2009年3月31日火曜日

「ミラノサローネ2009」を検索エンジンに入れる





ミラノサローネは、毎年4月にミラノで開催される国際家具見本市をコアとしながらも、もはや家具に限らない世界的なデザインウィークになっています。ぼくは去年に引き続き、「さまざまなデザイン」に「ミラノサローネ2009」というエントリーを書き続けています。デザインのトレンドを見るには、もっと文化的な視点をもたないといけないのではないかという考えから書いています。「それぞれのデザインディテールや動きを、文化文脈で読む癖をつけよう」ということでもありますが、最近、検索エンジンに「ミラノサローネ2009」とインプットしていて気づいたことがあります。

ヤフーで35件程度がヒット、グーグルで4万7千件がヒットします。ぼくの書いている「さまざまなデザイン」の「ミラノサローネ2009」は、だいたい1ページ目か2ページ目に出てくるのですが、イタリア語や英語の情報をとろうと「Milano Salone 2009 」とインプットして驚きました。そうするとヒット数は、日本語のみの場合の5-6倍あります。しかし、ぼくは日本語でPCを使っているので、検索エンジンも日本語のサイトにある「Milano Salone 2009」を優先して拾ってきます。それが意外にも何ページにも渡って沢山あるのです。

パターンとして、タイトルで「ミラノサローネ2009」と書き、文章中に「Milano Salone 2009」といれ、アルファベット検索への便宜を図っていると思われるもの等、いろいろなケースがあります。当然ながら検索エンジン対策として、両方の表記を入れる場合もあるでしょう。全てをチェックしてその意図を解明する気力が残念ながらありませんが、この距離感の違いは何だろうと思いました。

ぼくはミラノにいながらも、日本人対象に日本語で書いている文章なので、アルファベット表記にすることをつゆほどにも考えませんでした。しかし、日本にいる人がアルファベット表記するのは、いわゆるコピペでもってくる、発音が正しく分からない(サロネなのかサローネなのか)から、そのまま表記するということが想定できます。だが何よりも、ローカライズ意識が、国内にいないほうが逆に強く働くケースもあるのでは?と考えます。それが距離感の違いではないでしょうか。

つまり、その当の場所にいたほうが(この場合は日本)、案外、混沌さに寛容になれるかもしれない・・・と、そう思うのでした。



2009年3月28日土曜日

スウェーデン学生の外務省人気





今日、以下でスウェーデンの学生の人気就職先が、イケア、グーグル、外務省と並んでいるのをみて驚きました。あまり給与が良くないという評判のイケア人気もやや意外ですが、これは記事にあるようにブランド力の強さが魅力というのは分かります。それより外務省に就職したいという学生が多い(この場合、法学部系です)のは、何故だろうと思います。

http://www.thelocal.se/18498/20090327/

イタリアの理系学生の人気一位にフェラーリが挙がっていたことがありますが、これまた随分と分かりやすいとの感想を抱いたことがあります。ぼくはヨーロッパの大学生の就職先人気については、日本と同じで米系金融会社やコンサルタント会社が上位に並んでいる以上のことは知らなかったので、この外務省人気に意外性があると思うのは、もしかしたら的外れかもしれません。ただ、ぼくは、外務省は比較的発展途上国で人気のある就職先だろうと想像していたのです。航空会社の乗務員と比べるのが適切かどうか分かりませんが、職業的特権でしか外国に出かけにくい環境が、航空会社や外務省を求めるのかと偏見がありました。

この国は中立政策をとっていますが、そうしたポジションにいることが、外交のポジションを国内で高め、それが就職先人気に繋がっているのだろうかとも想像します。いずれにせよ、外交官が人気のある環境とはどういう条件をもつのか、少々興味がでてきました(スウェーデンは公務員が多い国ですが、そのなかで外交官はマシということなのか?とも考えたのですが、もっと積極的な意味があるのではないかと期待したいです)。そんなとき、スウェーデンの外貨収入源のトップは音楽産業であるという記事を読み、またまた好奇心がでてきました。この音楽産業の内訳には、ミュージシャンのプロモーションビデオの撮影も含まれ、その規模が膨大ともありますが、ここにもぼくの知らないスウェーデンが語られていました。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20090325/190043/


この記事では、知識産業の育成に力を入れていく点に焦点をあてています。工業のグローバル化がそうした方向を促すということですが、日本の場合は、工業をベースにどう知識社会を作るのか?というテーマになっていくのだろうと思いながら、この記事の2回目を楽しみに待ちたいと思います。

因みに、同じく知識社会を強く意識している、フィンランドの移民受け入れに関する調査結果もあわせてリンクを貼っておきます。極めて微妙な社会的バランスの上に、こうした話が成り立っていることを忘れないために・・・・。

http://helsinkitimes.fi/htimes/index.php/domestic-news/general/5561-attitudes-to-immigration-harden-in-finland-hstns-poll-

