2009年2月16日月曜日

北欧の企業は社会と一体という論




ヨーロッパのCSR(企業の社会的責任)についてブログを書いている藤井敏彦氏が、北欧のCSRについて触れています。企業による寄付(フィランソロピー)の部分を引用します。アングロサクソンの文化では企業と社会が切り離されており、そこで寄付が両者をブリッジしているのに対し、北欧の企業は両者が分離されていないため、寄付は社会的に敬意を受けるのとは逆の方向に見られるとあります。

これはぼくも知らないことでした。少しフォローしてみます。


http://wiredvision.jp/blog/fujii/200902/200902161200.html

下線部に注目してください。なんと、「フィランソロピーは軽蔑されることもる」! 社会保障の進んだ国では。もちろん、社会保障の進んだ国の典型 が北欧諸国であります。フィランソロピーはもともとアングロサクソンの概念であることは知っていましたが、それにしても企業の善意の寄付を軽蔑しなくても いいじゃん、と。そこで何人かの北欧出身の友人にこの疑問をぶつけてみました。

ニッポン・フジイジム局長「フィランソロピーって軽蔑されたりするの?」
デンマーク・ピョートル大帝君「そうだよ」(あっさり)
フィンランド・アンヌ隊員さん「そうよね」(可愛らしく)

うーむ。。。最終的に最も納得できる説明をしてくれたのが大親友にして畏友、オランダ人にして完璧なフィンランド語を話す(らしい)アレキサンダー氏でした。曰く

「アングロサクソンの社会では企業と社会が切り離されている。それをつなぐものがフィランソロピーという利益の社会還元。北欧の社会では企業と社会 が一体になっているからフィランソロピーという概念は必要ない。従業員は同時に市民であり父親であり母親である、その前提が会社に浸透している。社会と会 社の壁がない。フィランソロピーと聞くと会社と社会の距離を感じる。」

なるほど。単純化してしまえば、「育児休暇は短いけど寄付に熱心な」アングロサクソン系企業と「従業員に2年の育児休暇を与えるけども寄付はしな い」ノルディック系企業。どちらが社会的責任を果たす企業でしょう。みなさん、どう思いますか。さらに加えれば後者の企業は高い法人税を負担していて市民 の様々な社会的活動は税金によって担われている。全体として見るとどうでしょう。日本のCSRを考える際にこの二類型をどう考えればよいのでしょう。




ヨーロッパ文化部は何をするか?




このブログの一番最初に書きましたが、ヨーロッパ文化部は下記のような事業を考えています。もちろん、基本的にヨーロッパ文化に関することに限ります。

1)セミナーの企画・実施
2)TV・雑誌・書籍の企画と製作
3)事業コンサルティング

そこで、今、1)のセミナーの構想を考えています。ぼくは対象を三つにするべきかなと思案していて、その三つとは以下になります。

a) 大学などの教育機関
b) グローバルメーカー
c) デザイナーや建築家(主に若手)

a)  に対する狙いは、将来メーカーで商品企画などに携わる工学系の学生達に対してヨーロッパ文化を例に、文化の見方のヒントを提供することです。文科系と理科系の横断的講義は増えているようですが、ビジネスの現場での文化的リアリティにどこまで迫れるか?という点で不足感があるのではないかと想像しています。

b) に対しては、やはり企画系がメインになってくると思いますが、まず最初はグローバルメーカーの幹部クラスにヨーロッパ文化を理解する意味と目的を知ってもらうことからはじめるべきでしょう。その後に、ヨーロッパに駐在している人達も対象になってきます。多くの実務経験を一つの体系にどう置き換えるか?がキーになってくるかもしれません。

c)  実際に手を動かす若い人達に、より具体的な次元で、ヨーロッパ文化の「入り口」を知ってもらうことが大事だろうと思います。日本の各地で地場産業の掘り起こしと、その製品の海外輸出を促進するプロジェクトが、経済産業省も絡んで実施されています。これらのプロジェクトにプランニングやデザインに関わる若手デザイナーが対象となるのではないか、と考えています。

