2009年4月25日土曜日

ミラノデザインウィークにみるヨーロッパ文化動向




今週はミラノのデザインウィークで、毎日色々な展覧会でデザインを眺めながら、ヨーロッパ文化動向を考えています。イタリアの家具500年展をみて、歴史の使い方が明らかに変化してきているところに気づき、西欧的価値の新たは見直し作業を「次の何かを作るため」にスタートしていることが確認できました。「さまざまなデザイン」に以下、書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1502

一方、日本の素材産業は良いのですが、完成品メーカーが示す世界像が相変わらずヨーロッパ人に分かるようになっていない、その問題点についても考えました。レクサスの展覧会をみて、ぼくはかなり考えた結果、これは展覧会のキュレーターの問題ではなく、レクサスのデザインコンセプト自身の問題であると思いました。日本の独自性に拘るあまり、本来、日本文化にある「合理性」を西洋的であると勘違いして排除し、洗練さを極めるという相対的な世界に入り込み、立体的な世界像を構築することを結果的に拒否する羽目になっています。以下が、その文章です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1513

プラットフォーム構築(手のひらをつくる)ことを目標に、何がユニバーサルか?何がローカルか?というテーマを追い続けていますが、このデザインウィークを過ごしながら、ある定義を仮にですが得ました。とてもシンプルにいえば「ユニバーサルとは言葉で表現し、相手が理解できることである。それ以外をローカルとする」という考え方です。八幡さんが「クラシック音楽とプラットフォーム」で書いていただいた、以下がコアになると思います。

ルネサンス以後のヨーロッパでは『万人の万人に対する戦争』状態にあったので、数学的論理のみが、対立を超えて(普遍的に)認識されえる唯一の言語表現の基軸であったはずです。

レクサスのデザインコンセプトは、言葉で表現し得ない部分を土台として使おうとしています。これは反対であるべきで、とりあえずローカルなレイヤーにのせるのが良いと思うのです。よく「人は皆人類同じ。言葉がなくても、心で通じ合える」と言いますが、そういうことをローカル層に入れるのです。お互い分かり合えることもあるかもしれませんが、分かりえないこともある、不可視の部分です。ですから、とりえあえずユニバーサルレイヤーには含めない。もちろん、ユニバーサルレイヤーとローカルレイヤーの間での相互作用はありますから、何も全てを言葉で表現できることだけで製品アイデアができるわけではありません。少なくても、レクサスで言う「妙」や「予」は、ユニバーサルに入れないという覚悟が必要です。

レクサスのデザインコンセプトの説明で、ニースにあるデザインセンターでの経験をベースに、「日本の独創性に拘った」とあります。日本の歴史を顧みたときに、「合理性」という考え方がなかったわけではないのに、「合理性は西欧的」という先入観で、それを必要以上に排除しようとしたところに悲劇(ヨーロッパでレクサスが売れない)があるのではないかと考えます。

「綺麗だね」「いいね」という第一印象やインスピレーションを否定するわけではありません。コンセプトの構築の方法を語っているのです。それをコンセプトの土台にもってくるのは、ヨーロッパで売れる(完成)製品作りとはならない、ということです。





2009年4月20日月曜日

白洲次郎は文句を言えばいいのか?





NHKが3月に放映したドラマ「白洲次郎」を見ました。これはミュージカルなのだろうか・・・と思いました。ミュージカルはテーマとなる内容を伝える場面で、通常ではありえないことですが、突如登場人物たちが歌い踊ります。このドラマでは、歌ではなく、次郎と正子が英語で会話するわけです。もちろん、この二人が英語で喋りあったことは事実なのかもしれませんが、ぼくにはミュージカルの歌のシーンに思えてしかたがなったのです。皆、この場面をどう思ったのだろうかと好奇心が湧き、番組の掲示板を覗いてみました。下のURLです。

http://www3.nhk.or.jp/drama/drames/drama/211/page_001.html

今日時点で700以上のコメントがあります。ぼくは400近いコメントに目を通しましたが、この場面をミュージカル的と記している人はぼくの読んだ限りではおらず、やや意外感をもちました。それではぼくの感想は個人的に胸のうちにしまっておこうと思い(と、言いながら、こうブログに書いているのですが)、もう一つのことを考えました。「今の日本に、マッカーサーに文句を堂々というような、次郎さんがいれば!」という意見が多いことです。

白洲次郎は大戦を止め切れなかった近衛文麿を結局のところ説得しきれなかった。単身、英国に向い有力者の前で日英の衝突を避けるべく説得を試みるが、それは現実的な解決には一向に至らなかった。そして、今(あるいは今もって)、日本の憲法はGHQの押し付けであるとの声が多いなかで、白洲次郎はまさにその渦中にいた。それでいながら、マッカーサに天皇のクリスマスプレゼントを届けた時、司令官の態度がフェアではないと文句を言うエピソードが過大に持ち上げられる。外国人に文句をずばりと言えば、結果がどうあれ、それはそれでいいと皆さん思っているのだろうか・・・そう感じました。

ぼくは白洲次郎とEU統合の父と呼ばれるフランス人のジャン・モネに多くの共通点をみます。ベースにビジネスマンの感覚があり、政治家にはならずとも公的な役割を時機に応じて果たし、その立場だからこその自由な意見を力ある政治家が耳を傾けた。そして、それらの経験が生き、前者は通産省の土台に力を尽くし、後者は欧州石炭鉄鋼共同体を設立していく。モネは欧州間の共通利益の確定と、そのための実現策にエネルギーを注いだわけですが、仮想物語ですが、もし白洲次郎も同じような考え方をしていたとすると、白洲次郎自身の構想は実現していない別のことだったのだろうなと思います。

