がある。こういうのは、終わりも始まりもカレンダーが変わるように分かるわけではなく、後になって「あれと、これと・・・」という象徴的なコトが集まって時代区分が見えてくるのだろう。確かにヨーロッパ人も、「これからのビジネスはアジアやアフリカだ」と言葉に出して言ったり、実際、そちら方面の出張が多くなったりしている。しかし、心のなかで、「自分が生きている間に、今のヨーロッパの心地よい文化的生活が壊れることもなかろう」と思っている。

日本や韓国あるいは中国のモノやコトがヨーロッパの風景をどれほど変えていくかが議論されてきたけど、案外、そう簡単に変わらない空気が強いことを、ぼくはミラノで感じている。適当な異文化のエッセンスは刺激になるし、商品で高くなければ買わない理由はない。そんなものだ。日本が変わらなくちゃいけないと大騒ぎしながら変わらないと嘆くより、もっと変わっていないのがヨーロッパだ。それでも、突如として「どうしてこんな法案が通ったのか?」と驚かされるように変化するのもヨーロッパだ。環境政策なども、その一つだろう。



ぼくは、ヨーロッパに肩をもつわけでもないし、アジアに肩をもつわけでもない。じょじょなる変化がいつの日か大きなうねりとなっていく。その時、多くの人の考え方の傾向がどうなっているのだろうか?ということに興味がある。「アジアの時代だ。ヨーロッパは終わった」というときに、どういう感じ方や考え方がアジアで主流になっているのか?アジア的なのか?ヨーロッパ的+アジア的なのか? ここで一つ言っておくなら、ヨーロッパ的とは、必ずしもヨーロッパでだけで通用するというのではなく、かなりユニバーサルに流通していることも含んでいる。いつの間にかあった痕跡の元を辿るとヨーロッパであった、ということだ。この逆もあろうが、どちらか一方が多いだろう。

もちろん、そもそも何がアジア的で何がヨーロッパ的かという定義がきちんとしてあるわけではない。およそのタイプとして、こんな感じの考え方をする人が多い、あんな感じをする人が少ない、という程度だ。しかし、「という程度だ」は無視出来ない程度に影響力がある。だから、ややこしい。とにかく、このごろミラノの街を歩きながら、ヨーロッパの頑固なレイヤーのあり方を読み間違えると、酷いやけどをすることになるのではないかという危機感をもつ。道行く人の素振りから商店のショーウィンドウまで、街の風景を形づくっているディテールを眺めながら、ヨーロッパへの見方を研ぎ澄ますことを怠ってはいけないと自戒する。

2010年1月8日金曜日

ヨーロッパである理由

2010年初めての投稿なので、年末から年始にかけて思ったことを書こう。

今後アジアが経済の中心になると言われはじめて、それなりの時間を経た。中国、インド、あるいはインドネシアあたりの力強さが言及される。日本企業で海外進出に力を入れるとは、アジア圏を指すことが多い。もちろん、最近のシャープなど、一度は撤退した携帯電話機器メーカーが再度米国や欧州に再挑戦するニュースもある。が、ユニクロの「民族大移動」-数百人単位で海外駐在を経験させるーの記事をみても、中国やロシアが主力市場であることを物語っている。分野によるが、大方、アジア詣で流行であることは間違いない。そこでヨーロッパについて語るのは、何となしに劣勢について語るムードを感じる。

しかし、それはそれ。

ぼくがヨーロッパをテーマにするのは、いってみれば地域そのものについて言っているのではない。スコットランドの自然やドイツの古いお城を愛でているのではない。中国やインドで固定電話をパスして携帯電話が普及している現状があり、あるいは、これらの地域で内燃機関のクルマをあまり経験せずEV市場が急伸する可能性があるが、そういう現実から生じる新しい価値観を否定しない。歴史はすべからく同一には流れない。

が、ぼくは個人的に、アーカイブ社会とも呼ぶべきヨーロッパから生まれる新しい価値に面白さを感じている。封建時代があり、啓蒙時代があり、多くの悲惨な戦争を経て、今、ヨーロッパ圏内でー少なくても西ヨーロッパ世界においてー国家同士の戦争が生じる可能性は極めて低くなっている。あれだけ戦ってきたフランスとドイツが今はEUの牽引車となり、世論調査を行っても両者、お互いを高く信頼している。国家のうえに新しい権威を築いた意味は大きい。こういった新しいカタチで紛争回避の道を探ってきた社会は、同時に新しい強靭な価値を生むはずであると考えておかしくない。

