2009年4月25日土曜日

ミラノデザインウィークにみるヨーロッパ文化動向




今週はミラノのデザインウィークで、毎日色々な展覧会でデザインを眺めながら、ヨーロッパ文化動向を考えています。イタリアの家具500年展をみて、歴史の使い方が明らかに変化してきているところに気づき、西欧的価値の新たは見直し作業を「次の何かを作るため」にスタートしていることが確認できました。「さまざまなデザイン」に以下、書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1502

一方、日本の素材産業は良いのですが、完成品メーカーが示す世界像が相変わらずヨーロッパ人に分かるようになっていない、その問題点についても考えました。レクサスの展覧会をみて、ぼくはかなり考えた結果、これは展覧会のキュレーターの問題ではなく、レクサスのデザインコンセプト自身の問題であると思いました。日本の独自性に拘るあまり、本来、日本文化にある「合理性」を西洋的であると勘違いして排除し、洗練さを極めるという相対的な世界に入り込み、立体的な世界像を構築することを結果的に拒否する羽目になっています。以下が、その文章です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1513

プラットフォーム構築(手のひらをつくる)ことを目標に、何がユニバーサルか?何がローカルか?というテーマを追い続けていますが、このデザインウィークを過ごしながら、ある定義を仮にですが得ました。とてもシンプルにいえば「ユニバーサルとは言葉で表現し、相手が理解できることである。それ以外をローカルとする」という考え方です。八幡さんが「クラシック音楽とプラットフォーム」で書いていただいた、以下がコアになると思います。

ルネサンス以後のヨーロッパでは『万人の万人に対する戦争』状態にあったので、数学的論理のみが、対立を超えて(普遍的に)認識されえる唯一の言語表現の基軸であったはずです。

レクサスのデザインコンセプトは、言葉で表現し得ない部分を土台として使おうとしています。これは反対であるべきで、とりあえずローカルなレイヤーにのせるのが良いと思うのです。よく「人は皆人類同じ。言葉がなくても、心で通じ合える」と言いますが、そういうことをローカル層に入れるのです。お互い分かり合えることもあるかもしれませんが、分かりえないこともある、不可視の部分です。ですから、とりえあえずユニバーサルレイヤーには含めない。もちろん、ユニバーサルレイヤーとローカルレイヤーの間での相互作用はありますから、何も全てを言葉で表現できることだけで製品アイデアができるわけではありません。少なくても、レクサスで言う「妙」や「予」は、ユニバーサルに入れないという覚悟が必要です。

レクサスのデザインコンセプトの説明で、ニースにあるデザインセンターでの経験をベースに、「日本の独創性に拘った」とあります。日本の歴史を顧みたときに、「合理性」という考え方がなかったわけではないのに、「合理性は西欧的」という先入観で、それを必要以上に排除しようとしたところに悲劇(ヨーロッパでレクサスが売れない)があるのではないかと考えます。

「綺麗だね」「いいね」という第一印象やインスピレーションを否定するわけではありません。コンセプトの構築の方法を語っているのです。それをコンセプトの土台にもってくるのは、ヨーロッパで売れる(完成)製品作りとはならない、ということです。





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