2009年8月30日日曜日

YouTube のストーリー別案

4回連続でプレゼンの原稿を書き写してみましたが、やはり書いたものはダメです。やはり、これを話してもというか、このような喋り方はできません。また、そういう文章的な側面もさることながら、話題を盛り込みすぎた嫌いがあります。一回の短いビデオですべてを伝えることは無理なので、シリーズ化するなどを構想に入れないといけないかもしれません。

そこで、具体的なテーマをもっと絞ってみたらどうかと考えています。そのポイントですが、(3)で書いた以下の部分を掘り下げたらどうかと思います


西洋の都市や建築がシンメトリーであることが多く、日本がその逆であることを知っていても、それが謝罪の乞い方によくある、「すみません。昨日までのことは水に流して、なかったことにしてください」と関連付けてみれないといけないわけだね。日本では「今」と「ここ」が一番重要だという見方とアンシンメトリーの繋がりがみえてくると面白いね。シンメトリーは全体がつかめないと駄目だから。

これはデザインの問題と社会意識の関係を説明するのに好都合な例です。ビデオで表現すべきなのは、日常のコミュニケーションレベルで生じる代表的文化差を、よく知っている視覚的に分かる別の例で示すことではないかと考えると、このあたりから挑戦してみようかと思うわけです。もう少し案を練ってみます。

2009年8月29日土曜日

YouTubeのストーリー(4:最終回)

(3)からの続きです。


A: そうねぇ。一人で全てを知ることはできないけど、どの点とどの点がどう繋がっているか?ってことに注意を向けていけば、自然と見えてくるものがあって、こういうことが分かってくると、色々な展開ができそうだね。

: それはそう。ヨーロッパのコンセプトを日本にどう持ってくるかという課題にも役立つね。とにかく、江戸時代以来、日本にはヨーロッパを学んだ人は山のようにいるわけだよ。今もあらゆる専門家がいるんだけど、ヨーロッパ人と何か一緒にコラボレーションするとか、ヨーロッパ人に何かを売るための文化理解はどうなのかというと、どうかな?というところだよね。相変わらずヨーロッパは勉強の対象だったりするんだ。

そして、「そもそも、それは18世紀のどういう考え方がもとで・・・」ということで、議論の大方の勝負を決めようとするんだね。それじゃあ、だめなんだ。近代の有名な哲学者の言ったことが重要じゃないとは言わないけど、今のヨーロッパの一般人のリアルな考え方や感覚の大雑把な傾向を、日本との比較のうえで知ることが最初にこないといけないのだと思う。それが、最初にいった心理的バリアをクリアするための必要条件でしょう。

A: じゃあ、最後になるけど、こういうヨーロッパ文化理解をプロモートしようという動機は?

: 自動車、デザイン、インテリア、電子部品、ユーザービリティとか色々な分野にビジネスプランナーとして係わってきて、電子機器のインターフェース、特にそのヨーロッパでのローカリゼーションに関与しはじめて、多くの問題が目に見えているのに、その問題に気づかない、あるいは「たいしたことないだろう」って思っている人達が多く、仮にそれに気づいていたとしても、解決に必要な文化理解が不足している。これを痛感したんだよね。確かに、これはある程度、経験や知識を統合して立ち向かわないといけないテーマで、「あっ、これは僕向きのプロジェクトだ」と思ったんだね。


それで、プロジェクトをやればやるほど、必要とされる文化理解レベルと実態のギャップに気づき、これは何とかしなきゃあと思った。下にあるような文化人類学のホールが提示した、ハイコンテクストカルチャーとローコンテクストカルチャーのような考え方を聞いたことがないというより、こういうことを一度も考えたことがない人が多いわけなんだ。これは、各文化圏の傾向を把握するのに、とっても役立つんだけどね。




そうしてあらためて日本におけるヨーロッパやその文化を眺めなおしてみると、ヨーロッパへの関心や認識が、ヨーロッパの世界のなかの位置づけと比べ合わせてアンバランスに低いということを再認識したんだ。で、『ヨーロッパの目 日本の目』という本やブログを書いたり、話すという活動をはじめたというわけ。

A: なるほど。上手くいくといいね。こういう方向が間違っていると言う人はいないだろう。テーマはヨーロッパ文化だけど、応用のきくというか、一般性の高い話しなんで、多くの人たちが問題の底にあるものに気がついてくれるといいね。


