2009年7月24日金曜日

ブルガリアにとってのヨーグルト


人工物発達学という新しい分野をユーザー工学の黒須正明さんが提唱しています。その内容は「さまざまなデザイン」に書いた以下をご覧ください。民族学、文化人類学、民俗学、歴史学、考古学、工業デザイン、ユーザー工学、認知工学、情報行動学、人間工学、機械工学、システム工学などが関係してきます。

http://milano.metrocs.jp/archives/1831

この研究誌『人工物発達研究』のなかに、総合研究大学院大学比較文化学研究専攻のヨトヴァ・マリアさんの「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」があります。そこに興味深いことが紹介されているので、ここに概要を書いておきます。

ブルガリアの社会主義の時代(1944-1989年)はヨーグルトの家庭内生産から大量生産へシフトした時期で、新しい技術や新しいイメージの形成がなされ、21カ国のヨーロッパやアメリカの企業とライセンス提携がありました。しかし、現在も継続している企業は二つだけで、一つはフィンランドのパリョ乳業、もうひとつが日本の明治乳業です。しかも、ブルガリア発のヨーグルトのイメージも共生しているのは、日本だけです。これがまず一点です。二つ目は、1960年代後半に「明治ブルガリアヨーグルト」が誕生しますが、このまえに外交ルートを通じたヨーグルトの紹介はあったようですが、明治乳業による普及の力が圧倒的に強かったということです。

個人・社会的な個性化において食品はアイデンティティを見出す上で重要な役割を果たすという意味で、フランスのワイン、ブラジルのチーズ、ブルガリアのヨーグルト(ヨーグルトはただのヨーグルトではない)という表現をしており、選挙戦でジャーナリストが政治家に問う質問に「今、ヨーグルトはいくらかご存知ですか?」というのがあるそうで、庶民生活の「物価実感値」となっています。ただ、実際の消費は減少傾向にあり、一方、「ブルガリア人はヨーグルトを良く食べる」という自己イメージは増加しています。

この自己イメージの増大というのは、ヘルシーフードとしてのヨーグルトが現代社会に貢献しているというイメージ形成と、フランスの大手ダノンのブルガリア参入で、逆にブルガリアヨーグルトを相対視することで、自己優位性を確認するに至った結果だといいます。そして、この自己優位性を明確にするために、ヨーグルトという言葉のもつ国際標準的ニュアンスを避け、「おばあちゃん」の自家製ヨーグルトを強調するKiselo Miliako という名称を使うようになりました。しかし、ダノンはまさしくその「おばあちゃん」イメージを使い、更なるマーケティング戦略に成功したというのです。

したがって、ブルガリア人はダノンに対して敵対意識をもつことがままあるのですが、今度は自家製は食品衛生上の問題はないのか?という疑念が自国製品に対して生まれてきたのです。国際標準の食品が古い食品市場を新しく作り直し、そこで古い市場は伝統で戦い、グローバル企業はその伝統イメージを利用。その結果、品質イメージで伝統派は打撃をうけるという羽目に陥ったわけです。

さて、前述したように、日本が唯一といった形でブルガリアヨーグルトのブランド構築に貢献した結果、ブルガリアはそのイメージを逆輸入し、観光資源に利用しはじめます。「2400万人の日本人がブルガリアヨーグルトで一日をはじめる」といった紹介でブルガリア自身をアピールするわけです。もちろんメインターゲットは日本人です。日本人に農家滞在の経験をしてもらうなど、「ヨーグルトの里」を訪ねるというストーリーです。が、これはブルガリアの一部であり、もっと現代的なブリガリアを知って欲しいという願いがブリガリア人には当然あり、在日ブリガリア大使の使命が、ヨーグルト以外のブルガリアを知ってもらうことだということです。

ぼく自身の感想ですが、何かをイメージリーダーに仕立て上げないといけないが、それが強すぎると全体がみえにくくなるというジレンマが、このブルガリアのケースでみえます。また、日本の「一点主義」が、こういう傾向を助長することも指摘しておいて良いでしょう。