この5月に上のb) とc) を別々に実施できないかと構想を練っているところです。とりあえず今週にでも企画のドラフトを作成してみます。

2009年2月14日土曜日

『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』






水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)について、ブログ「さまざまなデザイン」で二回にわたって書きました。本のなかで日本語という言葉の運命が切々と語られています。ネットの世界でも評価は賛否両論です。しかし、ぼくは言葉の問題はさておいて、この本で指摘されている文化差について言及しました。筆者は文学と他の「文化商品」の間に境界線を引いていますが、こと文化差を語るとき、両者を渡り歩きながら語ることができると思います。

ぼくは昨年12月初めに評論家の加藤周一氏が逝去したとき、以下のようなメモを書きました。

5日に評論家の加藤周一が89歳で逝去。この週末、日記検索やブログ検索で200近いコラムを読んでみた。年齢層はさまざま。たぶん、20代から60代まで。とても良く分かったことがある、残念ながら・・・。近代合理主義あるいは近代理性というものが、日本において十分に消化されることなく、途中で吐き捨てられそうになっているということが、数多のブログを読んでいて見えてくる。ブログを書くタイプがどちらかに偏っているとか、そういうことは、あまり勘案しなくてもよいだろう。

加藤周一の著書から多くの影響を受けたと書きながら、その文章には、その影響があまりみえない。青春の思い出の書に「成り下がっている」。近代合理主義は「日本の青春だったのか?」と問いたくなるほどに。確かに、近代合理主義の大いなる思い込み違いは、既に多くの場所で露呈している。しかし、それは唾棄すべきものでもなんでもない。あくまでも重要なステップであることには変わりない。

『日本文学史序説』の最初に、江戸時代の大名屋敷を例に、日本のディテールからいく傾向(つまり、部屋を積み重ねた建て増し的な方法)と、西洋の全体デザインを考えてから部屋割りをする傾向、この二つのことが指摘されている。こういう違いが、如何に多くの政治事象、経済事象からはじまって、日常のコミュニケーションに至るまでどういうリアリティを生むのか?それを、どれほどに「近代日本」は分かってきたのだろうか・・・。

日本の製品が、どうしてあのような中途半端なデザイン表現を欧州においてするのか。それは近代合理主義的表現ではない。それによる問題点は、欧州市場におけるブランドの脆弱性を生んでいる。近代合理主義は全てではないが、今の世の中にあっても、たくさんのコトとモノの土台になっている。これが大きく変わるのは、あと最低2世代を経ないといけないだろう。ここに加藤周一が忸怩たる思いをもち、「富士山を世界一美しいというのは井の中の蛙だ」と言った、と思う。

ぼくは『日本語が亡びるとき』に関する色々な意見を読むにつけ、加藤周一に関するブログの数々が思い起こされてきました。議論がディテールの知識の問題になりがちです。これではプラットフォーム形成の旗振りをしにくいでしょう


<以下、上記ブログ「さまざまなデザイン」のURL>

http://milano.metrocs.jp/archives/917

2009年2月11日水曜日

コンセプトを語り合う






2月9日の「コンセプト構築から具体策立案までのスピード」(以下)を書きました。

http://european-culture-note.blogspot.com/2009/02/blog-post_09.html

これに対して、八幡康貞さんより、下記のようなコメントを送っていただきました。

これについては、面白い話を読んだことがあります。
* フランスとドイツの会社の間で、共同事業などが進んでくると、コミュニケーションギャップも生まれているようです。

フランス人の目からすると、「コンセプト」とは、主としてイメージの問題であると見えるので、フランス側は、ある事業計画のコンセプトを持ち寄るという場合、イメージを膨らませ、展開させることに一生懸命になるのだそうですが、ドイツ側は、コンセプトを、事業計画素案としてとらえ、段取りから、組織、責任分担、マーケティングの押さえ所、事業の資金計画など、事細かにかつ具体的に練り上げてくるというわけです。

コンセプトそれ自体の論理化と、実践の為のコンセプトという違いがあるのかもしれませんが、フランス人が受けるドイツ側についての印象が、日本人が、フランス人とコンセプトを語る場合に、フランス側から受ける印象に類似性もあります。