以上です。これだけのボリュームだと15分から20分の対談になりそうです。原稿を読んで話すと説得力に欠けるので、実際にビデオで喋る内容は、原稿と変わってくると思います。


2009年8月27日木曜日

YouTubeのストーリー(3)


(2)からの続きです。


A: 加藤周一の『日本文化における時間と空間』に書いてある、シンメトリーとアンシンメトリーの違いにあるバックグランドの説明なんかすごくためになるね。



: 西洋の都市や建築がシンメトリーであることが多く、日本がその逆であることを知っていても、それが謝罪の乞い方によくある、「すみません。昨日までのことは水に流して、なかったことにしてください」と関連付けてみれないといけないわけだね。日本では「今」と「ここ」が一番重要だという見方とアンシンメトリーの繋がりがみえてくると面白いね。シンメトリーは全体がつかめないと駄目だから。

A: その話しが、日本文化の軽さを重視する点とも絡むのでしょう?

: 西洋は大理石に象徴されるように、伝統的に重要なものは重いという価値があったよね。日本は木や紙などで軽く、それが洗練さを生むという評価をしてきた。その西洋でもだんだんと「重いだけじゃあ能がない」と考えつつある。でもだからといって、建築構造的な面を省略しちゃあいけないんだ。あくまでもストラクチャーはキープしながら軽くなることを求めるんだね。そういうところから、重さの変化の流れを徐々に知っていけばいいと思うんだ。軽さを主張するにもほどがあるってことだね。


A: そのほどを上手く表現した一つに、写真にある橋本潤さんがデザインした「蜘蛛の巣の椅子」があるんじゃないかってことね。ミラノサローネで前の作品よりヨーロッパの人たちの反応が良かったという理由をそこから想像するわけか。

: いろいろな理由があるだろうけどね・・・・。全体性あっての軽さ、断片的なはかない軽さじゃないもの、こういうのが受ける傾向はあると思うんだ。特に一般的な市場でね。昔、軽小短薄という言葉が日本の工業製品の強さを表現するのに流行ったけど、それを表立って悪口を言うヨーロッパ人は多くなかったと思う。でも、「なんか違うんだよなぁ」という違和感を長く持ってきたと思うんだよね。体が大きい、力があるという人間工学的な側面もあるんだけど、「これはかくあるべし」という認識と感覚の差も出ていると思う。これが文化差だと考えている。

A: だんだんとビジネス寄りに話をもっていこうか。文化が分からない実態みたいなのを。

: うん。対象が物理的なモノである場合は、違和感を引きずりながらも、高品質で適正価格であれば消費者もNOとは言わなかったわけだ。でも、高付加価値化ということが日本メーカーの方向付けにあって、やたら機能が増え、しかも価格が高くなってきた。するとニコニコ顔もひきつってくるわけだよ。作り笑いにも限度があってね。




が、流れはモノからコトというけど、ある意味、電子機器のインターフェースはコトに近いかもしれない。認知工学的な要求が大きくなってきて、作り笑いが苛立ちに変わってきたように見えるんだ。だって、ON、OFFだけじゃない抽象的プロセスの作業をユーザーは強いられるわけだから、分かりづらかったら、「もうイヤダ」とギブアップされる可能性が高いし、カーナビなんかでは、分かりずらさで人身事故を起こす可能性があるわけだ。

かつて原子力発電所や飛行機などに係わるエキスパートがインターフェースが原因で引き起こすトラブルが指摘されてきたけど、今はいわばアマチュアレベルにその問題が下りてきたってことなんだ。今後、あらゆるデバイスがさらにインターフェースが中心となってネットワークを作っていくから、人の頭のなかの働きを理解することがより重要になっていく。人は環境の動物だからね、思考習慣とかいろいろ違うわけで、文化理解が大切ってことだね。ただ、これは文化とビジネスを巡る問題の一側面だよ。


(4)へ続く。

YouTubeのストーリー(2)