話を元に戻すと、こうした文句を言うことが現在の日本にないわけではなく、現実、政府関係者やビジネスマンの現実の世界で大いにあると思うのですが、それが大局を作りえていないことに焦燥感があるのではないかと考えます。それが「今の日本に次郎さんを!」という声になるのだと思いますが、少々行き過ぎた感がします。

2009年4月18日土曜日

ヨーロッパ情報のモザイク感を解消する

「ヨーロッパを俯瞰するメディアがない」に八幡さんよりコメントをいただきました。

いいトピックを見つけましたね。同感です。

実際、The Economist, Interntional Herald Tribune, Financial Times くらいが、ヨーロッパ全体を見渡すには最良でしょう。それにしても、2つは、イギリス、もうひとつは、NYTの所有であるらしいが無国籍です。

L'Osservatore Romano がVatican から全世界を網羅して(ただしカトリック教会の立場から)報道していますが、あのような新聞をEUレベルで発行する事が出来ればと思いますね。それでも、この新聞の小さな記事、「教皇は、ドイツの東西境界線で分断されていた在る司教区(司教座は東独領内)の西側半分を、固有の司教区とする事を決定した」というニュースから、W. ブラン ト政権は、東独を固有の独立国として認める「東方外交」に方針を切り替えたと、当時、ドイツの雑誌で読んだ記憶があります。

全般的報道の意味をよく示している一例でしょう。

L'Osservatore Romanoはオンラインで数ヶ国語に訳されています。これは確かに一つの参考になります。ある意味、ある領域をベースとする点では各国新聞のあり方に近いといえなくはないかもしれません。

Economist などはいまでも Europe and Britain という表題でヨーロッパ関係のニュースをまとめると言う、ヨーロッパ大陸から一歩離れたスタンスをとっているあたりに、視点の独自性がありそうですし、長年の大英帝国時代以来の外交関係の経験・情報の蓄積,強力なインテリジェンス能力が、FTも含めて、イギリスのああしたメディアの背景にあります。其の点は、オッセルバトーレ・ロマーノも同じですね。

EUには、そのような政治・社会的背景構造がありませんから、全ヨーロッパをカバーするメディアの登場は、政治的な今一度の変革が必要ですし、それを各国の選挙民が許容するかどうかという、危惧もある、此れはむしろ大きくなっているのでないでしょうか。

それにしても、日本のメディアは未だに蛸壺報道ですね。

英国のメディアが圧倒的に強いのは、英語という言語の問題に留まらない背景があるということです。ローマのバチカンと同じですが、EUの中心であるブラッセル発では人々の関心を惹きつけきれない。それは、各国紙の時差ありサマリー的英語ダイジェスト版ではリアリティがもてないということにも繋がっているでしょう。

あることをなるべくホットな状態で知ることが、強い関心を抱く動機であるとすると、各国紙が如何に英語版をリアルタイムで用意していくかに関わってきます。英国のGuardian は、自国や英語国民以外をマーケットとして重視したオンライン編集をしているというし、ドイツの週刊誌Spiegel のインターナショナル版のような体制が、一文化圏に一つでもあれば、随分と違ってくるだろうと考えています。イタリアのCorriere della sera も英語と中国版があります。リアルではないしサマリーですが、ダイジェスト版につきものの「匂いのなさ」はかろうじて避けられているのではないかと思います。

そして我々としては、少なくても「リアル感」のあるヴァージョンの寄せ集めで、どうしても残るモザイク感をどう補完するか(解消するか)を考えるべきではないかとも思うのです。

2009年4月17日金曜日

ヨーロッパを俯瞰するメディアがない





ヨーロッパをどう俯瞰すればいいのか、あるいはどういう手段で俯瞰できるのかということをヨーロッパ文化部ノートでは思案しています。その探索の一つとしてぼく自身、毎朝、1時間くらいで10-15のヨーロッパ各国紙・誌オンラインのトップページをざっとチェックしています。どうすれば「勘」を鍛えられるか?というトレーニングです。今日、その問題に触れている記事をオランダのサイトで見つけました。

http://www.nrc.nl/international/Features/article2214904.ece/Getting_Europeans_to_talk_to_each_other

このコラムは、ヨーロッパを全体としてみようとすると以下のメディアくらいしかなく、中央銀行や議会もあるのに、どうしてその役割に相応しいメディアがないのか?というのです。

International Herald Tribune
The Economist
Financial Times

各国紙の積み上げでは断片的な姿しか浮かび上がってこないではないか、もっとヨーロッパについてヨーロッパの人達が議論しあえるプラットフォームをもつべきだというのです。この状況をオランダの社会学者SWAANは「ヨーロッパの真空」と呼んでいます。ただ、それを打破する動きがないわけではなく、下記のようなサイトがあります。

Cafebabel
EUobserver
Eurointelligence
European Voice
Europe&me.

