2009年3月8日日曜日

個人的なリスクを伴った親友関係の作り方

昨日のエントリーに八幡さんからコメントをいただきました。八幡さんは20年近くドイツで生活した後、日本の大学で社会学を教えてこられたのですが、日本へ帰国された当時の息子さんのエピソードを紹介してくれました。学校での評価において、仮説の構想力に高い評点が与えられるとの例です。これはイタリアの学校でもそうで、数学のテストにおいて、いかに独創的な考え方を示したか?が重要で、最終的に計算の数値があうかどうかが第一義になりません。

この問題は、「ベクトルのすり合わせ」にとどまる話ではないようです。ドイツから転入した日本の学校(小・中)で、うちの息子達が経験した理科の授業は、ちょっとオドロキだったのです。例えば、「物質Aに、物質Bを加えると、Cのように反応します。それは、AとBが、こうこうしかじかのメカニズムで、Cの状態になるからです。本当にそうなるかどうか、やってご覧なさい』と言う具合の実験の授業だったそうです(それ以来、息子達は、理科の授業に興味を失ってしまいました。

他方、ドイツの友人で、ギュムナジウム(リセ)の生物の教師がおりましたが、(セカンダリースクール)上級過程の試験問題では、「在る種の魚の個体に、遺伝形質Aが在る場合には、在る環境において、a - a' - a'' -a'''.....の動作を示す。さて、同じ種の魚の別の個体に、遺伝形質Aではなくて、Bがあるかどうかをテストする(その場合の動作様式はb-b'-b''-b'''.... が予想されている)には、どのような実験装置(実験環境)を使えば良いか?」と言う設問をするそうです。
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そのばあい、教科書に書いてあることに忠実な答えであれば採点は C (可:及第)、その学年で習得しているであろう(あるいはそれ以上の)様々な分野の知識を、自分なりに再編し直して回答した場合は B(良), 全く予想外の独創的な実験条件の組み合わせを発案して、回答した場合は、個々の知識に間違いはあってもそれを無視し、その構想に合理性が認められる限り、むしろその独創性を評価して A (優) と採点するといっておりました。

「独創的」な実験設計は、すなわち大胆な仮説に基づくものでであり、したがって、正解の候補は複数あリ得ることが想定されているわけです。けだし、仮説は、実験によってテストされなければ成らないからです。しかし、理にかなった、新しい「仮説」を思いつくことが、創造的であり、サイエンスの前進に役立つ、あるいは、科学的知見の拡大に繋がる、したがって、そう言う構想力はストレートに評価すべきである、と言うことです。

これは、「手のひら」を造る、あるいは、「手のひら」を広げる為には、決定的な発想の要素ではないでしょうか? 「ベクトルのすり合わせ」以上の何かが必要なのではないかと思わされます。

「タメ口」の議論と繋がるのは、これを、フランス語のvous と tu との違い、あるいはドイツ語の Sie と Du の違いに置き換えてみると、フランス語やドイツ語で、vous あるいは Sie から、tu あるいは Du に、二人称の呼びかけを切り替えるには、当事者のどちらか (ドイツ語圏の場合、年長者あるいは女性が通例)がイニシアティブをとって提案し、相手がそれを受け入れた場合に成立する、つまり、社会的な対人関係でのリスクを伴った個人的な決断があるわけです。どちらからもその発案がなされなければ、何十年でも、Sie または vous の関係が続くことがあります。

少なくとも、ドイツ語圏の場合、Sie で呼び合っていた人間同士が、Du で呼び合う関係になると、個人間の社会的距離が大幅に短縮されれ、心情的な仲間関係に入る、同時に、社会的に暗黙のルールとして成り立っている緊密な相互扶助、権利と義務の共有の関係が生まれる、言い換えれば、同性か異性であるかに関わりなく、いざという時に真に信頼しあえる関係に入ると言うことになります

色々議論をしたり、会話を繰り返すうちに、年令と関係なく、人間的なベースで(職場、地位、肩書きと関係なく)親友が出来ることになります。

つまり、個人的なリスクを伴いうる選択と決断に基づいた親友関係は、日本の社会では、大人同志の関係としては出来にくいのではないでしょうか? 言い換えれば、同郷、同窓、職場の同僚というような、半ば運命的な集団の原理を、個人ベースでの人間関係の絆で相対化する可能性が少ないのではないでしょうか。

タメ口で話し合う雰囲気は、半ば運命的な集団への帰属関係の枠内で、徐々に醸成されるのであれば、それはむしろ集団の統合作用を強化するものにはなっても、集団という「手のひら」から飛び出したり、手のひらそのものを改変したりするような、集団からの自由を助成する作用は少ないように思えるのです。
このような、日本では自明的な社会的帰属関係の原理、あるいはその以前の、教育の現場での実態(正解はひとつしかないという通念)に、大幅な改変が起こらないと、リスクを負った個人の決断を社会的に育てる環境は生まれにくいように思われます。若者の科学嫌いとか、離職率の増大というような現象、あるいは、学生達が、とみに海外留学を避け、国内での勉学だけにこだわる傾向の増大などとも関係しているように思われます。リスクをとることによる自由、別な文化、異質の社会に飛び込んでみる冒険が、若者から消えうせると、知的な衰退、社会の知的な死に繋がる恐れがあります。

この「自明的な社会帰属関係の原理」<非タメグチ的社会>が、日本では特に製造業において強くあったといえます。そこに対してセカイカメラの井口さんが指摘するように、フェースブック的なウエブソサエティが当たり前として要求するサービスやインターフェースが、実際のビジネスで優先領域となってきている今、日本のメーカーが乗り遅れているのは、これまた自明の現象であるともいえます。

この二つの世界の間に大きくある溝を埋めるには、「正解主義」や「非タメグチ」(正確にいえば、より自由でフラットな非運命共同体的社会と対峙するもの)から脱皮しないといけません。これは、どこの文化がよいか悪いかという次元で捉えている限り、決して見えてこない出口です。

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