2009年3月23日月曜日

クラシック音楽とプラットフォーム

「ドイツが仕掛ける(?)バイオリン市場」に対し、八幡さんよりメールをいただきました。「個人的メッセージとして読んでください」と書かれていますが、ぼくが想像はじめていたポイントを衝いていただき、これはご紹介したいと思いました。

なかなか面白くて難しい問題ですが、文化・歴史の潮目がちらほらとするような話です。

>どなたか、詳しい方がいたら、お教えください。

という条件にかなう方がおいでになるとは思いますが、クラシック音楽とプラットフォームの作り方/出来方について、素人考えですが、思いついた事をひとつ。

歴史的に見ると、クラシック音楽の普遍化(プラットフォームの形成)には、広い意味での制度的・理念的な下支え、あるいはインフラストラクチャーがあったと思います。

そのひとつは、10世紀前後から西欧世界に流入してきたアラビア経由の(発端はギリシャの)数学、もうひとつは、キリスト教会の統合・統一(カトリック教会の制度的完成)と、グレゴリオ聖歌の成立による、各地方教会の諸民族語での聖歌のラテン語のグレゴリオ聖歌への統合、其れとともに始まる、聖歌の四線音符による記譜、この際に、音階や音の長さが、数学的に決定される、其れが、やがて、教会を離れて独立するクラシック音楽の、五線譜に見られる数学的な普遍的な記譜法に発展する。さらに、数学の論理構造が、音楽の形式・構造にも影響を与え始める。

教会音楽の担い手が、カトリック教会(Ecclesia Cattolia 普遍的教会)であったように、ルネサンスからバロック、ロココへと移り変わる、新しい世俗の音楽、いわゆるクラシック音楽は、16世紀以降、教会に代わる文化と教養の中心となった、ヨーロッパ全域をカバーする一枚板のような(その意味で普遍的な)王侯貴族階級の世界によって支えられた。

しかも、彼らの世俗的教養の共通底には、数学がありました。16世紀以降の代表的な、王侯貴族とも密接な関係にあった思想家たちは、哲学者(ライプニッツ、パスカルなど)も政治/法学の専門家(例えばホッブス)も、ガリレオやニュートンと交流のあった数学者でもあったので、このころの思想の根本的なフレームワークは、数学であったと言えるのではないでしょうか。むしろ、ルネサンス以後のヨーロッパでは『万人の万人に対する戦争』状態にあったので、数学的論理のみが、対立を超えて(普遍的に)認識されえる唯一の言語表現の基軸であったはずです。




「数学的理論が唯一の言語表現の基軸」という表現のもつ意味は、今の我々が想像する以上の力があったのではないかと思います。以下の赤文字はぼくが強調として使いました。

現実社会では、普遍的な王侯貴族文化、思想的には普遍的な数学の論理、これらが、クラシック音楽に、民族性や地方性を包含して一体化する理念界と現実界のインフラストラクチャーを形成し、その上にのって、クラシック音楽はロココの時代まで(モーツアルト)、広範なプラットフォームを形成することになったのではないかと考えます。ロマン派,後期ロマン派をへて、音楽表現は、普遍的な形式から離脱し、クラシック音楽の普遍的な地位は失われていきます。シェーンベルクの調性(Tonalität)の破棄以降、伝統的な様式で音楽を書く事がなくなってしまいましました。同時代のマーラーは最後の例外かも知れません(クラシック音楽の普遍性のある作品が出なくなった)。

オペラの場合は、ヴェルディもワグナーも、
やはり王侯貴族と新興産業ブルジョワジーを支持層としたグランドオペラの系列に入るのですが、彼らの時代の後、明確な支持階層が消えてなくなってしまったわけです。最近のオペラの演出を見ていると、方向性の見えない自己破壊の様相が見えてきます。オペラの上演の中心が、指揮者から演出家の方にに移ってしまった事も一種の「症状」としか思われません。

なお、小生の印象では、
ドイツではドイツ製のバイオリンの価値をトップクラスであるとは評価していないようです。そういう意見を聞いた事はありませんし、バイオリンを手にする人達も、やはりグァルネリ、アマティ、ストラディヴァリなど、イタリアのバイオリンを憧れの眼で見ていますし、新作のドイツ製バイオリンに塗料を塗って古めかしく、古いイタリア製に見えるようにするあたり、如実に其れが出ているのではないでしょうか。あまり中国の悪口を言えそうにもありませんね。


バイオリン職人の茅根さんが語っていた、「ドイツではイタリアの古いバイオリンを評価する」という部分に対応する文章です。現在、上の赤文字で記した部分を維持するためには、イタリアのバイオリンがもつ権威とその価値体系を維持する必要があるのではないか、というのがぼくが茅根さんの話を聞きながら妄想たくましくしたところです。

ナイフとヤスリの話で思い出しましたが、ドイツの音楽大学のマスタークラスに入ったN響のコントラバス奏者が、ドイツの教授は、弾けているか否かに関わらず、フランス式の弦の持ち方(バイオリンの場合のような)を絶対に許してくれない、メロディーが引き難いと悲鳴を上げてましたが、其れと似た事なのではないでしょうか?お国風を頑固に守り、其れに一癖ある理屈を付けるのは(ドイツでは特に?)よくある事です。