ドイツ政府のファイナンスを受けている Eurotopics は毎日各国新聞記事から要約をし、詳細はオリジナル記事にリンクしています。こういう色々な試みがありますが、どれも大きな影響力をもつには至っていません。議論が盛り上がる舞台は各国メディアであり、「インテリは大学か自国メディアで稼ぐ」事情は、世界共通のようです。しかも一般の人は、隣国で生じている現象に個別の事件以外にはさほど興味がなく、議論のための共通プラットフォームを求める勢力そのものが弱いのです。

ヨーロッパの社会的に共通の問題、例えば、ティーンの飲酒、ドラッグ、セックス等の問題が英国で一番大きく注目を浴びても、それに対して大陸側は人事ではないのだけど、なんとなく後回しにしがちであったり、フィンランドは逆に飲酒率が下がっているにも関わらず、それは英国で大きく取り上げられないとかアンバランスをぼくも感じています。そして、こういう現象が経済的状況とリンクしているか?という問題意識をもつことで、もっと立体的にヨーロッパが把握できるはずなのに、そういう話題が日々のオンラインニュース上では見えてこないことが不満でした。

結論として、ぼくはこの記事を読んで、要するに自分でやるしかないんだと思いました。どこかのメディアが圧倒的に強くなるのは、ある特定分野や趣味に限ったことが多いと考 えるべきで、とりあえず今のところ「これを読めば、ヨーロッパの全体が分かる」というものがないことを確認するのは、「ヨーロッパの俯瞰的な分かり方」の コツを習得する以外には(今のところ)ないのではないかと思います。理解度にはもちろん差は出ますが、ある集中力と持続した関心をもてば日本人でもできない話ではない、少なくても一般の欧州ビジネスマン並の「勘」をもつことは超難問ではないかもしれない、と楽観的なことを思いました。

2009年4月16日木曜日

クールジャパンのゆくえ

コンテンポラリーアーティスト・廣瀬智央さんのローマにおける展覧会の反応を「日本人はコンセプトそのものを無視する?」というエントリーで紹介しました。この展覧会に関するレヴューが、早速下記に掲載されています。

http://www.exibart.com/notizia.asp?idnotizia=27183

さてこの展覧会の報告を、廣瀬さんは東京にいる小山登美夫ギャラリーの小山さんに送ったところ、小山さんが最近電通の新聞に書いた記事を送ってきてくれたようです。ヨーロッパ文化部ノートにマッチするその内容を以下転載します。タイトルは
「 『クールジャパンの行方』~アートの歴史を構築できるか~」です。
  
最近いくつかのインタビューで、「日本人のアーティストが世界で活躍されているみたいですね、そんなに日本のアートが注目されているのですか? ぜひ、その 状況を教えてください」と聞かれる。もちろん、何人かの日本のアーティストが世界のアートシーンで活躍していることは事実だ。

草間彌生、 杉本博司、荒木経惟、森山大道、村上隆、奈良美智らをはじめとして、多くの日本のアーティストが世界中のギャラリーや美術館で展覧会をしている。「日本の アートはやっぱりすごいんですねー、ヤッパリ!」とくる。そのときに私がいつもあまのじゃく的に言うのは、「何も世界で注目されているのは日本のアートだ けじゃないですよ。中国のアートだって、ブラジルのアートだって、ポーランドのアートだって、インドのアートだって、アフリカ諸国のアートだって、すべて 注目されてますよ。日本なんてまだまだです」と言い返す。
 
そもそもこういう話では、日本に注目している主体は必ず、アメリカや西欧の先 進国といわれる国の人たちで、あの有名な美術館が誰それの展覧会をしたとか、ロンドンやニューヨークのサザビーズ、クリスティーズのオークションで何億円 になったとかのニュースから、きっと私たち日本人を世界は認めているんだ、やったーとなるのだ。クールジャパンの始まりの構図がここにある。でも、ほかの 国は、たとえばクールアメリカとか、クールドイツとか言っているのだろうか?

大リーグの日本の選手の情報はいつもテレビで流れているか ら、松坂はすごいとか知ることができるけれど、他のアジアからも南アメリカからも多くの選手が大リーグで活躍していて、でも情報がないから(マニアな人は ちゃんと見ているのでしょうが…)日本人ばかりが活躍しているみたいに見える。そんな壁が、「日本のアートがいま世界で注目されている!」と思い込みたい 人には機能しているのだろう。もっと冷静に客観的に自分たちの位置を見てみた方がいいのではないだろうか?
 
言うまでもなく、現代美術は 西欧、アメリカを中心に発達してきた。日本人が誰でも知っている美術館は、ニューヨーク近代美術館であり、ポンピドーセンターであり、テートギャラリー だ。日本では美術館に一回も行ったことのない人たちも、観光旅行の際には必ず立ち寄る世界の大観光地だ。その美術館の人たちは常にアートの歴史をつくり上 げてきた。そして、日本やインドやブラジルなどのアートを、自分たちの美術の流れとは違う新たな価値観として注目したのも彼らなのだ。そのリサーチは周到 で、あくまで自分たちの美学的観点から新しいものを取り込み、さらに強固な歴史を構築していく意志がそこにはある。オリエンタリズム的な、あくまでも自分 たちの価値判断から理解しただけじゃないかとの批判もあるだろうが、自分たちの美術だけで成り立つ危うさを認識し、他者の価値を受け入れることをいとわな い勇気はやはり大したもので、歴史にアート作品を刻んでいく使命を確実に自覚していると思うのだ。

一方のクールジャパンはどうだろう。人 からおまえのところすごいぞと言われて、やっぱりそうなんだぁと見渡すとそばにすごい人がいて、言われなきゃ分からなかったよー、といった情けない状況 で、でもいったんそれに気付いたらニッポン、ニッポンばかりになってしまい、それで終わってしまう。
 