(1)の続きです





A: じゃあ、意図は分かったけど、この文化理解を実際にどうすればできるのか?ていうことだよね。難しそうだなぁ。

: それを簡単とは誰も言わないよね。完璧な理解はなく、理解しようとする意志と努力があればいいわけだけど、なるべく日常生活に近いところで理解できればいいと思っている。ここで文化の定義について言っておくと、「文化とは生きるための工夫」であるという、政治学の平野健一郎さんの『国際文化論』にある表現を使わせてもらっている。いわゆる高級文化も含むけど、それだけではない。人々が生きるに際しての内面的外面的活動の全てを指しているんだ。それで、日常世界に話しを戻すと、デザインとか視覚的に分かりやすく、それも身近であったり良く馴染んでいるモノやコトから入っていくのがいいと考えている。

加藤周一の数々の本は、こういう比較例を満載しているけど、これを目で見て身体でわかってくると理解が相当違うんじゃないかと思うんだよね。世の中の事例には不足しない。でも、それをどう見るか?なんだ。日本は部分から全体を考え、西洋では全体から部分を考える。それぞれの代表例として、江戸時代の大名屋敷と、西洋のお城をあげているんだ。


これはまず全体を考えたということが想像しにくいよね。部屋をどんどんと足していった増築的なイメージがある。まさしく細かいところからの発想だ。それに対して、西洋のお城は最初に全体の姿を考えている。そして次に部屋割りを考える。当然なんだけど、皆が皆、こうしたはっきりした傾向を示すわけじゃないけど、このパターンが文化的に逆であるという主張は通りにくいと思うんだ。


こういう違いが、立体的なコンセプトを作るときのアプローチの差になって出てくるわけなんだ。この部分からみるというのは、固有性の尊重というか、二つのものに共通要素を見るより、差別化することに拘るという傾向を生むわけで、火山という自然でできたもののカタチに対しても同じ反応をすることになる。


これは日本の富士山に似ているけれど違う。本当は韓国の山なんだけど、これをみて「富士山は世界一美しい山だ」と言うのは、やはりおかしいと感じないといけない。富士山は美しい山とぼくも思うけどね。で、テーマは、こういう比較を実際にデザインを作るとき、あるいは見るときににどう活かすか?ということになると思う。


(3)へ続く・・・・


2009年8月26日水曜日

YouTubeのストーリー(1)


タイトルは「YouTubeのストーリー」ですが、正確にはYouTubeに投稿するビデオのストーリーです。ヨーロッパ文化部の主旨をビデオでも説明してみようかと思い、今、ドラフトを書いています。これは話す原稿なので手書きのほうがいいかなと考えノートに書いているのですが、やはりデジタル情報としても欲しく、ここに書き写します。対談形式です。





A: ヨーロッパ文化に対する理解を深めるというのは、特にお勉強して学ぶっていうことじゃないよね。

: そう、どちらかといえば勉強しすぎないことのほうが大事かもしれない。どんな手段を使ってもいいから、視点を沢山もつのが大事なんだよね。そして皮膚感覚というか、ヨーロッパには日本ともアメリカとも違った感覚世界がある、という事実を知ることが重要だ。

ヨーロッパというと、ギリシャ文化を知らないといけない、ローマ帝国以来の歴史を知らないといけない、キリスト教を知らないといけない、というように「知らないといけない」とされることが多すぎて、ここに心理的バリアをもっている日本人がたくさんいる。そして、その結果、「難しいものにはフタをしよう」と考えるんだね。

A: それが結局、日本のものづくりのメーカーの商品企画や文化発信では、ヨーロッパの文化文脈とは離れたアウトプットを生むということなんだ。

: もちろん、歴史のことを知っていたほうがいいに決まっているんだけど、そこで踏みとどまってはいけないと思う。もっと「ヨーロッパってこんなもんなんだ」というざっくりとした全体像を掴むことに力を使ったほうがいい。それも一人で分かることが大切で、あの国は誰々の専門だから、この分野は誰々がエキスパートだからといって怖じ気づいては駄目。




武蔵大学のヨーロッパ比較文化学科が編纂した『ヨーロッパ学入門』という便利な本があって、各分野の専門の先生が集まって書いている。これはヨーロッパを勉強する大学生のタネ本になっているらしいんだけど、これはこれでいいとしても、この本は「一人で分かる」というテーマに応えてくれないんだよ。それじゃあビジネス上、困るんだ。いちいちエキスパートを探しているんじゃあ、大枠の方針なんていつまでたっても決められない。

