2010年10月8日金曜日

ローカリゼーションマップ研究会の勉強会(10月と11月)

今年3月末にキックオフ したローカリゼーションマップ研究会ですが、半年を経て第二ステップに入ります。一つ目は今月後半から経済誌オンラインでの連載スタートです。二つ目は活 動領域の拡大です。もっと色々なところに顔を出していこうと思います。そのなかで、従来の勉強会も定期的に開催していきます。以下、5回目と6回目の実施 要領です。

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taroo(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です

10月28日(木)18:30-20:15 「アメリカで寿司を食べる人はカップ麺を食べる?」

世界で寿司はブームではなく定着をはじめたといわれます。もちろん国によって違い、あるところでは定着し、あるところはブームになる兆候がみられる ということだと思います。しかも、それは日本人の舌に満足する寿司が必ずしも基準になっていません。だが、そこに大きなマーケットが広がっているのも事実 です。東京のイタリアンが日本人向けにローカライズされているように、海外で外国人が食べる和食も寿司を筆頭に日本とは違ったものになっています。メキシ コではカップ麺に辛みをつけて食べるといいます。

今回は海外における日本食の受容をテーマとし、食評論家の横川潤さんにお話いただきます。日本食が海外で浸透するにいたった過去の流れをおさえなが ら、現在、どのようなカタチで、どのような層に、どのような日本食が受け入られているのか。これらを具体的な事例に沿いながら、食の受容が意味することに ついて考えていきます。

参加定員数:20名
参加費:1500円(20:30以降の懇親会参加費を含む)

講師:横川潤
1962年長野県諏訪市生まれ。すかいらーく創業者・端を父に持ち、飲食店を庭として育つ。慶大大学院村田昭治門下でマーケティングを修め、NY大で MBAを取得。1994年『レストランで覗いたニューヨーク万華鏡』柴田書店)でデビュー。以後『美味しくって、ブラボーッ!』(新潮社)『東京イタリア ン誘惑50店』(講談社)など多数の著書を上梓。アメリカの食ガイド『ザガット』を翻訳してわが国に初めて紹介。『ルイ・ヴィトンシティガイド東京 2009』レストラン部門を執筆。『FRaU』『週刊現代』『FLASH!』等々の連載を抱えて今日に至る。(株)ローソン等の顧問を歴任。海外日本食レ ストラン普及振興機構(JRO)委員。近著は『恐慌下におけるA級の店選び究極の法則』(講談社+α新書)現在、文教大国際学部国際観光学科准教授(フー ドサービス・マーケティング論)。

11月4日(木)18:30-20:15 「スウェーデンの歯ブラシから世界がみえる」

歯ブラシは、箸やスプーンと同じく毎日の生活に馴染んだ道具です。一日2回歯を磨く人が5歳から80歳まで歯を磨くと、トータルでは54750回歯 磨きをします。一ヶ月に1本歯ブラシを取り替えると、912.本必要となります。ただ、箸やスプーンと違い、デザインにより目的達成度にかなりの差異がで るのではないかと思われる道具です。ですから、膨大な種類の歯ブラシを前に懸命に研究を重ねる人が多数いる一方、呆然として立ち尽くし「まあ、どうでもい いや」と何も考えずに逃避的に選ぶか、それなりにはっきり分かれやすい道具ではないかとも思います。

今回は、この歯ブラシをテーマにします。80歳以上の自分の歯の平均本数が、日本と比べて三倍以上といわれる予防歯科先進国のスウェーデンにおい て、前述した二つの態度が日本と比較してどうなのか?それが歯ブラシの形状やサイズとどう関連してくるのか?歯ブラシを取り囲む文化コンテクストをス ウェーデンで歯科を勉強された田北行宏さんにお話いただきます。

参加定員数:20名
参加費:1500円(20:30以降の懇親会参加費を含む)

講師:田北行宏
1982年 東海大学海洋学部入学 1984年よりカリフォルニア州メサカレッジで生物学専攻 1991年 日本大学松戸歯学部入学 1997年同校卒業 1997年 日本歯学センター勤務 2000年 青山、田北歯科医院開業 2005年 スウェーデンNAL総合病院口腔外科に留学、現在、日本歯学センター勤務

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2010年10月3日日曜日

醤油を使えば和食か?