結論的に言えば、簡単にコモディティ化されないような、
息の長いプラットフォームを、新しいデザインのスタイルや、工業製品のために形成するにも、普遍的な理念や普遍的な社会構造に類した、インフラストラクチャーを見出さなければならないと思います。「蛸壺」から出て発想することでしょう。普遍的な原理構築の重要性は、日本人には、まだ良く理解されてはいないように感じます。理念的な原理が現実を造り、また変えると言う事の重要性! 以上、全くド素人の、きわめて乱暴な思いつきでした。個人的なメッセージとして読んでください。


「理念的な原理が現実を造り、また変えるということの重要性」は、声を大にしたいところです。ここから全てがスタートします。

2009年3月20日金曜日

ドイツが仕掛ける(?)バイオリン市場




刃物の切れ味の文化差を考え、それを実際に使う弦楽器職人と話していたら、ドイツ市場が拘る「古いイタリアのバイオリン」の背景を探りたくなってきました。その経緯を「さまざまなデザイン」に下記書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1067
http://milano.metrocs.jp/archives/1076

この最後に書いたように、西洋クラシック音楽市場とは誠にしぶといものです。もう何百年も経た作品が、ここまで世界市場に普及し、尚且つ今も圧倒的な力をもっています。文学、美術、演劇、これらのどれと比較しても目を見張るものがあります。名の売れた指揮者は何年先ものスケジュールが既に決まり世界中を駆け巡り、コンサートホールに限らず、いろいろな街角でその音楽を耳にすることができます。

ヨーロッパのオペラ劇場では20世紀の作品をもっと上演しようとしても、ビジネス面から19世紀以前の作品をプログラムから大幅に落とすわけにはいかない。頻繁にスカラ座に行ける人は、たまには新しい作品を鑑賞したいと思います。しかし国境を越えてスカラ座で今晩は楽しみたいと思う人は、過去のイタリアオペラのなかに浸りたいと思うでしょう。

ぼくはクラシック音楽について無知で、いわんや音楽ビジネスに関して何も知りません。しかし、ドイツ市場が「古いデザインのバイオリン」に拘るのが、クラシック音楽ビジネスと底のところで深く繋がっているのではないかという妄想を抱くに至りました。これはヨーロッパ文化部ノートで繰り返し話題にしている、プラットフォームの作り方とその維持というテーマそのものではないか?という疑問を、ここで提示しておきます。どなたか、詳しい方がいたら、お教えください。

2009年3月18日水曜日

刃物の切れ味に拘る意味は?




内需拡大論も賞味期限がきたのか、財部誠一氏も「内需の外需化」というよく分からない表現を使いはじめました。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090317/139488/?P=3

日本国内では「世界同時不況だから日本もダメだ」と思考停止の敗北主義が蔓延しているように見えるが、さすがに企業は考えている。

いま日本が進むべき方向は“内需の外需化”と思う。日本国内の内需など期待するだけバカを見る。人口減少時代に突入した日本の内需で持続的な経済成長などできるわけがない。

いま世界でもっとも力強い成長を期待できる中国、あるいは意外なほど底堅いASEAN諸国を含めた東南アジア市場も日本の内需だと思い切って、市場拡大を図ることが日本経済にとって唯一のブレークスルーではないか。

なにひとつとして政治に期待することができなくなった日本の行く末はまさに民間企業のがんばりにかかっている。企業が自助努力でどこまで内需を外需化できるか。それこそが日本経済の生命線なのだ。

「さすがに企業は考えている」と書いていますが、要するに、内需拡大論とかは個々の企業にとっていってみれば無縁の話であり、サバイバルのために市場のあるところに出て行くということしかないと思います。危機がこないと変化の必要は認識できないし、その場になって、必要が行動を生むのだとしかいいようがないでしょう。「さすがに」という言葉には違和感をもちます。

ところで、ミラノにある刃物の老舗セレクトショップ・ロレンツィについて、昨日、4回分まとめて「さまざまなデザイン」に書きました。もともと刃物を研ぐことが商売のベースだったのですが、お客さんの要望を色々と聞くうちにオリジナル製品が増えていき、今ある1万5千点の商品のうち、かなりの割合はオリジナル製品です。世界中の刃物がここにはあります。

http://milano.metrocs.jp/archives/1025

ぼくは日本が刃物の切れ味に拘ってきた、ヨーロッパでは切れ味に対して同じようなこだわりを持ち続けてこなかったという違いが気になっています。そのこだわりが世界でも独自の刃物の伝統を維持してきたのですが、この「切れ味」をどうヨーロッパで評価するのがいいのか、ということです。刺身をつくるようには、その切れ味を求めない料理の世界で、この「切れ味」がどう生きるのか? ロレンツィでは、日本の文化やその刃物の切れ味の意味をヨーロッパ人のお客さんに説明し、日本の包丁を買ってもらいます。そして、お客さんは日本の包丁のファンになります。そこで、そのお客さんの料理は変わっていくのだろうか?と思います。それは新しい味を求めた結果なのか、道具が新しい味を生み出す契機を作るのか、興味は尽きません。また、お店で聞いてこようと思います。