A: で、どうしてヨーロッパか?ってことだけど・・・。

: 今、話した内容は基本的にヨーロッパに限らず、どの地域にも通じることで、日本にも通じる。社会学の宮台真司の『日本の難点』という、日本のあらゆる問題について一人で語りとおした本も、同じ狙いにあると思っている。よって根幹の部分でヨーロッパだから・・・ということはないんだけど、5億人の市場があるEUを日本はあまりに見なさ過ぎるというアンバランスが問題だと思う。その問題のコアにヨーロッパに対する心理的敷居を自ら作っているとなるとね、どうかと思うんだ。

A: でも、ヨーロッパは色々な言葉もあってアプローチしずらいという見方も仕方がないところもある?

: じゃあ、アジアはどうか?ということになる。日本語、韓国語、中国語、タイ語、インドネシア語と色々な言葉があるわけだ。今、アジアが盛んに期待をもって語られているけど、確かにアジア文化の多様性を指摘する声は沢山あるけど、言葉がネックとなるから市場開発しないとはならない。経済成長という面があるにせよ、心理的問題も大きいと思う。何か、アジアは気楽にいけるだろうという思い込みがね。

(2)へ続く・・・・・

2009年8月14日金曜日

『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』




このブログでも時々、「北ヨーロッパの社会」というカテゴリーでスウェーデンやデンマークのネタをテーマに記事を書いていますが、一般によく取り上げられる環境論と絡めたことはなかったと思います。が、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』を「さまざまなデザイン」に以下レビューを書きながら、これはヨーロッパ文化部ノートのテーマに極めて近いと感じました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1991

上記でも触れましたが、これは「全体から部分」というアプローチをとらなければいけない環境論において、どうしてそのアプローチをとらねばいけないか、それを日本で伝統的に傾向として強い「部分から全体」手法をどう覆さないといけないか、優れて文化理解をもとにした図式を描かないといけない問題です。小澤氏もこれは技術論ではなく、極めて政治的・経済的・社会的アプローチが必要であると説いていますが、残念ながら本書を読む限り、すくなくても社会的説得性は強化した方がよいだろうとの感想をもちました。

いろいろな政治・経済問題において、人々の心のありように信じられないほどに無防備になるのと同様、動物としての人間存在という事実も忘れがちです。小澤氏は後者を強調しているのですが、これは前者と並行して全体像を描いてこそ、よりリアルな現実を認識することを誘導できると思います。

小澤氏は「スウェーデンを真似しろとは言っていない」と盛んに書いています。「スウェーデン? 人口と経済規模が全然違うじゃない。そんな国をモデルにしろなんて非現実的」という反論を何千回も聞かされた人ならではの防御だと思いますが、ぼくは環境論のまったくの素人ながら、こと環境論のかなりの部分については、スウェーデンモデルを真似ることを厭わない「勇気」が必要かもしれないなと漠然とした印象をもっています。だから、文化的解決が非常に重要になります

今、「モノは所有しなくていいんじゃない。必要な時に借りれば」という発想が世界にじょじょに広まりつつあります。これはエコロジーとは別の次元で、モノへの執着から心が離れつつある現象として語られ、去年の経済恐慌で激減した自動車市場を前に、スズキ自動車社長の鈴木修氏が「経済が復活したとして、これまでクルマを買った人たちがクルマに戻ってくるだろうか?」と危惧するゆえんです。カーシェアリングはその象徴です。また、PCのハードディスクにデータをおかずにヴァーチャル上に配置するとの発想ーグーグルに代表されるーは、こういったスタイルの先鞭を作っているともいえます。

小澤氏の上記著書においてスウェーデンの大手家電メーカーが廃棄責任の問題の解決法として、洗濯機のいわばリースを実験的に行っていることを紹介しています。使用料は電気代と一緒に電気会社に支払い、修理がきかなくなったらメーカーが新しい製品を再度リースするとの方法です。これは環境保護のひとつですが、実際、だんだんと台頭しつつあるライフスタイルとマッチしているのです。つまり、文化的調和のとれる社会機運が整いつつあるとまでは言えませんが、方向としては「そっち」なわけで、これをどう加速させるかというステップであることは確かでしょう。