コンセプトという言葉が指す領域が違うことを指摘されています。ドイツでより具体的で実践的な部分を重視する傾向を経験された方の文章だったようです。以下で八幡さんは、フランスからみるドイツ、ドイツからみる日本、これらに似た点があるところを面白いとおっしゃっています。ぼくもデザインでコンセプトという時に、日本ではどちらかというと機能的な側面により目が行きがちで、そのデザインそのものの根本、いわばそのデザインがユーザーにとってどういう印象で頭に残るかを一生懸命議論するイタリア人を前に、その両者の違いを感じることがよくあります。

* さらに、日本の会社と、製造、開発、販売などで協力関係に入ったドイツ側の企業の人は、日本側の意思決定が長期にわたり、イエスか、ノーか、の返事すら聞こえてこない。堪忍袋の緒が切れそうになると、日本側から、協定調印の話が来る。代表者が日本に来てみると、調印を済ませたばかりの協定の為に、新しい工場の建設や、生産の手はずが整っており、様々なセクションや日本側の関係企業との間の話し合いも出来ていて、あっという間に事業は具体化されるのだ、と言っていました。根回しですね。

この場合も、フランス側が、ドイツの企業から受ける印象と、ドイツ側が日本企業から受ける印象が、似ている点が面白い。

どうも、それぞれの国(民族)独特の考え方というよりも、異種の集団が出合う「場」に望む際の、むしろ意識下の次元での思い入れや態度の違いが、こういう事例に出てくるのではないでしょうか。もっと、分析的に考えてみるべきだと思いますが、実例があまり出てこないのが難しいところです。当事者は、あまりそう言うことを語らないようですから。

勿論、日本と、スランス・ドイツ等の内だに在るコミュニケーションギャップの重大さは、問題として残ることは事実ですが。とくに、日本では、'言葉(論理)を道具として(武器として)使い切る為の訓練が不十分でることは否めないでしょう。

「それぞれの国(民族)独特の考え方というよりも、異種の集団が出合う「場」に望む際の、むしろ意識下の次元での思い入れや態度の違いが、こういう事例に出てくるのではないでしょうか」という部分、これからよく考えてみたいと思います。

2009年2月10日火曜日

ヨーロッパ文化部第一弾セミナー構想(2)




なんのためにヨーロッパ文化を理解するかという目的をはっきりさせることが重要です。先日も書いたように、最終的にビジネスリターンを生むためのヒントを考えるというのが「ヨーロッパ文化部ノート」の目的です。ぼくが昨年、47回にわたってブログ「さまざまなデザイン」で書いた「2008ミラノサローネ」は、ヨーロッパ市場における日本製品の「見せ方」をテーマとして取り上げました。企業ポリシーや製品コンセプトの伝え方です。これらにもっと改善の余地があると感じました。

先日、テレビ朝日で正月に放映された『サンデープロジェクト』をDVDで見ていたら、「フィンランドにこそ、日本が学ぶべき点がある」と経済ジャーナリストの財部誠一氏がフィンランドをレポートしていました。どうも昨年も北欧の国を取り上げたようですが、そしたら非常に大きな反響で、それもネガティブなものも多かったといいます。「人口が日本の20分の1以下の国は経済規模も全く違い、参考になるはずがないじゃないか」という批判に代表されるものでした。

「外国に学ぶべき」と声を大にするほうもするほうですが、日本と同じサイズの同じ環境の国なんて世界中どこにもないのに、相変わらず、多くの人は同じ視点で見ているのだなとため息が出ました。「どうして、コラボレーションするパートナーとして欧州を見ないのだろう・・・」と思います。モノやコトを一緒に作り、売り、そして一緒に儲けるのもコラボレーションです。そうすると違った風景が目の前に広がってきます。

下記は、メルマガで「万華鏡」というタイトルで英国の生活を書いている方の文章の一部です。イギリス人と結婚された40代後半の日本人主婦で、在英20年以上のようです。毎回、しっかりと長い文章を書かれています。「西洋人を賢くさせてきた」「世界をリードし続ける西洋人」など、表現に少々疑問符がつきますが、それは寛容にうけとめましょう。