2009年3月15日日曜日

ヨーロッパ文化研究所 in ヨーロッパ






ここ最近、また「一人で理解するヨーロッパ文化」というテーマをよく考えています。まず多数のエキスパートの情報と意見を統合したうえで判断しないと怖いという恐怖心からの脱却です。これをブログ「さまざまなデザイン」で下記のように二日連続で書いています。

http://milano.metrocs.jp/archives/1009

http://milano.metrocs.jp/archives/1018

この「一人で理解するヨーロッパ文化」にある程度自信がもつことが、ビジネスの行動に役立ちます。エキスパートの統合された研究結果を軽視せよということではなく、ある程度の大枠でよしとする、その割り切り方を知らないといけません。それがプロジェクト・ヨーロッパ文化部のひとつの狙いです。この目的達成のための啓蒙活動です。

一方で先週、八幡さんより、ドイツの日本研究所のあり方を教えていただき、プロジェクト・ヨーロッパ文化部のやるべきことは、これではないかとアドバイスを受けました。ドイツの日本研究所とは、以下です。1980年代後半に東京に設立されています。ドイツ人が日本でドイツ研究をする場所です。人口動態と幸せの関係など、非常によいポイントをついた研究を行っているようです。

http://www.dijtokyo.org/?lang=ja

翻って日本をみた場合、日本の戦略的な目的のためにヨーロッパにヨーロッパを研究する場所がない(知る限るにおいて)。つまり今の経済、社会、政治を対象とした研究所が、日本の大学にではなく、ヨーロッパという土地にないのです。これは実践的でないでしょう。企業やマスコミに頼りになる存在のリサーチ施設があるべきではないかと考えます。これを「あるべき」と言うだけでなく、ないのなら何とかしてつくるためのアレンジを自らやろうというのがプロジェクト・ヨーロッパ文化部の方向です。

どういうお金でどういうストラクチャーをつくるか、これから構想を練りたいと思います。時間はかかりますが、具体的なイメージをもつのは大切です・・・というわけで、写真はフィレンツェです。ブリュッセルのような政治的な匂いがしない、学術ムード溢れる都市で、極めて現実的なリサーチを行う。これがアイデアイメージになります。

また、セミナー構想について、Hishikawa さんより生態心理学の佐々木正人氏を呼んだらどうかとのアイデアをコメントでいただきました。佐々木氏がヨーロッパについてどういう経験をお持ちなのか存じ上げませんが、とても面白いと思います。というのは、プロジェクト・ヨーロッパ文化部では、従来ヨーロッパ文化研究にあまり熱心でいなかった文化人類学や心理学の領域からの参加があればと考えていました。セミナーは色々な形で実施することを予定しているので、心理学畑の方が参加できるテーマも試みたいです。


2009年3月12日木曜日

歴史と現実的な行動を結ぶもの

昨日のエントリーに対する八幡さんのコメントをお伝えします。磯崎氏は公認会計士のようですが、IT業界に強いようです。

面白いブログのヒント、有り難う御座いました。

この、磯崎哲也氏の所論は、大変すっきり述べられていますが、理屈を明快にするために、幾つかの重要な歴史的局面を無視したり、単純な2項論理で片づけたりしているところが目立ちます。

いかにも、ソフトウエアエンジニアの歴史論らしいです。

日本はこうなのだ、と言いきれない屈折したアイデンティティを、アジアを取り込むことによって、コンペンゼーションしようとして、多分、無意識のうちに、無理なアジア第一主義みたいなことになっているような気がします

こういう議論の立て方は、自意識過剰な後進国〈かつてのソビエト、最近の中国など〉によく見られることですが。

このような、「転向と過去への回帰」が大受けするような雰囲気は、病的だとおもいます。

この類の「歴史のまとめ方」にぼくがいつも感じるのは、どうも無理に歴史をひっぱってきていることです。「国家の品格」の藤原正彦氏などもそうです。「自虐史観」の反対は「自己陶酔史観」です。どちらもどちらです。

欧州の伝統の使い方が欧州の力になっていることは拙著にも書きましたが、この磯崎氏のような使い方を見ていると、「まあ、こういう時を我々は歩んできたのだから、今の状況は仕方ないよね」ということではないと、ご本人は否定しながらも、結局は後ろ向きにならざるを得ない。八幡さんの言葉で言うなら、「無意識のうちに、無理なアジア第一主義みたいなことになっている」ということになるのだろうと思います。

今、欧州統合に動いたフランスのジャン・モネの回想録を読んでいるのですが、彼が第一次大戦のとき、「19世紀的なコンセプトで動いていたら負ける。そのコンセプトを知らない知性が必要」と悟ったことが書いてあります。アメリカとの商売で、彼はそういう見方を獲得したようですが、コニャックのビジネスマンらしい発想です。でもこれは時代の転換期には必要な発想です。

