2009年4月9日木曜日

デザイナーが読む社会を知る




1-2年前、ダブリンでアイルランド人の工業デザイナーと雑談しているとき、「最近、大企業から社会トレンドを聞かれたりすることが多くなってね。これはデザイナーの役割が変わってきたのかな」と彼が言うから、「それは職能というより、君の能力が買われているってことでしょ」とコメントしたことがあります。しかし、これが何となくひっかかっていました。いろいろなブログを読んでいても、デザイナーの発言というのが目につくような気がするのです。経済や政治ではなく社会を語るにあたって、デザイナーに期待されることが多くなっているのでしょうか。

インハウスデザイナーか独立デザイナーかということでいえば、やはり後者の発言が世の中に出やすいことは確かです。工業デザイナーはユーザーの目をもちながら、メーカーの経営的視点をも共有しないといけないので、職業的立場として比較的に「社会的に考えもの言う」役を負いやすい。そして何よりも、その解決策を具体的にモノなど視覚化した表現をする。そこにおいては、「ある商品の部分的専門家」ということはありえない。ぼくがよく書いている「文化を一人で分かる」ことが必須とされるのです。

一方、企業もデザインを意匠的なレベルだけのスモールデザインでなく、社会的ブランド価値をも包括したビッグデザインとして見ることが多い。そういう文脈で、デザイナーが社会的トレンドを語ることを期待されることが多くなっていると思います。大学のデザイン課程をみても、非常に広範囲の素養を求めています。しかし、それは今に始まったことではなく、1950年代後半に開校された、バウハウスの伝統を継いだウルム造形大学のカリキュラムなども、「全人格」様相がありました。そうしたことが一時期専門家重視の流れで日の目を見なくなっていたのが、ある時期から復活してきたといえるでしょう。

さて先週、ミラノで活躍する建築家/工業デザイナーである伊藤節さんと放談をしたのですが、伊藤さんは、歴史や文化人類学などにも関心が強く、目線のしっかりした人です。その放談の内容を「さまざなデザイン」にまとめたのが以下です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1159

http://milano.metrocs.jp/archives/1168

http://milano.metrocs.jp/archives/1179

http://milano.metrocs.jp/archives/1191

今のような変化の兆しがあらゆるところに隠れているとき、それが目に見えるまで待っていては遅すぎるでしょう。隠れていると思われるのは、あるアングルから見えないのであって、別のアングルから見れば可視化できるのではないかと思います。そういう意味でもアングルを複数もたないといけないし、それがあれば袋小路と見える場所もそうでなかったりする。そういうことだと思います。


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