日本にすごい人がいるのは当たり前 なのだ。もちろんアメリカにも、インドにも韓国にもどこにでもすごい人はいると思う。でも目の前にいるすごい人をすごい人と分からないこと。自分たちの歴 史をアーカイブせず、見つめ直せないこと。それが、人から言われなければ気付かない体たらくの状況をつくっている。そして他者の価値を受け入れる勇気もな く、自分たちはすごいんだ!で納得して終わってしまうというのは何なんだろう。
 
以前、ロサンゼルスのあるギャラリーで私のギャラリーに 所属している日本のアーティストの個展があった。工藤麻紀子、日本人、当時二十八歳、女性。そのとき、ロサンゼルス現代美術館のキュレイターが見にきて、 すごく気に入って、美術館のコレクションとして購入してくれた。海のものとも山のものとも分からない、日本の二十八歳のアーティストの作品を、自分の目で 価値があると判断して歴史の先端に乗せてくれたのだ。このとき、ほんと、カッコイイと思った。この格好良さを獲得するにはどうしたらいいのだろう。これが 獲得できたとき、他者を受け入れる勇気を持ったとき、それが本当にクールジャパンといわれるものになるのではないだろうか? でも、きっと、そのときに は、もうクールジャパンという言葉はなくなっているだろう。(こやま・とみお=小山登美夫ギャラリーオーナディレクター)


こ れには色々なことを考えさせてくれます。ベーシックなところでは、他人の意見をあまりに気にしすぎて自分で最初の一手を打てない日本の問題点があります。 あるデザインをクライアントにプレゼンすると、日本の会社ではそこにいる一番上の人の顔色をみてから意見を言う傾向が強いですが、イタリアの会社ではそこ に社長がいようが新入社員でも「このデザインいいじゃない」と最初に発言する。そういう違いを思い起こさせてくれます。

自国を歴史や文化 を意図的に盛り上げる活動は、何も日本の十八番ではありません。どこの国にでもあることです。政府がジャパンブランドを促進していますが、それは意図とし て悪いことではないでしょう。ただ、その戦略的な部分で流される情報を本気でとってしまう人が日本には多すぎないか?という懸念があります。自国の人口の 10倍以上(7-8千万人)も世界中にいる「アイルランド系」も、実に多くの人達は何らかの形でアイルランドとの関係でビジネスをキープしていると知ったとき、国や民族の繋がりはすごいものだと思いました。日本はこういう強さがありません。だから日本の外の現実の本音(情報)の質が落ちるのだと思います。 海外情報にバリエーションが少ないのです。

実際、アルゼンチンでのイタリア系の強さを反映した両国関係に見られるように、各国市場へのア プローチはそう単純でなく、南米を攻めるにも北米や欧州経由であることのほうが有利であることは多々あります。昨年、リビアのガダフィの息子夫婦がスイス で拘留されたことが、スイスとリビアで外交問題に発展していますが、ここで仲介するのがリビアとの関係が強いイタリアです。こういう例は数多くなり、西洋 と北朝鮮の間ではスウェーデンが重要なインターフェースになっています。また一方、脱税摘発との関係で、銀行口座の情報開示問題で米国やドイツと強烈に衝 突したスイスなどを見ても分かるように、世界の標準戦略とは何もなく、それぞれの位置を利用して自分を有利にもっていく独自戦略しかありません。

話を小山さんの記事に戻すと、やはり日本の「正解主義」が多方面で袋小路を自ら作っている現状があります。 絶対評価ではなく相対評価の成績表に毒された嫌いがあります。これが外交の世界での不器用さを生む一つの原因になっていることは確かですし、自らが目の前 にあるアート作品についての判断を最初に下しにくい(他人の意見を待つ)傾向を生んでいると思います。だからこそ、「正解主義」からの脱却のもう一方で、 あなたの目の前で即断する人の考え方をよく知ることが大事なのです。廣瀬さんの作品に再び言及するならば、西洋的文脈でのコンセプトを理解するということ が大切ということでしょう。



2009年4月14日火曜日

総合的戦略をたたていくに必要なもの

前回のエントリーに対して八幡さんからコメントを頂き、最終部分をきちんと引用しておくべきだったと反省しました。ぼくが引用したのは、ダイヤモンドオンラインでの野口悠紀雄氏の以下の記事です。「水平展開」ではなく「水平分業」という言葉をそのまま使うべきでした。

http://diamond.jp/series/noguchi_economy/10017/?page=3

(トヨタやソニーなど)これらの企業はいずれも製造業なのだが、アップルは日本の企業とは非常に違う企業であることが、以上の指標だけからもわかる。ビジネスモデルにおける最大の違いは、アップルは水平分業に移行していることだ。

「水平分業」とは、ある製品を1つの企業だけで作るのではなく、さまざまな企業が分業して各部分を作り、それをマーケットを通じてまとめ上げるよ うな生産方式である。iPodという製品に関して、アップルの役割は、コンセプトの開発と基本的な設計だ。実際の生産は、世界中のさまざまな企業によって 行なわれている。これは、日本企業(とくに自動車)の生産方式である「垂直統合」(1つの企業、および固定的な関係で結ばれた系列企業によって製品が作ら れる方式)と、大きく違う。

自動車産業が生き残る道も、水平分業に展開し、技術的に高度な部分を担当することだろう。たとえば、新興国向けの低価格車も、すべてを生産するのではなく、エンジンだけを担当するというような方式だ。それをしなければ、コモディティ化に巻き込まれるおそれがある。