我々は歴史に学ぶことが沢山あります。同時に、より現実的である行動をしていかなといけません。その時に、こういう歴史の使い方は現実的だろうか、そういう疑問が頭にこびりついて仕方がありません。少なくても、以下のようなFTの記事が、日本売りに繋がることは自明です。

http://news.goo.ne.jp/article/ft/business/ft-20090309-01.html

尚、ダイアモンドオンラインの下記、中国から日本企業が特許侵害で訴えられるというニュースは、我々がノンビリ思い出に耽っている場合ではないことを物語っています。

http://diamond.jp/series/analysis/10068/

「タメグチ的」ガヴァナンスの歴史





先日のタメグチ的世界のあり方に関するエントリーは、以下の「「タメグチ的」ガヴァナンスの歴史」という磯崎哲也氏のブログにネタがあったということなので、これを読んでみました。ネットで非常に反響のあった内容のようです。

http://www.tez.com/blog/archives/001301.html

このエントリーを書く契機が日経BPオンラインにあった、「今の資本主義はもう、やめてくれ」(安田喜憲・国際日本文化研究センター教授)のインタビュー記事だったといいます。正直なところを言うと、ぼくは、このような話題にあまり興味がありません。正確にいうと、興味がないわけではないのですが、さほど熱くなれません。しかし、以下のように非常な賛辞を受けています。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51178661.html

どちらかといえば、ぼくは、こういう話に夢中になる現象そのものに色々と興味が湧きます。どうして、こうにも夢中になれるのか・・・と。ぼくには、どこか古い歴史の教科書とアメリカ西海岸文化を「無理に」一緒にしたような違和感をもつのです。あくまでも勘なのですが、ここに問題として考えるべき点があるのではないか、そういうことを思っています。それは、まさしくプロジェクト・ヨーロッパ文化部として考えるべき点です。

本エントリーは、きっかけだけ書いておきます。多分、これをリファーしたエントリーを後で書いていくことになるでしょう。


セミナー構想の進展具合

5月に都内で実施するセミナー構想です。まだこれから練りますが、こういう方向で考えていますということで、ここにアップしておきます。「手のひら」(プラットフォーム)をつくるに必要な考え方を、ヨーロッパ文化を題材にして考えていこうという趣旨です。対象により複数の場所で少しずつ内容を変えて行えればと考えています。


1、タイトル
  高品質・高機能のものづくりは「逃げ」にならない
  ―プラットフォーム作りに方向転換する時代の文化理解―

2、セミナーのプログラム

2-1 ヨーロッパ人はどんな気分と考えで生活しているのか
    ―講師 八幡康貞氏

 現教皇が10年ほど前、ドイツの大学で「キリスト教にとって脅威なのはイスラム教ではない。仏教だ」と話したことがある。新しい価値観が欧州においても求められている。自然に優位にたつ人間という考え方に行き詰まりを感じていることは確かだ。最近、日本と経済連携協定を締結させる一方、銀行口座情報やその他の独自路線で他国と衝突することを厭わないスイスの例もあげながら、新しい展望の入り口を探る。

2-2 外交とデザインからメッセージ力を測る
    ―講師 山下一根氏
 2000年の歴史を経て、欧州では信者の数を減らしながらも、どうしてカトリックが生きながらえてきているのか。それは知識ではなく知恵の結晶の世界だからだ。ローマ教皇庁とヨーロッパ名門貴族の世界がみている社会像を語りながら、そのなかで伝えるメッセージ力の重要性について、外交や紋章デザインを通して説く。

2-3 ヨーロッパの都市空間にどのような変化が起こっているか
    ―講師 渡辺泰男氏

「歴史的遺産を守ることは先端的な考え方である」と主張し、都市の歴史地区の保存を提唱したのがイタリアのボローニャの都市計画者だった。1950年代のことだ。この動きが欧州各地に伝播した。何故、伝播できたのか。その理由にヨーロッパ文化理解の鍵がある。

2-4 まとめと質疑応答
    ―コーディネーター 安西洋之

2009年3月8日日曜日

個人的なリスクを伴った親友関係の作り方

昨日のエントリーに八幡さんからコメントをいただきました。八幡さんは20年近くドイツで生活した後、日本の大学で社会学を教えてこられたのですが、日本へ帰国された当時の息子さんのエピソードを紹介してくれました。学校での評価において、仮説の構想力に高い評点が与えられるとの例です。これはイタリアの学校でもそうで、数学のテストにおいて、いかに独創的な考え方を示したか?が重要で、最終的に計算の数値があうかどうかが第一義になりません。

この問題は、「ベクトルのすり合わせ」にとどまる話ではないようです。ドイツから転入した日本の学校(小・中)で、うちの息子達が経験した理科の授業は、ちょっとオドロキだったのです。例えば、「物質Aに、物質Bを加えると、Cのように反応します。それは、AとBが、こうこうしかじかのメカニズムで、Cの状態になるからです。本当にそうなるかどうか、やってご覧なさい』と言う具合の実験の授業だったそうです(それ以来、息子達は、理科の授業に興味を失ってしまいました。