2009年7月21日火曜日

弦楽器業界も中国や韓国を選ぶ





昨日、ヨーロッパ企業がアジアの拠点として「日本を選ばない」ひとつの、しかし大きな理由に「漠然とした不安」があることを書きました。日本の多くのビジネスマンは日本が情報流通のなかに入っているから、外とつきあうかどうかは自分の選択でどうにでもなると思っている傾向が見え隠れします。ところが、その情報の渦のなかではなく、案外、渦の周辺に位置していることを認識しないといけないでしょう。「日本には全ての情報がある」のではなく「日本でも一部の情報はとれる」ということです。

先日メッセージをくれたベルリン在住のバイオリン職人・茅根健さんも、ヨーロッパの一流楽器店は韓国や中国に拠点をおく傾向、あるいはアメリカ信奉が強すぎる日本の楽器業界という実情を伝えてくれました。楽器の場合、音楽関係のヨーロッパへの留学生が圧倒的に中国と韓国出身が多いという現況との絡みもあるのではないかとも思うのですが、それは進出地判断の全てではないだろうと想像します。彼自身も、こうした状況に風穴をあけたいと考えはじめたようです。


ブログを読んでの感想です。

実は前から気になっていたのが、アメリカやヨーロッパの一流楽器店がアジアの流通拠点として日本でなく、韓国や中国を選び、そこに職人を駐在させ るということです。安西さんが今回のブログで書いていたことを読んで、このことが再び頭をよぎりました。なぜ日本ではなくて、韓国や中国なのだろう?とい う疑問が。

バブルのころは世界中のディーラーが良い楽器も悪い楽器もこぞって売りに来ましたし、また日本のいわゆる業者(ディーラー)もこぞって買い漁りました。

が、アジアが今後も楽器マーケットの中で軽視できない存在となっている今、彼らは日本でなく韓国や中国を選びます。この辺気になるので、8月のア ムステルダム訪問で少し話を聞いてみようと思います。アムステルダムには世界的に有名なディーラーの一人がいます。彼が今の楽器マーケットをどう感じ、今 後をどう予想するのか興味がありますね。ただ、かなり忙しい人なのでそういった時間をさいてくれるかどうか分かりませんが。トライしてみます。

また、先日アトリエで話した時に出た話題です。楽器業界も一時アメリカがけん引した時期があります。確かに戦後、アメリカにおいて多くの銘器と言 われるものが取引されましたし、そういったことを背景に製作や修理の分野でも革新的な進歩もアメリカを中心に行われました。でも、今良く観察してみると、 アメリカはそのころと今も変わっていないということです。つまり、まるで時間が止まってしまったように動きがないというのです。また非常に閉鎖的とでも言 いましょうか、いまだにアメリカが世界中の楽器業界をけん引していると誤解している人が多いということ。日本の業者さんもいまだにアメリカ信奉的なところ がなくもないです。まだまだヨーロッパのディーラーと対等に付き合いが出来ているかたは非常に少ないと個人的には思っています。自分はそういったところに 少しでも風穴が開けられればと、考え始めました。

それでは。

2009年7月20日月曜日

ヨーロッパ企業の対日消極性




ヨーロッパ企業が日本進出にあまり積極的ではないことは、今に始まったことではなく、随分以前から気になっていますが、昨日、その消極性が「漠然とした不安」に基づいていることをあらためて確認し、どうしたものだろうかと思っています。その昨日のエピソードは「さまざまなデザイン」(下記)に書きました。

http://milano.metrocs.jp/archives/1820

あれがなくなったらいい、これがなくなったらいいということではなく、何らかの具体的な情報より、多くの間接的に耳にして目にする情報というのが如何に影響力があるか。ブランド構築の反証のような話です。中国のことも、否定的なニュースや経験を沢山しているのに、まだ「その気になる」確率が圧倒的に高い。

人は全ての情報を1から10まで揃えられるわけではないので、どこか不透明な部分で「前進か、停止か、後退か」を判断していかないといけませんが、日本へのアクセスに思い至る決定的な部分で何かが日本側に欠如しているとしかいい得ないとするか、それに至るためのヨーロッパ側の文化的特性がどこかで邪魔をするのか、かなり漠然としたテーマですが、もう一度深く考えないといけないなと思い始めました。