この部分に対して、こんな高度な展開をする力が日本の製造業にはあるだろうか?というのが、ぼくの危惧でした。八幡さんは、次のように的確にその危惧を具体的な指摘してくれました。

アップルの例を引いて、日本もモノづくりに集中すべきだという人がいるそうですが、「モノづくり」については、造るモノのコンセプトをどう創りだすかという問題と、其のコンセプト+品物の、個性とquality をどのよう仕方で普遍化するかと言う、並々ならぬ知的・美的・技術的に最高度の総合戦略がなければなりませんが、こちらの方は、これまで日本が得意としなかった分野です。

アップルの場合、ジョナサン・アイヴの造形的なデザインにはめ込めるように、モノづくりの技術を適合させると言う、逆転の発想で成功してますが、一連のアップル製品と同分野で、同等の機能と製品の質を備えたモノも、アップルの「イメージ」には、対抗できない、アップルのパソコン市場シェアは小さくとも、高価格で売れ続けると言う独特の地歩を築きました。パソコン界のマセラッティだと、ジョブズが言っていたように記憶しています。(iPod は市場を制覇したようですが)。

しかし、それは、日本の製造業全体に向けて推奨できるビジネスモデルでしょうか?生産量の少ない製品を、高価格で売るビジネス?


ニンテンドーやその他のメーカーで実現できている例はあっても、そうは多くなく、米国について言っても、アップルのような成功例は稀であると見るのが妥当かもしれないとよく考えています。コンセプトメーカーで中心の柱を作り、生産を人件費の安いところに任せ、最終製品とマーケティングとブランドつくりにエネルギーを注ぐことで成功している業界は、ファッションかもしれません。これは生産量は少なくありませんが、高価格で売る戦略です。もちろんGAPやZARAあるいはH&Mのような普及価格帯の業態はあり、家具でいえばIKEAが相当します。

一方、分業体制が非常に進んでいる業界に、航空機産業のあり方があるかもしれません。しかし、航空機はほぼ一品ものの特殊生産に近く、やはり一般消費者市場の製品について言及していかないと実態が見えてきません。因みに、マセラッティはフェラーリと並んでフィアットグループの一員ですから、その特殊性は否定しがたいといえます。

其れよりもまず、日本製のカメラなど、一般ユーザー向け工業製品のマニュアル、ユーザーガイドを、使用者側の視点から考え直し、書き直す努力をしてほしいところです。自分では、花や、風景や、子供の運動会の写真など、絶対に撮らない(そんな時間もない)開発エンジニアが書いたとしか思えないマニュアルは困ります。マーケティングの障害物です。

アップル製品の使用者に共通なのは、マニュアルを読まない事です。其の必要がないほど,ユーザーが直感的に理解し使えるような、ユーザーインターフェースの創り込みがあるからです。

日本の製造業の開発エンジニアと、ユーザーの心理の間には、コンセプトづくりの段階で、すでに大きな溝があるようです。其れをエレガントに超えていく包括的な視野が欠けているらしい事例が多すぎると思うのです。


おっしゃるとおり、残念ながらマニュアルの成功例というのは、実際のところ、あまりないのではないかと思います。バラエティに富むユーザーの要望に応えるためにCD版やオンライン版があっても、PCのソフト以外では利用されないことが多く、ハード製品に対しては紙のマニュアルに圧倒的に期待値が高いのです。その場合、ユーザーと利用コンテクストを一般化しますから、どうしても「適切感」に不満が残ります。しかし、そういった実情を超えて、使い方を含めた製品コンセプトの上手く伝えるには、最低限、ユーザーが日本人といえども、西洋文脈における分析的なコンセプトのあり方が必要とされると思います。そして、開発においては、「一人で製品像をつくる」という試みがもっとあってもいいかもしれません。その先の実践「水平分業」は日本が得意とするチームワークのなかで、新たな形を獲得するのが進むべき道でしょう。



2009年4月12日日曜日

日本のものづくりの水平展開は可能か?

ぼくは最近の日本の教育を知りませんが、仮に以下で八幡さんが書いているドイツ的教育が日本で行われているとしても、それはずいぶんと内容の違うものであろうと思います。


廣瀬さんの言われるところは、もう小学校教育のころから、日本と、多分ヨーロッパ一般とで、ものの見方・考え方が違ってこざるを得ないような仕組みになってしまっていることから、よく理解できます。

日本では、国語の時間に、絵画作品を生徒に見せて、「眼で見たものを、それを見ていない人が想像できるように言葉で表現しなさい」などという教育は行われていませんが、ドイツの場合、視覚の印象を言語で表現する訓練がどの学年でも行われてましたね

中学上級くらいの学年では、ピカソの、何を描いているのか一目では判らないような作品を、言葉で再現しなさいなんて、要求されてました。これはギュムなジウム(リセ)での話です。しかし、小学校一年生でも、具象的な絵に表されている事象を言葉で表現させたり、あるいは何枚かのスライドを見せて、そこから、ストーリーを考えさせるという事をドイツ語(日本で言えば国語)の時間にやってました。
逆に、高校レベルの美術の時間には、ハンス・ゼードルマイアーの、たしか、「芸術の美と真実」という、美学・芸術哲学の範疇に入るテキストを教材にして、美術担当の教師が授業を行っていました。

つまり、造型作品を見て、「いいですね」、「キレイですね」というだけでは、自分は何も把握できていない事を表明すると言う、実は無意味な(ナンセンス)な事を口にしているのだということを、教えられていないのではないでしょうか? 作品から何かをつかめたら、それは当然言葉になるはずだとヨーロッパ人は確信してますが。