他方、ドイツの友人で、ギュムナジウム(リセ)の生物の教師がおりましたが、(セカンダリースクール)上級過程の試験問題では、「在る種の魚の個体に、遺伝形質Aが在る場合には、在る環境において、a - a' - a'' -a'''.....の動作を示す。さて、同じ種の魚の別の個体に、遺伝形質Aではなくて、Bがあるかどうかをテストする(その場合の動作様式はb-b'-b''-b'''.... が予想されている)には、どのような実験装置(実験環境)を使えば良いか?」と言う設問をするそうです。
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そのばあい、教科書に書いてあることに忠実な答えであれば採点は C (可:及第)、その学年で習得しているであろう(あるいはそれ以上の)様々な分野の知識を、自分なりに再編し直して回答した場合は B(良), 全く予想外の独創的な実験条件の組み合わせを発案して、回答した場合は、個々の知識に間違いはあってもそれを無視し、その構想に合理性が認められる限り、むしろその独創性を評価して A (優) と採点するといっておりました。

「独創的」な実験設計は、すなわち大胆な仮説に基づくものでであり、したがって、正解の候補は複数あリ得ることが想定されているわけです。けだし、仮説は、実験によってテストされなければ成らないからです。しかし、理にかなった、新しい「仮説」を思いつくことが、創造的であり、サイエンスの前進に役立つ、あるいは、科学的知見の拡大に繋がる、したがって、そう言う構想力はストレートに評価すべきである、と言うことです。

これは、「手のひら」を造る、あるいは、「手のひら」を広げる為には、決定的な発想の要素ではないでしょうか? 「ベクトルのすり合わせ」以上の何かが必要なのではないかと思わされます。

「タメ口」の議論と繋がるのは、これを、フランス語のvous と tu との違い、あるいはドイツ語の Sie と Du の違いに置き換えてみると、フランス語やドイツ語で、vous あるいは Sie から、tu あるいは Du に、二人称の呼びかけを切り替えるには、当事者のどちらか (ドイツ語圏の場合、年長者あるいは女性が通例)がイニシアティブをとって提案し、相手がそれを受け入れた場合に成立する、つまり、社会的な対人関係でのリスクを伴った個人的な決断があるわけです。どちらからもその発案がなされなければ、何十年でも、Sie または vous の関係が続くことがあります。

少なくとも、ドイツ語圏の場合、Sie で呼び合っていた人間同士が、Du で呼び合う関係になると、個人間の社会的距離が大幅に短縮されれ、心情的な仲間関係に入る、同時に、社会的に暗黙のルールとして成り立っている緊密な相互扶助、権利と義務の共有の関係が生まれる、言い換えれば、同性か異性であるかに関わりなく、いざという時に真に信頼しあえる関係に入ると言うことになります

色々議論をしたり、会話を繰り返すうちに、年令と関係なく、人間的なベースで(職場、地位、肩書きと関係なく)親友が出来ることになります。

つまり、個人的なリスクを伴いうる選択と決断に基づいた親友関係は、日本の社会では、大人同志の関係としては出来にくいのではないでしょうか? 言い換えれば、同郷、同窓、職場の同僚というような、半ば運命的な集団の原理を、個人ベースでの人間関係の絆で相対化する可能性が少ないのではないでしょうか。

タメ口で話し合う雰囲気は、半ば運命的な集団への帰属関係の枠内で、徐々に醸成されるのであれば、それはむしろ集団の統合作用を強化するものにはなっても、集団という「手のひら」から飛び出したり、手のひらそのものを改変したりするような、集団からの自由を助成する作用は少ないように思えるのです。
このような、日本では自明的な社会的帰属関係の原理、あるいはその以前の、教育の現場での実態(正解はひとつしかないという通念)に、大幅な改変が起こらないと、リスクを負った個人の決断を社会的に育てる環境は生まれにくいように思われます。若者の科学嫌いとか、離職率の増大というような現象、あるいは、学生達が、とみに海外留学を避け、国内での勉学だけにこだわる傾向の増大などとも関係しているように思われます。リスクをとることによる自由、別な文化、異質の社会に飛び込んでみる冒険が、若者から消えうせると、知的な衰退、社会の知的な死に繋がる恐れがあります。

この「自明的な社会帰属関係の原理」<非タメグチ的社会>が、日本では特に製造業において強くあったといえます。そこに対してセカイカメラの井口さんが指摘するように、フェースブック的なウエブソサエティが当たり前として要求するサービスやインターフェースが、実際のビジネスで優先領域となってきている今、日本のメーカーが乗り遅れているのは、これまた自明の現象であるともいえます。

この二つの世界の間に大きくある溝を埋めるには、「正解主義」や「非タメグチ」(正確にいえば、より自由でフラットな非運命共同体的社会と対峙するもの)から脱皮しないといけません。これは、どこの文化がよいか悪いかという次元で捉えている限り、決して見えてこない出口です。