「日本文化部」を作るということではなく、「ヨーロッパ文化部」のコンセプトとしてもっと織り込むべき内容なのでしょう。

2009年7月19日日曜日

幹部の採用条件と料理のこと

八幡さんから、イタリアの医療関係者の海外志向に関する記事についてメッセージをいただきました。


医療関係のリクルート会社というのもあるのですか!面白いですね。

イタリア人に限らず、ドイツ人も、そして多分ヨーロッパ人は一般に、

>「生まれた国が気に入らなければ脱出する」

傾向があるようです。「祖先」というイメージが、日本人ほど国土と密着していないからかもしれません。さらに、仏教でも神道でも、日本人の祖先は「礼拝」の対象であり、神格化されますが、ヨーロッパ(キリスト教)ではそうではないので、土地を離れ、国を離れることにも、それほど高い壁を感じないのかもしれません。

日本のヨーロッパ駐在員(新聞社、製造業)の資質についてお話しあったことがありますが、同じような観察を、Ka Ryu さんと言う、名古屋大学大学院をでて、富士通総研の主席研究員をしている人が、中国の日本企業とその駐在員について書いています。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1280


お読みになったかもしれませんが、この当たりが、セミナーのテーマになりそうだと思いました。


ヨーロッパは各地でひどい悪天候であったようですね。

お元気でお過ごし下さい。


そういえば、会社買収と再生で有名な、日本のある会社の創業者は、早食いの人間を積極的に採用してきたというエピソードを思い出しました。彼の父親が、軍隊でよく動く人間は早食いという法則を教えてくれたそうです。それにしたがった結果、「上手くいった」とインタビューに答えていましたが、すくなくても海外進出企業については、料理に敏感な人間の方がよいとぼくも思います。


今年のミラノの夏はどうも風が多く、これは北の方面が悪天候で南の方が猛暑という全体図と関係があるのかなと思っています。


2009年7月17日金曜日

イタリア医療関係者の海外志向

先日、フィンランドに外国人の医者が増えているという記事を書きましたが、イタリアのボローニャで実施された医療関係者の海外就職のための面接に3日間で約400人が集まったというニュースが目に入りました。

http://www.corriere.it/cronache/09_luglio_16/medici_bologna_e8bbb4b8-7250-11de-87a4-00144f02aabc.shtml

医者、看護師、助産婦などですが、ここでいう海外とは英国などのEU内(先日の記事には、英国の医者不足が報じられていました)だけでなく、中東や北米など様々です。イタリア各地から集まってきていますが、若干、中部以南が多いかなという印象はあります。また、正確にいえばイタリア人だけでなく、イタリアで働いている外国人で「イタリアの外でチャンスを見つけたい」という人もいます。動機は給与だけでなく、職業上の経験を積み上げたいなどさまざまですが、やはり経済的理由がトップにありそうです。

この面接は、医療業界のリクルート会社が主催していますが、16年の歴史で約1600人を海外に送りだしてきたようで、彼らがイタリアに戻ってくることは少ないとのことです。一方、この記事に多くの読者からのコメントがつけられており、イタリアの専門職に対する冷遇や頭脳流出を嘆く声が多いです。

イタリアには「生まれた国が気に入らなければ脱出する」ということが(仕方がないにせよ)伝統的にあり、それが長い目で見たとき、イタリアを助けるいう構図があります。

2009年7月16日木曜日

ヨーロッパのプロフェッショナル

茅根さんのメール及びEUと韓国のFTA交渉に対する八幡さんのコメントです。

茅根さんの書き込みを読みましたが、ある資格を国境を越えて認めあうというヨーロッパの、EU成立以前からあった、プロフェッショナルな社会の慣習・通念のようなものが共通に体験されていますね。この辺が、国籍とか母国語とか、個人が取得した能力・資格以外の、個人の努力では越え難い壁を先ず前面に押し出してくる日本との違いが見えています。

国境を越えての人々の移動でも、そう言っては何ですが、単純労働と技能等の有資格者を等しく扱いたい(外人労働者)国とは違うのだということを、はっきりさせることも必要だと思います。

韓国とEUとの2国間協定の話は、大分前から出ていたのですが、外交取引では韓国にやられましたね。日本側は、EUが交渉に応じないといってますが、日本からのアプローチの仕方と、「認識」のありかたに先ず問題があったのではないでしょうか。

スイスに日本資本の工場を造って、Made in Swiss の製品をEUに売り込むしかないかもしれません。さもなければ、製造会社が独自の営業で売り込むことが主流になっている現状を見直して、かつてのように、総合商社のネットに乗せて輸出することを考え直してはどうでしょうかね。