実際のところ、進化論も創造論も、イギリスにおいては教養だと思います。創造論を支持するなら、進化論を論破する以上、その進化論に対する知識は必須だからです。新聞の記事でもエッセイでも、キラリと光る文章を書くジャーナリストは、宗教と科学と歴史の知識、聖典からの引用、文学と芸術と詩的表現、それにラテン語とフランス語をさりげなく織り込み、教養の高さを示すのです。それでいて自分の意見もはっきりと提示して。

自分の考えを持ち、違う考え方について知る。これこそ、西洋人を賢くさせてきた術法だと感じます。情報がいくらでも簡単に入る現代、これからも、英語でも日本語でも、ただのおしゃべりだけではなく、哲学するという観点から、お互いの進化のために、色んな人と論じていきたいと思っています。 

日本に住んでいるのなら、西洋人とのつきあい方というような術は個人のレベルでは必要としないかもしれませんが、グローバル化がこんなに進み、経済も一蓮托生の影響下にある現在、世界をリードし続ける西洋人の考え方の土台となっている部分についての知識を持つというのも悪くないと思います。

この方はイギリス人の男性と結婚し、イギリスで成長した子供たちと一緒に生活するうえで、欧州の考え方を身につける必要があったでしょう。それを自覚なさったうえで、「西洋人の考え方の土台となっている部分についての知識」という書き方をしています。これが、ビジネスの世界での「コンセプト構築」や「プラットフォーム形成」という話題に繋がっていくと思うのですが、大変残念なことは、このような個々人の知識や知恵がビジネスの世界に上手く翻訳されていないことです。他方で、日本における西洋文化に関するアカデミズムの蓄積が、同様にビジネスの世界に還流していないという状況があります。唐突ですが、その一つの例が、電子機器のインターフェースの開発ではないかとぼくはみています。

2009年2月9日月曜日

MADE IN JAPANブランドの復活-1




日本製品は「過剰品質」ではないかという指摘が繰り返しなされてきましたが、その「過剰論」を指摘している記事が日経BPのTechonにあります。製品のメッセージの伝え方の重要性を指摘しています。当然でしょう。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090206/165317/?P=1

しかし今や,製品機能は複雑化し,ちょっと見ただけではその良さを理解できない状況になってきた。以心伝心の日本国内ならまだしも,海外では「つくった だけ」では受け入れてもらえることは難しい。「売りづくり」や「ことづくり」と言われるように,「ものづくり」という概念を,単に生産部門に閉じるのでは なく,顧客に設計情報を的確に届けるというトータルな活動として「拡張」することが,これまで以上に重要性を増していくのだろう。


<中略>

コモディティ化が進んだ低価格な領域で日本など先進国のメーカーが利益を上げるもっとも最適な方法は,当コラムでも何回か書いているように, プラットフォームを形成して,その中から外部のグローバル市場をコントロールすることである。プラットフォーム作りに関しては,欧米企業が強みを発揮して おり,日本企業は一部で頑張っているものの,それでもプラットフォームの外で頑張るしかないケースも多い。そうしたケースでは特に,日本企業が高品質・高価格なところにポジショングして,その下の部分は新興国のメーカーに譲るという流れは,歴史的,そして倫理的にも避けられないことなのかもしれない。

ただ、このプラットフォームの形成の弱さに諦めが漂っているところが気になります。まさしく、昨日指摘したコンセプトの作り方に時間をかけるかかけないかという問題は、ビジネス現象として、プラットフォームの勝負に勝つか負けるかという分岐点を表します。日本製品が高品質・高価格にポジションをもつ動機付けの一つに「プラットフォームを作るのは苦手」ということがあり、これを克服しようとの意志と方策をもたない限り、なかなか長期戦の主人公になれないでしょう。

この記事の筆者が、2年ちょっと前に、「ものづくり」ではなく「売りづくり」という言葉の紹介を以下のようにしています。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20061010/122084/?P=1

日本企業の伝統的な考え方は,まず現場のものづくり力を磨く→その結果として製品が売れる→さらにその結果として利益が出る――というものである。それに 対して,欧米企業の考え方は,その逆だと言われている。まず利益を出すことを考える→そのための製品を企画する→さらにそのためにものづくりを活用する ――と「方向」がまったく逆である。