そうなんですね。ここの段階で言葉を発する動機と量の違いが出てきます。だから言葉で発しないのは、何も考えていない証拠であると受け止められてしまうわけです。

教師の教育、あるいは教養にそういう事が要求されていない。さらには、国語・国文、美術・音楽などの、所詮は教育行政上の区別でしかない区分が、文化現象そのものを確然と区別し隔離する壁みたいになってしまっていると言う、それが社会常識にもなってしまっているという事なのかも知れません。

特定の専門領域内で考えたり、活動したり、議論したりせずに、超域的な言動をすると変わり者、はみだし者扱いされるという事も、上記のような、事情と関わっているのようです。

以前、「さまざまなデザイン」でも黒沢明のハリウッドの体験をどうして文化論として生かさないのか、『日本語が亡びるとき』の小説論をどうして文化の見方に援用しないのかということを書きました。これが一人で全体を語ることを阻んでいる土壌であるといえるでしょう。

「コンセプト」という表現を使えば、日本では、多くの高い教育のある人々も、まさに、造形作品などの「コンセプト」を意識的にとらえる訓練を受けていないまま育ってきているのだと思います。

もっと言えば、ヨーロッパでは、17世紀以来の理性主義的な思考と判断の伝統が、今に至るまで生きていますが、日本では、徳川時代の、十分に理性主義的に成熟していた儒学(荻生徂徠,新井白石など....)の、論理的で分析的な哲学の伝統を、明治時代に学校教育から捨て去ってしまった事が、大きな精神史的な欠損として残ってしまっているという事です。

自然科学の場合には、数学という論旨的思考の道具がありますので事情は違うようですが、もっと具体的な事象を相手にするエンジニアリングなどでは、この欠損を埋める事に完全に成功してはいないように見受けられます。ましてや社会科学などと言われている分野では言うに及びません..........


よって、現実的方策として何をすれば良いのかがおのずと見えてきます。昨日も日本の某経済誌サイトを読んでいたら、有名な経済学者が、日本はものづくりが得意だからこれを生かせばよいというが、今の大メーカーのような包括的な形ではなく、アップルのようにコンセプトを核に水平展開にするべきだと説いていました。ぼくは、それもそうだが、2-3年でビジネスの形態を変えれば良いという話ではなく、こういう根本のところに、それが容易にできない理由を彼は読んでいるのだろうか・・・と思案するのでした。


日本文化はゴシックだ




デザイナーの伊藤節さんやコンテンポラリーアーティストの廣瀬智央さんの作品への見る人の反応の違いからはじまった、西欧的文脈でのコンセプトが日本にはないという話題をまだ続けます。これは『日本語が亡びるとき』の以下で小説について書かれている内容とも対応します

日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼ばれるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がちりばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。それらの文章は、時を隔てても、私たち日本語を読めるものの心を打つ。

しかも、そういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。


昨日、仕事を終えた後のブリュッセル空港でビールを飲みながら、この話題をアイルランド人の友人と随分長い間話しました。彼は日本文化にとても興味が強く、何度も日本に滞在していますが、彼が、こういう比喩を用いました。

「現在のヨーロッパ文化をシンボリックに表現しているのは、ネオクラシックだと思う。そうした西洋文脈に日本文化をおいた場合、一番近いのはゴシックだろう」


日本文化では美や深い意味は必ずしも言語化されず、かなりサブリミナルな層に隠されています。日本でいう「深い世界」と西洋でいう「深い世界」は違い、当然、それは「表層的」という表現が指す内容も違ってくるということを語り合っていたとき、彼が「日本がゴシックだ」ということを言ったのです。ぼくは、こういう対比を他の人が語っているのかどうか知りませんが、ルネサンス以前の精神世界が、日本の文化(特に近世以前)に対応すると考えたことはなかったので、かなり刺激的な指摘でした。

ぼくが、こういう文化差異に拘っているのは、他でもないプラットフォーム論(手のひらをつくる)に直接関わってくる内容だからです。仮に感性面で如何にリードが見られたとしても、それをあるストラクチャーに仕上げる、それもある普遍性を求めたものとするとき、ヨーロッパ的なコンセプトと手を結ぶのが今のところ現実的であると考えるのです。

2009年4月9日木曜日

日本人はコンセプトそのものの存在を無視する?






「デザイナーが読む社会を知る」で、デザイナー伊藤節さんのエピソードを以下紹介しました

「ぼくもイタリアで20年近くやっているから、日本の人から、『伊藤はイタリアかぶれ』という批評のされることがあるんですね。確かに造形はイタリア的か もしれないけど、コンセプトはそうとうに日本的だと思っています」 ぼくが、その割合は7-3くらいですか?と質問すると、「いや、イタリアと日本のポー ションは5-5でしょうね。そして、イタリア人は、ぼくのコンセプトにある日本的エッセンスを的確に嗅ぎ取ってくれることが多いのです」と語るのを聞き、ぼくは昨年「ミラノサローネ2008」で書いたことを思い出します

この部分について、コンテンポラリーアーティストの廣瀬智央さんと交信しました。昨年、「さまざまなデザイン」でコンセプトの伝え方の一例として、彼の作品を解説しました。如何に言語化した説明が必要かを書きました。先週、ローマで開催した展覧会の反応をベースに、下記メールを受け取りました。