これを読んで思い出したのが、国籍あるいはシチズンシップの問題です。日本人であるためには「日本人らしい」というのが暗黙の期待値に入っている特殊性です。ヨーロッパにおける帰化問題でもそれは少なからずありますが、期待値が極めて高いのが日本文化です。それからEUのETAについては、もっと実際の戦略論議に入ってしかるべきなのに、どうも盛り上がりに欠けるのが不思議なところです。韓国の「認識のあり方」に、もっと慌ててよいと思います。


2009年7月15日水曜日

バイオリン職人の茅野根さんの感想

以前、「さまざまなデザイン」(下記)で紹介した弦楽器職人である茅根さんからメールをもらいました。彼はドイツの工房で働いているのですが、八幡さんのコメントを読んでの感想です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1067
http://milano.metrocs.jp/archives/1076

そういえば、他人にもわりと軽く自宅の鍵を渡して留守中に掃除をしてもらうという習慣がありますが、お客さんに自宅内の各部屋を案内するのを含め、こうした空間の扱いの違いもどこかで関係してくるのかな・・・とも想像する次第です。

こんばんわ。お元気ですか?

さて、今日は安西さんのブログの一つを読んでいて、確かにそうだなぁと思ったことがあります。「外国人の医者」に関するブログです。

新しいブログでは、八幡さんの「外国人の医者を巡って」に対する意見が述べられていて、うなずくことがいくつかありました。

>母国語のレベル」といっても、どういう分野の、どの程度の言語能力かということが問題で、逆に、プロフェッショナルな世界では、特に、理学系・ 技術系の場合(医学もそれに入る)、テクニカルタームには大きな共通性があるので、言語能力の問題よりも、「うで」の方が重要だということではないでしょ うか。

これは自分がヨーロッパでいろいろな工房を回ったり、実際にいろいろなところで働いてみて同じようなことを感じました。楽器職人の世界でいえば、 最低限作業をするのに必要なレベルの言語能力を有しているならば、あとは職人の「うで」次第だと思いますし、向こうもそれをまず見極めてきます。必要最低 限の言語レベルと書きましたが、具体的に言えば、「~を切る」とか「~を削る」とか「~を塗る」とか。作業をするうえでの動作を理解できること。それと、 自分たちが使う道具などの名詞を理解できること。最低限この2つをクリアしていれば、作業にまず支障はないと思います。まぁ、工房によっては言い回しが 違ったり、特有な言い回しをすることもありますが、それは大した問題じゃないですし、外国人に限らず、現地の人間にとっても慣れなければわかりません。

2つめですが、

>わたしも、いつか、コペンハーゲンの商科大学の研究所に3ヶ月ほど研究滞在した時には、おそくまで研究室にいると、最後に帰宅する所員が、建物のマスターキーをもって来て、あとは宜しくお願いいたしますというのには、ちょっと驚きました。

これもいろいろなところで自分も体験をしています。ほんの1カ月しか実習滞在するだけなのに、お店の戸締りをすべて任せたりとか。今日は早めに上がらないといけないから、君が戸締りしてね、と鍵をすべて託されるということはしょっちゅうでした。

ブログに対する意見というよりは、共感することが多かったのでメールしました。

2009年7月14日火曜日

EUと韓国のFTA交渉

この2月、日本はスイスとFTA(自由貿易協定)/FPA(経済連携協定)に調印しました。アジアや南米の国々とは既にそのような関係をもっていますが、ヨーロッパの国とは初めてです。既にスイスとEUの間はスムーズな地ならしがされていますので、この調印により、日本はスイス経由でEUに進出しやすくなります。関税の段階的撤廃だけでなく、日系企業がスイスに会社を設立する際にスイス人を役員に含めなくてもよい、日本人の滞在許可証発行に関する人数が無制限、といった環境ができあがります。

以上が日本の対ヨーロッパ状況ですが、今日の記事によれば、韓国とEUのFTAは年内にまとまる可能性が高いとのことです。

http://www.thelocal.se/20642/20090714/

この7月からEU議長国であるスウェーデンの首相が、年内決着を目指すと発言したようです。EU加盟国27カ国の賛同が得られないといけないわけですが、スウェーデン首相は反対国の賛意を早急に取り付けるつもりであるということのようです。懸念事項はありますが、韓国にとって、EUは中国についで二番目の規模の貿易取引地域であることから、障害は突破したいというところです。