2009年3月7日土曜日

「正解主義」ではなく「修正主義」だと言うが・・・




日本の企業がプラットフォームの主導権をなかなか握れないのは、いつもどこかに正解があるのではないか?というビクビク感が底にあるからではないかと思うのですが、それが先日コメント頂いた「お釈迦様の手のひらで上手く踊る」という表現に繋がっています。

だから、日本の「正解主義」が就労意識の低下を招いたという話題は、よく理解できる一方、何か五十歩百歩の話ではないかとも思えてしまいます。社会は「修正主義」と言われても、そう思っているなら、なぜそれがグローバルビジネスに表現されてこないのか?と問いたくなってしまいます。

これはリクルートから転職した元杉並区立和田中学校校長の藤原和博氏の発言です。ぼくも「正解主義」の日本の学校教育を受けてきましたが、今の若い世代の就労意識の低下を学校教育と結びつけるとなると、その「正解主義」がより強くなったのか?ということになります。仮にそうだとしても、やはりぼくが気になっている、日本そのものがかかえる世界全体をみた場合の「正解主義」の相対的位置とその弱み、これが視野に入らない議論は、どうも説得力に欠ける気がします。

現場を見るのは大切ですが、もう一つの目を維持するのはもっと大変かもしれません。この「もう一つの目」をどう獲得維持するかを、ヨーロッパ文化部でも考えていきたいと思います。


http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20090306/166888/



藤原氏の言う正解主義とは,学校で「問題の答えは一つしかない」という視点で教育をすること。「液体と気体の違いはこう覚えなさい」と,答えを限定して教え込むことで,子供たちは「すべての物事には決まった回答がある」と思い込んでしまうのだという。

ところが,社会人として仕事をするようになると,正解主義では通用しない。「仕事とは,(一緒に仕事をするチームが)ギリギリのベクトル合わせを常に続 けること。正解主義ではなく修正主義なのだ」(藤原氏)。若者の離職率が近年,増加傾向にあるのも,こうしたギャップに遭遇した若者が「自分にとっての正解がこの会社にはない」と判断を下すからだと藤原氏は推測する。

2009年3月4日水曜日

タメグチ的なフラット志向





最近、セカイカメラの井口さんのブログはネタの宝庫になっています。今日、また面白いことを書いてくれました。ぼく自身、日本のメーカーに勤めていたことがあるし、その後も、メーカーとの付き合いが続いています。ですからメーカーが「非タメグチ」的な社会であることの、良さと限界は痛いほど分かります。そして、今、 「ウェブインターフェイスとクラウド的なソーシャルグラフの束を目の当たりにした」人たちが、かつてのルールをリファーするばかりで、新しいルールの存在すらも認識していることが少ないのが現状でしょう。

比ゆ的な表現ですが、「タメグチ的な世界」の空気に馴染まないと、どうしようもないのではないかという井口さんの感想は、かなり核心を突いているのではないかと思います。それは「あいつはまだ新人なんだから、あいつから挨拶があって当たり前」と待っていると、いつのまにか美味しい話は何も来なくなってくる、やはり、そこは自ら取りに行かないといけないということでもあるでしょう。井口さんは、フランスの大会社のトップが自ら井口さんに会いに東京に飛んできてくれる、そういう動きをみて、同じことを日本の大企業のトップはしないだろうな・・・と思うわけです。

プラットフォームをつくっていくということは、こういう行動パターン自身の変革も求められているという自覚が必要でしょう。また、名刺はブログ、ブログは名刺という感覚あたりに「タメグチ社会」の肝があると思います。


http://d.hatena.ne.jp/roadracer/20090304/1236129510

それは、今更ですがアップル iPod やアマゾン Kindle などの事例に明らかな様に、ウェブエコノミーこそが利用者のコミュニケーションやコミュニティなどの経験性を変革し続けている昨今、「サービスをベースにする発想でない限り時代的な要請に応えて行く事ができない」という命題なのだと思います。

ここから本題なのですが、実は日経エレクトロニクスさんの事前取材で申し上げたかったのは、そういったサービス視線によるアジャイルなデバイス開発と、現状のエレクトロニクス企業の組織体が非常に大きな不整合を起こしているのでは?ということでした。
<中略>

その双方とも日本の製造業があまり得意としてこなかったというか、むしろ必要がなかったので鍛錬されなかった領域のように思います。考えてみればUIやそのデザイニングなんて、ハード優先の時代(それこそ大した昔ではありません)にはむしろ表面的なお化粧に過ぎなかったのが、今では、それがデバイスの成長と発展をドライブするコア要素だったりします。 それに ウェブインターフェイスとクラウド的なソーシャルグラフの束を目の当たりにしたのはせいぜいここ数年の話です。

ですから、そこのギャップを目先の微調整で切り抜けるというのは相当大変なのでは?と思いますし、またさらに深刻なのが、たとえば上のフェイスブック的なリアリティはネットネーティブな経験や感性と大きく結びついている上に、基本的にはコミュニケーションやコミュニティの領域ですから、従来企業的なマネージメントにとってはある種“水と油”な体験性です。
<中略>

極端な言い方をすると、スケボーで通勤したりiPodで音楽聴きながら仕事する感覚が求められると言いますが(いや、見た目というよりはライフスタイルという意味で)。

<中略>

つまりタメグチ的なフラット志向はウェブエコノミーにはよく合致しているし、逆に非タメグチな組織はなかなかそこの取り込みが(エラい人はウェブソーシャルな場にはなかなか入りにくいですよね)難しい面がある様に思います。 でも、その一方では、海外メーカーやキャリアはメールやスカイプでどんどん迫ってくる(そのスピード感とカジュアルさは、日本の株式会社のイメージとは大きな隔たりがあります)現状がありますから、そのビハインドはますます広がっていくのではないでしょうか?

