デザイナーの伊藤節さんやコンテンポラリーアーティストの廣瀬智央さんの作品への見る人の反応の違いからはじまった、西欧的文脈でのコンセプトが日本にはないという話題をまだ続けます。これは『日本語が亡びるとき』の以下で小説について書かれている内容とも対応します。
日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼ばれるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がちりばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。それらの文章は、時を隔てても、私たち日本語を読めるものの心を打つ。
しかも、そういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。
昨日、仕事を終えた後のブリュッセル空港でビールを飲みながら、この話題をアイルランド人の友人と随分長い間話しました。彼は日本文化にとても興味が強く、何度も日本に滞在していますが、彼が、こういう比喩を用いました。
「現在のヨーロッパ文化をシンボリックに表現しているのは、ネオクラシックだと思う。そうした西洋文脈に日本文化をおいた場合、一番近いのはゴシックだろう」
日本文化では美や深い意味は必ずしも言語化されず、かなりサブリミナルな層に隠されています。日本でいう「深い世界」と西洋でいう「深い世界」は違い、当然、それは「表層的」という表現が指す内容も違ってくるということを語り合っていたとき、彼が「日本がゴシックだ」ということを言ったのです。ぼくは、こういう対比を他の人が語っているのかどうか知りませんが、ルネサンス以前の精神世界が、日本の文化(特に近世以前)に対応すると考えたことはなかったので、かなり刺激的な指摘でした。
ぼくが、こういう文化差異に拘っているのは、他でもないプラットフォーム論(手のひらをつくる)に直接関わってくる内容だからです。仮に感性面で如何にリードが見られたとしても、それをあるストラクチャーに仕上げる、それもある普遍性を求めたものとするとき、ヨーロッパ的なコンセプトと手を結ぶのが今のところ現実的であると考えるのです。
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