2009年8月13日木曜日

AR技術と洗濯機の発達で思うこと




このブログでセカイカメラのことを何度か取り上げてきました。主にオープンプラットフォームというテーマで書いてきました。今、セカイカメラはAR「拡張現実」というカテゴリーで、その世界のなかの一プレイヤーとして取りあげられており、今週もBBCニュースの記事になっています。このARという技術によって、ヴァーチャル・リアリティが現実に入ってくるというより、現実がヴァーチャル・リアリティを取り込んでいく流れを作っていくことになります。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8193951.stm

さて、ヨーロッパ文化部としては、これまで電子デバイスのインターフェースやヴァーチャル・リアリティで生じる文化差の受け入れキャパ問題に注目し、この文化差を理解していかない限り、ビジネス面での失速は当然ながら、(カーナビのような機器から生じる)生命の危機など多くのトラブルを抱え込むことになると話してきました。その観点からすると、このARは現実と人の日常行動の接点がもっと大きくなるので、より文化差が目に見える形で出てくるのではないかと考えています。

ところで、ARはどのように世界を変えるツールなのでしょうか?単なる複数機能の統合でしょうか?デジタルによって複数の製品が一つに統合されるというトレンドがありますが、複数機能が一つに統合されていくというのは、デジタル化とは別に世の中では起こってきたことです。そこで、考え方の参考に「さまざまなデザイン」で紹介したユーザー工学の黒須正明さんが提唱している人工物発達学について、ここでも触れておきます。

黒須さんは、機能統合への発展過程について、洗濯機を垂直発達(*)の例に取り上げています(『人工物発達研究ー通巻第二号』総合研究大学院大学より)。基本的に達成すべき目標は繊維ものを洗って綺麗にすることで、人力から電気への利用、複数機能の統合化が発達プロセスになっています。


(*)人工物の多様性には、国家や民族など空間軸に対応したものと、時代変遷という時間軸に対応しているものがある。そして後者には、垂直発達と水平発達があり、垂直では、ある人工物が時代とともに置き換えられたり駆逐され、水平では、ユーザーにとって選択肢が増えるパターン。例えば、音楽プレイヤーや腕時計は水平発達にカテゴライズされる。

獣衣をまとっていた時代には洗濯は不要であったと想像すると、洗濯は繊維物を着たところに起源があっただろうと考えられます。繊維吸収力の回復と悪臭の除去を目的に、手で足で洗いはじめました。そのなかで、タライや洗濯板が開発されましたが、洗濯は、洗う、絞る、乾かすというそれぞれの行為によって成立します。そこに人工物が行為を支援するに際し、それぞれのステップの効率化だけではなく、それぞれのステップの連続化をも目標に入ってきますが、それが一気に実現したわけではありません。

電気の導入をみても、最初は洗うステップのみ。絞るのは手でした。これも手で直接絞ることから、ローラーに洗いものを挟み込むという工夫が次段階で出ています。しかし、ローラーでの絞りはかなりの重労働であったため、脱水機能が考えられました。これも最初の脱水機能は洗濯とは別の機能だったのですが、濡れた衣服の入れ替えを連続化するために全自動洗濯機が開発されたというわけです。これで洗いから絞りのプロセスは完成形に近くなったのですが、乾燥はまったくの手作業です。それで乾燥機が出ました。しかし、連続化プロセスとしては未完成で、絞ったといえど、濡れた衣服を移動させるのも面倒な作業で、洗濯乾燥機の誕生となりました。が、別置きの乾燥機も存在しているのが現在です。

話を人工物発達学の根幹に戻すと、これはもともと、目標一に対して手段や人工物が複数存在する多様な状況から着想されたものです。例えばコミュニケーションという目標に、対面、手紙、葉書、電報、固定電話、携帯電話、無線電話、携帯メール、パソコンメールが存在しており、ユーザーがどういう背景や理由で、これらのどれかを選択するのか?という疑問からスタートしています。したがって当然、使用される文化も絡み、文化人類学などと近くなります。尚、文化とは国家文化や民族文化だけでなく、世代や性あるいは宗教など多種の要素を基においた共通の行動・思考の様式を指しています。