2009年3月1日日曜日

「手のひらをつくる」は「哲学の貧困の克服」

昨日のエントリー「手のひらをつくる人達を応援しよう!」に対する八幡さんからのコメントです。グーグルやアップルの試みも、世界の再解釈の枠組みの構築であると説明されています。このことが工業製品のユーザビリティのレベルにも影響していると書かれています。ユーザーの使用文脈の構成にあたっては文化的な理解を求められますが、その前の段階の「おさえ方」がまず問われてくるのだろうということです。

元NTTドコモの夏野氏がダボス会議で、インターネットの世界におけるエコロジーとは何なのかというテーマに乗り切れなかった理由を想像させてくれます。一昨日、「さまざなデザイン」に、個人的エピソードや個々の分野の議論を文化論のレベルに解釈しきれない日本社会の傾向を以下に書きましたが、これは今後実施するセミナーの大きなテーマになります。

http://milano.metrocs.jp/archives/971


「お釈迦様の手のひらの上で踊る」と言うことと、その「手のひらを造る」と言う対比は面白いです。

安心できる、確実に安全な次元でだけ議論したり、競争したり、つまり、安全第一が原則で行動することが要求されている社会では、「手のひらを造る」発想と行動を起こすことは難しかったのだと思います。

にもかかわらず、そのような高い志を持っている人々がおいでになることには、敬意を表したいと思います。

「手のひらを造る」ということは、在る物事の世界を解釈し直す新しい枠組みを作ることだと思いますが、そのような知的な作業を積極的に推進し、その成果を評価する文化は日本では薄弱だったようです。

近代西欧文明の先端には、デカルト、カント、ヘーゲル、
マルクス等々に代表される、哲学的な「世界の新解釈」が在ったのですが、日本の近代にはそれが微弱であったようです。西田哲学などは、カール・レーヴィットや彼の師であったマルティン・ハイデッガー等には理解されていたようですが、その後の世界的な影響はこれまでのところ、限定的であったと言わなければ成らないでしょう。

哲学の場合は、「世界」そのものの新しい解釈ですが、
在る部分的な世界、例えばエレクトロニクスの世界では、米国の革新的な企業がやっていることが、部分世界の再解釈ないし新解釈の大きな枠組みを、投網のようにプロジェクトすることがその実例ではないでしょうか。グーグルが投入する様々なサーヴィスがそうですし、アマゾンもKindle等を投入することで、大きな投網を投げているような気がいたします。アップルが、iPod, iPhone, そしてiTunes のような新製品の系列で意図しているのも、このような部分世界の再解釈の枠組みを構築することであるように思います。

広義の社会科学の分野で言えば、ジャレッド・
ダイアモンドの著作に見られるような、古生物学、地質学、地理学、歴史学等を学際的に統合した、巨大な人類史、あるいは文明史的展望をもたらすプロジェクトがその一例でしょう

従来の常識であった「手のひら」を一挙に拡張し、
格段に次元を上げる作業が必要なのではないでしょうか。個々のアイテムの機能を上げたり、精度を高めたりする以上の、安全の保障が始めから在るわけではない大きなプロジェクトを構想し、その実現を許容し促進する文化を、どのように形成するか、さらに、その方向へ向かって、若い人たちをどのように教育し育てるか、と言う問題です。

既成の「手のひら」を越えて、
外からこれを見直すことが必要です。その場合の視点をどこに求めるかですが、それは、日本固有の文化的な歴史の中にありながら、同時に世界普遍的な問題でもあるようなポイントでしょう。先日の「おくりびと」と言う映画がアカデミー賞を受賞したのは、その好例〈生と死と言う普遍的な問題の日本的な解釈の表現〉であると思います。

工業製品の世界で言えば、エンジニアとは「別の世界」
で生きている「ユーザーにとっての」使いやすさと言うことでしょうか。米国製品のユーザーマニュアルは、誰にでも判るように書いてある例が多いですが、日本製の品物のそれは、マニュアルを読まない方が、むしろ、判りやすい〈混乱しなくて済む〉という例がきわめておおいです。しかし、それではせっかくの機能も使いきれませんね。手のひらの上で、十分によく踊っているとはいえないのではないでしょうか。

「手のひらを造る」ということは、西欧文明の用語で言えば、
どのようにして「哲学の貧困」を克服するか、と言うことにもなると思われます。