今回の展示は,規模としては日本で展示した1/5程度で、あえて内容的には似たような感じにしたのですが、なんか観客の見ている所が、日本とイタリアでは違うという面白さを改めて体験することができました。その違いとは、まずリアクションの違いや鑑賞者の視点の違いということでした。

上記の「日本で展示した」というのは、昨年末、東京の小山登美夫ギャラリーで開催した個展です。

反応がダイレクトであるうえに、質問や感想がすごく核心をついてきます。つまり、こちらの表現しようとすることへの反応があり、鑑賞者とキャッチボールができるということです。日本でも見にきてくれた人の評判はよかったものの、展覧会終了後のリアクションがあまりないという点やアートを専門とする数人の方たちの感想をのぞいて、受けた質問や感想が非常に表面的でした。こちらでは、すでに2ー3のレビューの取材がありました。日本の文化や展覧会を支える層の薄さ、批評空間の空洞化という点もあるのかもしれませんが、どちらにしても鑑賞者の反応するところが違うというのが面白いです。

音楽家の間でも似たような違いが指摘されます。ヨーロッパ人が東京で公演をしても、観衆が喜んでいるのか不満なのかちっとも分からない、というものです。だから日本で舞台にのぼっても張りがないというのです。

その違いはどこから生まれてくるのか?

多分、アートを読み解くという鑑賞者の慣れもあるかと思いますが、やはり美術にたいする共通の土台が多少あるという点、言い換えると教養があるといって良いかもしれません。美術的な素養がないとしても、自分なりの感じた意見をダイレクトに伝える能力の圧倒的な差を感じました。イタリアでは、僕が表現しようとするリアリティーを共有できる人が多いという点も大きいのかもしれません。

反対にナショナリズムが進む日本では、僕が表現している内容があまりアリティーがないのかもしれません。ともかくイタリアと日本では、観客の観るところがが違うのです。これは本当に面白いですね。安西さんのおっしゃるとおり、日本人はコンセプトという存在そのものを求めていないか、そこに関心ないのかも知れません。

廣瀬さんの作品は異文化経験がベースにあり、その浮遊性やそこにある遊びを表現しています。したがって、そのリアリティが日本では伝わりにくいのではないかと推測しているのです。彼の作品に対するぼくなりの解説は、昨年、「さまざまなデザイン」に書きました。以下です。参考にご覧ください。

http://milano.metrocs.jp/archives/130
http://milano.metrocs.jp/archives/131
http://milano.metrocs.jp/archives/132
http://milano.metrocs.jp/archives/133

廣瀬さんはこう語ります。

「アングロサクソン系の批評家は美術史における位置づけに対しても敏感で分析的な見方をするんですね。それに対して、ラテン系、まあイタリアの批評家なんかはもっと文学的というか、もう少し直観的なんです。でも、日本の直感とは違うなぁって思うんですよ」「例えば、東京では、ぼくの作品で使っている豆について、『ああ、おもしろいですねぇ』で終わってしまうんですね。イタリアの人みたいに、この豆の歴史や意味するところについて好奇心を燃やしてこないんですよ」


最後に。ぼくが廣瀬さんにコンセプトについて投げかけたメールは下記です。

日本人はコンセプトという存在そのものを求めていないことがあるのではないか、という気がします。「作家は何を言いたいのだろう」という思い方はしますが、「作家がいう何」をコンセプトという概念体系に置き換えること自身を拒否している(それは、そういうコンセプトということ自身に無知であるから)ともいえます。

冒頭の写真は廣瀬さんの作品です。

Installation view at Galleria Maria Grazia Del Prete, Roma, 2009.
Courtesy by Galleria Maria Grazia Del Prete. (c) satoshi hirose




デザイナーが読む社会を知る




1-2年前、ダブリンでアイルランド人の工業デザイナーと雑談しているとき、「最近、大企業から社会トレンドを聞かれたりすることが多くなってね。これはデザイナーの役割が変わってきたのかな」と彼が言うから、「それは職能というより、君の能力が買われているってことでしょ」とコメントしたことがあります。しかし、これが何となくひっかかっていました。いろいろなブログを読んでいても、デザイナーの発言というのが目につくような気がするのです。経済や政治ではなく社会を語るにあたって、デザイナーに期待されることが多くなっているのでしょうか。

インハウスデザイナーか独立デザイナーかということでいえば、やはり後者の発言が世の中に出やすいことは確かです。工業デザイナーはユーザーの目をもちながら、メーカーの経営的視点をも共有しないといけないので、職業的立場として比較的に「社会的に考えもの言う」役を負いやすい。そして何よりも、その解決策を具体的にモノなど視覚化した表現をする。そこにおいては、「ある商品の部分的専門家」ということはありえない。ぼくがよく書いている「文化を一人で分かる」ことが必須とされるのです。

一方、企業もデザインを意匠的なレベルだけのスモールデザインでなく、社会的ブランド価値をも包括したビッグデザインとして見ることが多い。そういう文脈で、デザイナーが社会的トレンドを語ることを期待されることが多くなっていると思います。大学のデザイン課程をみても、非常に広範囲の素養を求めています。しかし、それは今に始まったことではなく、1950年代後半に開校された、バウハウスの伝統を継いだウルム造形大学のカリキュラムなども、「全人格」様相がありました。そうしたことが一時期専門家重視の流れで日の目を見なくなっていたのが、ある時期から復活してきたといえるでしょう。