ARは系列的には水平発達型のものかな?とも思うのですが、上記で音楽プレイヤーなどの水平発達ではなく洗濯機という垂直発達の例を取り上げたのは、実はARは垂直発達を遂げていくのではあるまいか(もしかしたら、長期的にみて、携帯電話のカメラがカメラ自身を駆逐する可能性も否定しきれない趨勢を鑑み)ということを感じているからです。

このテーマについては、今後も書いていきます。

2009年8月11日火曜日

秋の活動への準備スタート




ヨーロッパ文化部の秋の活動に対して着々と準備をはじめています。ヨーロッパ文化を伝える趣旨に関し、最近「さまざまなデザイン」に以下を書きました。これは明治大学大学院の管啓次郎さんのゼミに提出した「安西洋之の36冊」レポートに対する感想の抜粋です。

今、ぼくはヨーロッパ文化をどう日本の人に伝えるかを考えている。そして、実際、本やブログも書き、多くの人の前で話すこともはじめた。もともと全体性の理解に対する拘りが強かったが、多くの経験を積み、それをある時点で統合しようと思ったとき、「ヨーロッパ文化」という具体的な名称で、ぼくの頭のなかに統合の事例として現れたのだった。

ただ、実を言えば、ヨーロッパ文化を伝えるとは、ヨーロッパに関する情報を伝えることと同義ではない。言ってみれば、新たな視点や考え方を提供するにあたってのネタである。しかし、それはよく言われる「〇〇で何が分かる」「〇〇に役に立つ」「〇〇に学ぶ」という次元とは距離をもつ。ぼくの狙いは、異文化の人達と一緒に何かをするための文化理解とは何か?を突き詰めることだからだ。そして、まずは、その目標ラインを「ビジネスのため」と限定している。あえて線引きすることで、伝える内容の構造が見えてくるのではないかと考えている。

これをここでもう一度引用したのには、一つのブログと一つのネット記事を読んだからです。まず地政学あるいは戦略論が専門の奥山真司さんのブログです。これから英国に留学する方へのアドバイスとして、日本の研究方法を「八百屋」とし西洋のそれを「料理人」と比喩されたと書かれています。その理由を下記としています。

なぜ八百屋なのかというと、彼らはデータの品揃えが勝負であり、ひとつのテーマについてどこまで詳しいことを知っているかということで勝負しているからです。

なぜ料理人なのかというと、彼らは厳選された材料を選らんで自分のやり方で調理するのが勝負なのであり、ひとつのテーマについてどのような鋭い解釈・分析をできるのかで勝負しているからです。


なるほど、上手いことを言ったなぁと感心したのですが、八百屋は八百屋という線引きがありながら、料理人よりは線引きが緩いからなと思いました。それは職種としてよりも、(比ゆ的にいえば)視覚的に見える目的枠が、後者においてより明確なのではないかとも考えます。加藤周一が指摘した、時間の出発点と終結点が明白なユダヤ的思考が西洋文化の根にあり、その限られた時間枠であるがゆえに建築的構造的世界観を作る傾向にあるとしたことは、研究の方法をも当然変えていくだろうということになります。意図的に線引きし、そのなかで出る例外をどう扱うかのルールを自分で決めていくことが日本の研究者は苦手であるがために、情報量で範囲を確保する方向にいくのではないかともいえます。

もう一つのネット記事とは、日経ビジネスオンラインにあった作曲家の伊東乾氏と湯浅譲ニ氏の対談なのですが、現代音楽やその周辺に対する膨大な情報が交信するなか、これを主要読者であるビジネスマンがどれほどに読み込むかを考えるとき、奥山真司さんが比喩する「料理人」的な訓練が問われているだろうと思います。以下は伊東乾氏の対談冒頭部分の発言ですが、この部分の意図と背景を知ったうえで、この対談を読み込むと色々なことが見えてきます。

―― ところが、メディアの前面で、そういう声を出せる場がなくなっているわけです。僕の作品を聴いてくださる方があるのは、とてもありがたいことです。 でも、もしマーケティングで考えられたら、現代音楽の聴衆は本当に数が知れています。これが同じ僕でもベートーベンとかバルトークとか古典を演奏すれば、 クラシックファンというのはもう1ケタくらい増えるでしょう。でもそれだって、クラシックは徹底してマイナーで、ポップスの比ではありません。