最近、イタリアの大手香辛料メーカーから「七味唐辛子」という名前の商品が販売されていることを知った。商品パッケージの裏には焼鳥のソースレシピが書いてあり、そこに、この七味唐辛子を使うように書いてある。そうか、こういう時代になってきたか。

ヨーロッパにおいて和食は外食であり家庭料理ではない。日本の餃子やカレーのような位置に和食はない。しかし、醤油はかなり浸透をしはじめている。特に和食という料理を作らなくても、肉や魚を食べる時に醤油をかける。若い人が自分たちで寿司を作ったりしているが、それ以上には普及している。これを和食というか?と問えば、日本人の感覚からして和食とは言いがたいだろう。タバスコを使ったからメキシコ料理とは言わないと同じように。オリーブオイルを使っても地中海料理とはならない。

このように調味料がジワジワと伝統料理に影響を与えていく。もちろん醤油を使うのは、やはりあるレベル以上の家庭であろうという仮説は妥当だ。でも、そのレイヤーがだんだんと下がっていくのも確かだ。そして、こういう問いがなされる。「ヤマサとかキッコーマンを買っているんだけど、日本にはもっと別のブランドが沢山あるんでしょう?」と日本人に聞く。ヤマサやキッコーマンに不満だというのではなく、バリッラやデチェコ以外にパスタメーカーはイタリアに数多くあるだろうと日本人が思うように、醤油にも多くのブランドがあり、その一部しか自分たちは味わっていないと認識をはじめている。

醤油を使っても和食とは言わないと前述したが、実は「醤油を使えば日本料理って思っちゃいますよね」とぼくは日本の人に言っている。よく「イタリアの家で何を食べているのですか?」と質問されたとき、「まあ、イタリア食と日本食の半々。でも、醤油や味噌を使えばなんとなく和風を食べた気になることもありますよね」と答えることが多い。つまり日本食の定義自身、かなり危ういところにある。日本人は醤油に慣れているから、醤油があることで和食へ接近が図られる。しかし、肉や魚に醤油をかけるヨーロッパ人は、醤油が日本発であると知っていても、調味料としてもっとニュートラルな存在としてみている。カレー味もそうだが、伝統料理からの脱皮で異文化に触れた気になるが、終点に行き着いたとは違う浮遊したムードを味わうことになる。よって和食を食べているとは思っていない。

調味料は万華鏡だ。

2010年10月1日金曜日

やはりヨーロッパはちゃんと見ておこう


以前から言われていたが、リーマンショック以来、特に言われ始めたことの一つに、「ヨーロッパは終わりだ。これからはアジアの時代だ」という台詞がある。こういうのは、終わりも始まりもカレンダーが変わるように分かるわけではなく、後になって「あれと、これと・・・」という象徴的なコトが集まって時代区分が見えてくるのだろう。確かにヨーロッパ人も、「これからのビジネスはアジアやアフリカだ」と言葉に出して言ったり、実際、そちら方面の出張が多くなったりしている。しかし、心のなかで、「自分が生きている間に、今のヨーロッパの心地よい文化的生活が壊れることもなかろう」と思っている。

日本や韓国あるいは中国のモノやコトがヨーロッパの風景をどれほど変えていくかが議論されてきたけど、案外、そう簡単に変わらない空気が強いことを、ぼくはミラノで感じている。適当な異文化のエッセンスは刺激になるし、商品で高くなければ買わない理由はない。そんなものだ。日本が変わらなくちゃいけないと大騒ぎしながら変わらないと嘆くより、もっと変わっていないのがヨーロッパだ。それでも、突如として「どうしてこんな法案が通ったのか?」と驚かされるように変化するのもヨーロッパだ。環境政策なども、その一つだろう。



ぼくは、ヨーロッパに肩をもつわけでもないし、アジアに肩をもつわけでもない。じょじょなる変化がいつの日か大きなうねりとなっていく。その時、多くの人の考え方の傾向がどうなっているのだろうか?ということに興味がある。「アジアの時代だ。ヨーロッパは終わった」というときに、どういう感じ方や考え方がアジアで主流になっているのか?アジア的なのか?ヨーロッパ的+アジア的なのか? ここで一つ言っておくなら、ヨーロッパ的とは、必ずしもヨーロッパでだけで通用するというのではなく、かなりユニバーサルに流通していることも含んでいる。いつの間にかあった痕跡の元を辿るとヨーロッパであった、ということだ。この逆もあろうが、どちらか一方が多いだろう。

もちろん、そもそも何がアジア的で何がヨーロッパ的かという定義がきちんとしてあるわけではない。およそのタイプとして、こんな感じの考え方をする人が多い、あんな感じをする人が少ない、という程度だ。しかし、「という程度だ」は無視出来ない程度に影響力がある。だから、ややこしい。とにかく、このごろミラノの街を歩きながら、ヨーロッパの頑固なレイヤーのあり方を読み間違えると、酷いやけどをすることになるのではないかという危機感をもつ。道行く人の素振りから商店のショーウィンドウまで、街の風景を形づくっているディテールを眺めながら、ヨーロッパへの見方を研ぎ澄ますことを怠ってはいけないと自戒する。