さて先週、ミラノで活躍する建築家/工業デザイナーである伊藤節さんと放談をしたのですが、伊藤さんは、歴史や文化人類学などにも関心が強く、目線のしっかりした人です。その放談の内容を「さまざなデザイン」にまとめたのが以下です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1159

http://milano.metrocs.jp/archives/1168

http://milano.metrocs.jp/archives/1179

http://milano.metrocs.jp/archives/1191

今のような変化の兆しがあらゆるところに隠れているとき、それが目に見えるまで待っていては遅すぎるでしょう。隠れていると思われるのは、あるアングルから見えないのであって、別のアングルから見れば可視化できるのではないかと思います。そういう意味でもアングルを複数もたないといけないし、それがあれば袋小路と見える場所もそうでなかったりする。そういうことだと思います。


2009年4月1日水曜日

点を面にするタイミング

日経ビジネスオンラインで以下の記事を読みました。二つは前編・中編になっていて、経済産業省商務情報政策局メディア・コンテンツ課・村上敬亮氏へのインタビューです。気になった文章だけ抜粋します。

「『売れているアーティストの国』という存在感」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20090323/189733/

国際競争力として技術や品質に加えて、「壊れていいからイタリア車に乗りたい」とか「やっぱりブリティッシュでしょ」といった価値を、日本もつくっていかないとだめだろうと思っているんです。 国家戦略として、国が生き残っていくには、技術力、文化力、金融力の3つが必要だと感じています。ソフトパワーというのは、その3つの中のひとつの文化力のことです。

システム側にいる人間は潤うけど、本当にモノをつくっている人のところにお金がまわらない構造になっている。

そうです。それが、きっと、さっきの「文化力」にもつながることだと思うんです。そこを変えてやれば、多様性や個性も、もっと前に出るでしょうし、そこがリードする国家モデルだってつくれると思うんです。ですから、国としても支援したいわけです。

「壊れてもいいからイタ車」という表現は比喩としていいと思います。イタリア車がこれで良いわけではなく、「もう一つの価値観」が捨てがたくあることを強調しています。「壊れてもいい日本車」という評判が獲得するには、品質を下げるかもしれないリスクを許容する価値観を作っていかないといけません。それは以前話題にした「正解主義との訣別」と言えるかもしれません

とにかく「文化力」と技術力と金融力と並んだ重要な国力としているのは、プロジェクト・ヨーロッパ文化部の方向を考えるに参考になります。そして、クリエーターが、ピラミッド構造の底辺になるのではなく、マーケットと対峙しながら、お金の流通の現場に近づくストラクチャーの改変の必要性を語っています。これは、タメグチ的フラット志向と近接する方向です。これらの点で、この内容はよいと思いました。さて、以下が中編です。

「産業再生機構的発想でコンテンツ開発するものアリでしょう」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20090330/190480/

日本のコンテンツをそのまま持っていって成功する可能性があるのは、どちらかというとアジアマーケットで、強いて言うとヨーロッパはその真ん中、やっぱり出し物を変えないとワールドワイドは厳しい、という現実があります。

そうすると、日本国内で売れるということと、世界展開とを、ある種複眼的にとらえて、先ほどのように勧善懲悪型だったり、ある程度シンプルにするとか、そういう作業が場合によっては必要になるかもしれない。

そうかもしれません。そういうプロデューサーが必要ということでしょうね。それには、やはり、経験が必要なんじゃないですかね。

ローカライゼーションの必要性と、それが地域によっていくつかのレベルに分かれるだろうという指摘です。そこには、経験豊かなプロデューサーがいないといけないという認識は的確でしょう。ある程度の地図を描ける人に任すシステムが必要だと思います。

20代向けファッションというコンセプトで商売が成立する日本は、海外での競争相手は少ないわけですから、勝算があるのではないかと。

そういうファッションに関する動きは、さきほどの「東京ガールズコレクション」だったり、いくつか「点」としては確かに発生しています。

それを、「面」でつなげたいですよね。

>ファッションに限らないですが、さまざまな点の活動を、面でつなげるために、どういう施策が考えられるでしょうか?

ひとつには、海外展開ファンドをやりたいです。やり方としては、よく聞こえるか、ネガに聞こえるか、わかりませんが、「産業再生機構」型のやり方。つまり、国はお金を出すけど、プレーヤーは全部民間のプロの人、というスキームです。

コンテンツの海外展開や、ネットワーク展開というのは、そもそも、できる人そのものが少ないので、知恵を結集してやらなきゃだめだろうと。それがマーケットになる見通しが立ってきたら、その先は、ファンドを解散して各社でどうぞ自由にやってください、という形です。

そういうビジネスネットワークづくりと、海外展開ファンドの、いわば「実弾」みたいなものと、国内での広告主展開含めての普及啓蒙活動と、そうした組み合わせで新しい海外展開モデルを考えたいなと。

ここの仕分けは、かなりデリケートです。クリエイターと予算の問題は、英国の文化オリンピック(下記)でも話題になっていますが、しかし、点が個々に育つのをただ待っているだけでは遅すぎると思います。何らかのファンドが積極的に動き、評価や信用の体系を構築していく第三者の助けが欲しいところです。

http://www.guardian.co.uk/uk/2009/mar/20/olympics-cultural-olympiad

問題は、点を面とする上記の実施タイミングだと思います。早すぎずに遅すぎずのシナリオをどう描けるか、ということだと考えます。そして、プロジェクト・ヨーロッパ文化部の立場からすれば、この面をどう作るかという時に役立つ存在でありたいと思案しています。