 それらと比べて、40歳を過ぎてから、考えがあって書き始めた読み物の方が、はるかに社会的反響は大きいわけですね。この日経ビジネスオンライン も毎日、数百万人のアクセスがあって、毎週僕が書くものも何十万という人が目にして、厳しいコメントを返してもらえることも多くて。もう3年目に入りまし たが、とてもいい経験というか、勉強にもなっているわけです。

この対談のテーマは、ぼくが問題にしている「ユニバーサルとローカルあるいはローカリゼーションの必要性」と直結しています。電子デバイスのインターフェースに地域差を尊重することと、バッハやベートーヴェンにあるフォークロア的な要素に関する感じ方の違いと共通部分をどうみるか。こういう視線でみれば日本的インターフェースをヨーロッパで平気な顔をして売れなくなるはずなのですが、どうも面の皮が厚いのではなく、単に自慢の感性にも磁場があるようだとしか言いようがないと結論づけざるをえない状況を「半ば意図的」に作っています。垂直構造でもやれる、水平展開には耐えられない・・・という次元の前に、こういう問題が横たわっているので、そのためにヨーロッパ文化を理解する意味をまず把握してもらわないと困る、ということになっています。

今月は、このブログももっと頻繁に書いていこうと思います。

*「安西洋之の36冊の本」は以下から3回連続で書名と200文字コメントをレポートから転載しました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1942

2009年8月8日土曜日

職業の最適化を求める

前回の八幡さんの記事に対する茅根健(ちのけん)さんのコメントです。今、日本でも労働人口の流動化が盛んに言われていますが、「流動化」は国内だけでなく、産業がフラットになるのと同様、労働力の面でもフラットと流動化の視点が重要です。シリコンバレーにおけるアジア人が例によくあげられますが、どこで国の雇用確保と産業力の向上の線引きを引くか、常により厳しい問いかけがプレッシャーになりつつあります。


僕の記事に対する八幡さんの意見を読んで。

>世界が flat になればなるほど、自分の、そして自分の社会の立ち位置を他との比較で明確に把握する必要がありますから、内向き引きこもり傾向がますます強くなる日本に とっては、昔のドイツの職人の養成過程で義務づけられていたWanderschaft (日本の場合、海外での修行)を、大学卒業などの最終試験の受験条件にするくらいの発想がむしろ必要なのではないかと思います。

この八幡さんの意見には賛成です。もっともっと外に出る必要があると思いますが、と同時にその後日本に戻ってきたいと思わせる環境作りも同時に 行っていくべきではないでしょうか。またまた自分の業界の話になってしまいますが、やはりこちら(ヨーロッパ)で修業をしている日本人は多くの方が出来る ならばヨーロッパに居続けたいと考えています。それと、大切なのが「学ぶ」ことから「自分に何ができるか」へのシフトだと思います。この辺の線引きがまだ まだ日本人の方(自分も含めて)には難しいのではないでしょうかね。

また、

>今では、医師、弁護士、若手の研究者、将来は専門家として身を立てたいと思っている大学生(あるいはギムナジウムの学生)は、進んで機会を求めて国外へでてみるようです。

と仰っていましたが、これは自分が実際にドイツに住み始めて現地の人間とコンタクトをとるようになって実感するようになりました。が、現実的には 職場の環境や収入の面etc.でドイツに残るよりも海外に出た方がよいという面があるのも最近の傾向だよ、と友人のドイツ人が言っています。

安西さんが時々おっしゃっているに、やはり年々外国人のビザ取得などが難しくなってきており、EU域外の外国人に対するEU入国・定住などの門戸 が狭くなってきているように感じます。今のうちにその門戸を確保しておかないと今後ヨーロッパ―日本でのビジネスを考えたときにますます大変になっていく のではないかと個人的にも思います。だからといって自分にそのための打開策が思いついたわけではないのですが。。。

大した感想ではないですが、メールさせていただきました。

ベルリンも最近はようやく夏らしい天気が続いています。まぁ、どこまで続くかわかりませんが(笑)それでは、良い夏を。

ちのけん

2009年8月5日水曜日

若者の旅修行

ベルリン在住のバイオリン職人である茅根健さんは、イタリア、オランダ、ドイツの他の都市の工房で修行を積んできたわけですが、先日の記事「バイオリン職人「ちのけん」の目標」に対して、八幡さんからコメントをいただきました。自分たちの技量に自信をもつことが世界を知らなくてよいという陥穽にはまらない、いわば謙虚さをいかに持続するか、そういう問題点を指摘されています。