確かに欧州の会社はより利益率重視ではありますが、上記は単純化しすぎていないかとも思います。「方向が全く逆である」とぼくは思ったことがありません。でも、ここでは立命館大学大学院 経営管理研究科教授の濱田初美氏の指摘の部分を引用します。「2番手の人材を海外に出している」というのはどうかと思いますが、文化理解の必要性を強調している点はヨーロッパ文化部ノートの趣旨と一致しています。

「売りづくり」を進めるための人材育成の重要性を説いたのが濱田氏であった。グローバル市場で成功している企業は,その国の文化に精通した人材を育成して いると言う。母国と担当する国のどちらの暮らしぶりにも精通し,そして両文化を許容できる「二重市民」を育てるほどの徹底振りだという。こうして,その国の消費者のニーズをくみ取って「売りづくり」を進めるのである。これに対して日本企業は,そうした文化に溶け込むような努力が足りず,もともと「社内で最 も優秀な人材でなく2番手の人材を海外に出しているのではないか」と濱田氏は手厳しい。

以下は2008年の特許出願件数動向ですが、これらの数字を眺めていて、特に会社別で1位に中国メーカーが出てきているところをみると、高級品質・高価格の戦略は早晩行き詰るのではないかという気になります。

コンセプト構築から具体策立案までのスピード




このブログを読んでいただいている方から、「藤井敏彦のCSRの本質」というブログを紹介されました。藤井氏は経済産業省の方ですが、企業の社会的責任(CSR)について連載されています。

http://wiredvision.jp/blog/fujii/

1月26日「ヨーロッパの新環境政策SCPに注目せよ」というタイトルの記事を読んでいて、昨日書いた、井口尊仁さんが経験した、フランスの先端技術へのアプローチと繋がる話題だと思ったので紹介します。ヨーロッパにおけるコンセプト構築に対する時間のかけ方が、いわば「苦労話」として書かれています。

http://wiredvision.jp/blog/fujii/200901/200901261400.html

「コンセプト」についてニッポンとヨーロッパの人々は、それぞれ世界の両極にいるのではないか、とさえ感じたりします。もちろん、この観察は小生の限られた経験に基づくものです。新春セール以上にディスカウントしていただいたほうがいいかもしれませんが。

コンセプトを徹底的に議論するわけですね、あの人達。そして精緻化していく。机上の論が好き。しかるに日本の多くの人にとっては、机上の論=「机上の空論」。世界にも希に見るプラグマティックな思考。

CSRもそうだったでしょ。ヨーロッパってCSRをすごく精緻に、既存のコンセプトであるフィランソロピーとかコンプライアンスとか、そういったものとの線引きを明確にしながら、精巧に定義した。日本は融通無碍にCSRという言葉を使い回した。


コンセプト構築の議論に多くの時間とエネルギーを使うことを、この藤井氏は「机上の空論が好き」と表現していますが、一方で、これをやらないと欧州人と付き合えないとも書いています。

ただ、外国ではコンセプトを詰める人たちがいるという事実は知っておく必要があるかも。国際社会において理念やコンセプトは多様性の中に埋没せずに生き抜く手段、戦うための武器であります。政府間交渉のような場だけではなくビジネスの現場でも本質的に変わらないのではないかと思うのです。よって、そのようなものを持たずに外に出て行くことは、武器の使用を制限されて海外に送り出される自衛隊のようなもの。もちろん、我々シビリアンは負傷したりするような目には遭いませんが。相手にされずに終わるリスク大。

<中略>

で、一旦念入りにコンセプトが形作られると、その後はコンセプトにしたがって押し止められない勢いで様々な具体的政策が提案されてくる、というのがEU環境政策の特徴です。今のところ次のような策が明らかにされています。

「政府間交渉のような場だけではなく、ビジネスの現場でも本質的に変わらないと思うのです」とありますが、ビジネスでも全く同じです。まずは縄で一番大きな輪を作り、じょじょにそれを話し合いながら小さくしていく、そのステップの踏み方と時間のかけ方は実に丁寧な場合が多いと言ってよいでしょう。そして、引用の最後の段にあるように、一度そこで合意をみると、具体的な方策があっという間に出てきます。このスピード感覚に慣れていないと、最初はウンザリ・・・最後は泡を喰うという、非効率的なこと極まりないという事態に陥ります。