その意味で、巷で聞くヨーロッパ没落論は、ぼくの関心とは別のところにある。多くのヨーロッパ論ー特に日本におけるーは「傍観する」ためのものであり、「生きる」ためではないとぼくには思える。年末、総合研究大学院大学の『人工物発達研究』に掲載する原稿「ヨーロッパ文化のロジックを探る」を書きながら、この「生きるため」ということを意識した。そうは書かなかったが、意識はそこに強くあった。世の中に通用するロジックは無数にある。そのロジックをどれだけ知り、それらをどう繋げるコツを知っているか?は、まさに「生きるため」である。

「さまざまなデザイン」に、今週二つのエントリーを書いた。「海外で働くことをオプションとして考える」「あの人はぼくと違うと思うこと」を指している。ぼくがヨーロッパを必要に思い、1990年イタリアに来たとき、このように世界にフラット感が漂うとは想像していなかった。そのフラット感については、後者のエントリーでテーマとしている。確かに多くの垣根は実際に消滅したようにみえるが、崩壊していないもの、あるいはより高くなったものも多い。この新しい「フラット感」ーフラットではなく、あくまでも「感」が蔓延しているーをどう見極めるが、今、非常に重要だと思う。それは個人ベースだけでなく、ヨーロッパを考えるに際しても、同様だ。

この問題について、引き続き書いていく。

2009年9月27日日曜日

経済問題の見方を考える

いわゆる西洋的価値観が形作る世界が音をたてて崩れていくような20世紀であった・・・・ということを、21世紀に入っての9年で実感している人達が多いのではないかという感じがします。そして、それがよりスピードアップしています。そういうなかでヨーロッパ文化を語る意味はどこにあるのか?ということをよく考えています。一つはヨーロッパ文化を例に、ものの見方をどうつくっていくかということで、以下にメモを書いてみました。

http://milano.metrocs.jp/archives/2222


もう一つ、多様な世界の実例を知ることが、精神的余裕を作っていくのではないかということも考えています。以下はその問題意識に対するダイレクトな答えではないですが、非常に密接な位置にあります。

http://milano.metrocs.jp/archives/2229


最近、ダボス会議の東京事務所ができたようですが、色々なところでダボス会議に毎年参加されている方の意見を読んだり聞いていて、「世界のリーダーが個人の資格で参加して新たなトレンドを作る」と説明するわりに、失礼ながら、どうもピンとこないことが多いです。ほんとうに状況が見えているのだろうか?と思うことが少なくありません。それだけのレベルを謳うわりには、三点観測から導かれたような意見であると思わせる印象をとんと受けないのです。

このあたりの違和感が、このごろ大きくなりつつあります。何かを語っているようで、何かとても大きな穴を見過ごしている・・・・という感じを強く受けるのです。これで本当にいいのだろうか・・・という気がして仕方がありません。ぼくはこのあたりの不安や不足感を根拠に今、自分で語れることの内容をひたすら探っています。

昨日、ローマ教皇が「経済に倫理を組みこむことが大きな挑戦的課題」という発言をしています。

http://www.corriere.it/politica/09_settembre_26/intervista-papa-gian-guido-vecchi_8639da18-aa95-11de-a0d4-00144f02aabc.shtml

これは先日の英国国教会の「経済はエコノミストに任せておくには重要すぎる」という発言と同じ問題意識に基づいています。

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article6836496.ece


宗教界が経済問題をこのように見ているなか、同じようなレベルで俗界の人達がものを考えているのか、それが気になります。それらしい言葉は聞くことには聞くのですが、宗教界が「大きな挑戦的課題」というほどにはダイレクトにシリアスに思っていないのではないか、それは宗教界のほうが状況の深刻さをより実感しているのではないか、という推測に基づきます。要するに、肝心なのは、目の前の現実をどう大きい範囲で深くみていくか?ということなのでしょう。