茅野健さんのドイツの師匠が言われた事には、確かにうなづけるのですが、一方、ドイツの職人の世界では、昔から、一定の修行を終えて Geselle として、自由行動を許された若ものが、他所の土地を回って修行する事(Wanderschaft) が、マイスターの試験を受けるための必須の条件でありました。20 世紀の後半にも、部分的には現実におこなわれていて、二人組の大工の職人が、固有の制服を着て、徒歩で旅をしているのに出会ったことがあります。違った土地、習慣、文化、人々に出会って識見を広める事が其の意味であったようです。

index.php.jpg(Wikipedia: Wanderjahre より。職業の異なった若い職人が、旅の途中で出会う。)


今では、医師、弁護士、若手の研究者、将来は専門家として身を立てたいと思っている大学生(あるいはギムナジウムの学生)は、進んで機会を求めて国外へでてみるようです。世界が flat になればなるほど、自分の、そして自分の社会の立ち位置を他との比較で明確に把握する必要がありますから、内向き引きこもり傾向がますます強くなる日本にとっては、昔のドイツの職人の養成過程で義務づけられていたWanderschaft (日本の場合、海外での修行)を、大学卒業などの最終試験の受験条件にするくらいの発想がむしろ必要なのではないかと思います。

2009年8月1日土曜日

バイオリン職人「ちのけん」の目標

何度もここに登場くださっているベルリン在住のバイオリン職人である茅根健さん(通称、ちのけん)から、興味深いメールをいただきましたので転載します。拙著『ヨーロッパの目 日本の目』で、ヨーロッパから学ぶのではなくヨーロッパ人と何か一緒にやるための文化理解が必要な時代になっていると書きました。その本の趣旨と同じことを茅野健さんは工房のボスから耳にしメールをくれました。

実は今日アトリエ主のAndreasから「日本人はそろそろヨーロッパで学ぶ、ということをやめないとだめだよね」と言われてびっくりしました。まさか安西さんと同じセリフをドイツでしかも自分の勤め先で聞くとは想像もしていなかったから。

彼曰く、学ぶということもはじめは必要だけれども、いつまでそのままじゃいけない。ヨーロッパのどこそこで学んだ、ヨーロッパの誰のもとで働い た、とかそういったことは重要じゃないと。大切なのは自分。つまり、ヨーロッパでヨーロッパ人と同じ土俵に上がってちのけんなら「ちのけん」の名前で勝負 しないといけないぞ、と。今はまだ始まったばかりだから学ぶことも必要だけれども、ゆくゆくはそれが必要だと。いつかはヨーロッパの人間が「ちのけん」の ところに学びに、働きに来るように頑張れと言われました。

楽器職人の世界ではいまだにヨーロッパ信仰・アメリカ信仰が強いです。日本の外で学ぶことがありがたいと。確かに、ヨーロッパにはたくさんの日本人の楽器職人の卵がいますし、現に自分のようにどこかの工房に所属して働いている人間もいます。楽器の製作コンクールでも日本人の名前が上位に食い込むこ とももはや珍しくなくなってきました。それでも、日本人の誰それのもとで勉強、労働をしたいというヨーロッパ人はいない。なぜか?前述のAndreas曰 く「それは、日本人がヨーロッパで学ぶということをいまだに続けているからなんだよ」と。

日本人の楽器職人は決してレベルは低くないし、ほかの工房で働く日本人のうわさを聞いても、ポジティブな意見ばかりで、中には「良い工房には必ず 日本人がいる。」という人もいるくらいです。でも、まだ同じ土俵に立って自分に何ができるかという考えのもと戦っている日本人は少ない。というか、まずい ないのではないか?

自分が今勤めている工房はヨーロッパやアメリカのほかの工房と比べてもかなりレベルの高い部類に入ります。でも、そこで働いたことや学んだことよりも、そこに行けば、あの「ちのけん」がいると言われるような存在になれるように頑張ろうと目標を立てました。

事あるごとに、このAndreasは今回のようなことを言ってくれて、そのたびに目が覚める思いです。

大したことではないですが、メールさせてもらいました。

それでは。よいバカンスを。