2010年5月23日日曜日

異文化体験の切り口

雨が続いたミラノの天気も、今週になって晴天続きの5月らしい陽気だ。ほんとうは、今ごろ日本に向っているつもりだったが、ちょっと後ろにずらさないといけないかもしれない。ローカリゼーションマップ研究会をはやく軌道にのせないといけないが、3日前からアマゾンではじめた七味オイル+オリーブのオンライン販売はしばらくオンラインに張りつかないと「現場感」を得られないような気がする。なかなかスケジュール調整が難しい。

ローカリゼーションというタイトルで書いたわけではないが、最近、”se vuoi(if you want)”は日本語の「すみません」と同じようなもので、文脈重視のフレーズとブログに書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/3322


アラブ社会やヨーロッパの他の国で生活している人たちからも同感との反応があった。常に相手の意思を重んじるのが礼儀であると頭で理解することと、それがメンタルな部分にまで染み付く、その言葉の第一義ではなく文脈にのりきってしまう。この両者にある溝はものすごく深い。このブログで紹介しているように、単にその文化圏で生まれ育ったかという問題だけでなく、自分の文化に対する距離感・同意の程度も影響する話だ。特に、ここで例を挙げた友人は、いくつかの国での生活経験があるから、なおさら自分の文化に対して客観的だ。

この例が示唆するのは、異文化に接しないと母国の文化がカタチとして見えてこないということでもある。カタチとは二次元ではなく三次元のカタチであり、これがストラクチャーとして見えるようになるには、違った文化のなかで生活してみることだ。頭で分かるけど、どうしても乗り切れない部分にぶちあたり、自分の生きてきた文化がいかに根強く自分のなかにあるかを意識することになる。そのうえで嫌な面も気になる。それが上記の友人だ。

佐藤淑子『イギリスのいい子 日本のいい子』のレビューを書いたが、これも別の点で「どうしても乗り切れない」部分。この著者が英国の教育を語る背後にある堅苦しさが気になってしかたがなかった。ぼくはイタリアに住み始める前はラテン気質と言われるものが嫌いだった。しかし、それは後で分かったのだが、「・・・と言われる」もののネガティブな面は今も嫌いだが、そのポジティブな面がいかにリーズナブルなものであるかを理解し、ラテン文化が好きというより納得がいくものになった。

http://milano.metrocs.jp/archives/3342

http://milano.metrocs.jp/archives/3355

2010年5月14日金曜日

ローカリゼーションワールドを考える

来月7-9日、ベルリンでローカリゼーションワールドというイベントが開催される。展示と会議の両方。ソフトウェアの意見が強そうだが、サービス産業を中心に幅広くローカリゼーションを扱っている印象を受ける。

http://www.localizationworld.com/

このサイトの中にスピーカーのプロフィールが掲載されている。100人以上のそれを読んでみたが、主流は明らかに言葉の専門家だ。通訳や翻訳がバックグランドの人。マーケティングもいるが、プロダクトのプランニングに直接関わっていそうな人は思いのほか少ない。

http://www.localizationworld.com/lwber2010/speakers.php

つまり、前工程ではなく後工程に従事する人が多いのでは? 通常、マーケットやユーザーにより近いのは後工程だが、ローカリゼーションは製品のコンセプト構築の段階からタッチしている人間が関与すべきという考え方がどれほどに浸透しているのだろうか?という疑問が残る。

ヨーロッパ人が多そうなのは、この開催地がベルリンだからだろうか。それだけでなく、EUの多言語主義もあり、ヨーロッパにはローカリゼーション産業が発達しやすい条件があるからと考えるべきか。やはり、イメージや形状の差異ではなく、まずは言葉の差異が何よりもバリアになる。ここは最低要求ライン。

そして、言葉による表現はロジックそのものと密接な関係をもつ。昨日、ぼくはイタリア語のse vuoi(if you want) を食事などの誘いではなく、自分の依頼を人に受けてもらう時に使うことへの違和感を払拭できないと、「イタリア文化が分からない」というタイトルのブログを書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/3322

日本語の「すみません」が本来の謝る意味を離れて潤滑油的な機能を果たしているのと同じく、se vuoiも丁寧な依頼表現であったのが、依頼側の立場を守る方便に変わり、そしていつの間にか、方便であること自身をも意識しなくなったのではないか・・・とあれこれ想像してみた。かように、ロジックは不可視で頑固なものだ。理解しづらい。ソフトウェアのロジックのローカリゼーションが、色やアイコンのローカリゼーションより(コンセプト構想上)優先されるべきというのは、こういう認識に基づいている。

が、だから言語表現が全ての収斂の場所であると考えると、これも道を誤る。言葉で全て表現しきれない世界に人は生きているという意味もあるが、言葉の専門家は言葉の専門家であるだけで、その他を見切れているわけではないということもある。ある言葉の表現の差異を理解し説明できることが、必ずしも文脈全体の差異を理解し説明できるとは限らない。いわんやアイコンなどの視覚表現への理解度はまた別の経験や能力を要する。

こういう観点から、ぼくはローカリゼーションマップ研究会の趣旨を考えているわけだが、ローカリゼーションワールドのスピーカーのプロフィールではファッション関係が一人だけ。食品や日用品の専門家が少なそうなのは、ローカリゼーションという分野あるいは産業が、日本に限らずこれからのものであることを示唆しているといえそうだ。あるいは、デザイナーなどの参加がもっとあっていいように思う。

上述したヨーロッパはローカリゼーション産業が発達しやすいという部分だが、これはヨーロッパ内でローカリゼーションのバリアが比較的はっきり見えていて、そのバリアが困難を極めるほどではなかったー各国文化の近似性ーという理由が考えられないだろうか。いずれにしても、ローカリゼーション産業の現状を知ることで、ローカリゼーションマップ研究会(Twitter上では #lmap) の行方を考える参考になる。