多くの韓国製家電や通信デバイスあるいは自動車が関税なしにEUに入ってくるとき、日本製は更に不利な立場に追い込まれるわけですが、スイスとのFTA/FPAの威力がどう発揮されるか・・・これは注視すべき事柄です。

外国人の医者を巡って

前回の「フィンランドの外国人の医者」に対して八幡さんからコメントを頂きました。

およそ医者に身を預ければ、後は任すしかなく、言われたように動くしかないというのが患者の立場であり、病気の内容をよりよく説明して欲しい場合、それは知識の問題であることが多いので、日本の外国人看護の導入で言われる理由に怪しさがあるのは、ぼくも同感です。

もう一つ、プロフェッショナルな資格の普遍性という指摘は興味深いです。これはEU内での資格共有ができた大きな文化的背景といえそうです。もちろん、それでも、フィンランドで医者のライセンスを取得するのに、EU市民であれば言語テストがないのにEU外の場合はより厳しいという、この線引きの理由にいろいろと「鍵」があるかもしれません。

これ、ドイツでは、1960年代からあった状況です。私事になりますが、妻は、ドイツでも、何回も入院して手術を受けた(そしてその度に前よりも元気になる)のですが、ミュンヘン大学の付属病院に入院した時、執刀医はチェコ人、麻酔医はインドネシア人でした。看護師にも、フィリッピン人や韓国人がおりました。ケルンの病院でも、同様でしたね。

もともと、医学部は入学志願者が多かったのですが、それでも、医学部学生の定員の一割を外国からの留学生の為に空けてありましたし、ドイツ人の医学生が国家試験の前に義務化されている実習の場所も、ドイツ国外のどこででも好いようになっていました。法学部の学生もそうでした。

「母国語のレベル」といっても、どういう分野の、どの程度の言語能力かということが問題で、逆に、プロフェッショナルな世界では、特に、理学系・技術系の場合(医学もそれに入る)、テクニカルタームには大きな共通性があるので、言語能力の問題よりも、「うで」の方が重要だということではないでしょうか。

「母国語」のことも、人口10万人当たりの医師の数が、日本は198人(2002年)、ドイツは337人(2003年)、イタリアは420人(2004人)で(データ:WHO. 50年前と状況はあまり変わっていないようです)あることを考えると、むしろ、国外からの流入を阻止して、医師の収入を確保しようという魂胆の道具に使われている可能性があります。

さらに、ヨーロッパでは、以前から、プロフェッショナルな「資格」については、国境や文化の壁を越えて、大きな普遍性を認めあっていたように思います。

わたしも、いつか、コペンハーゲンの商科大学の研究所に3ヶ月ほど研究滞在した時には、おそくまで研究室にいると、最後に帰宅する所員が、建物のマスターキーをもって来て、あとは宜しくお願いいたしますというのには、ちょっと驚きました。

2009年7月10日金曜日

フィンランドの外国人の医者




医者と患者の間のコミュニケーションが大事なのは当たり前ですが、OECDのレポートによれば、どこの国でも外国人の医者が増加しているようです。EU域内でEU市民は移動自由ですから、そこで増加するのは当然ですが、EU外の外国人も増えています。

http://www.helsinkitimes.fi/htimes/domestic-news/general/7014-immigrant-doctors-fill-a-gap-in-the-market.html

フィンランドもこの5年での伸びは大きく、ロシア語やエストニア語を話す医者が多くなっています。ここで興味深いのは、EU外の医者はフィンランド内で治療を行うに際し厳しい訓練を経てライセンスを獲得しますが、EU市民の医者はフィンランド語のテストさえ必要ないというのです。フィンランドではフィンランド語がメインでありながらも、スウェーデン語を話す地域もありますから、両方の言葉ができないと商売にならないというわけですが、この上の記事で気がつくのは、言葉によるコミュニケーションの問題を取り上げながらも、言葉の問題が医療活動の障害のメインとしては扱われてこなかったということです。ですから、EU市民であれば、語学テストが不要だったわけです。

「まあ、ちょっと時間が経てば、支障なくコミュニケーションができるだろう」という考えがあるのでしょうか。これは、複数言語を操るのが当たり前の社会での、極めて普通の発想であるということではないかと想像しました。医療活動の分野によっては、母国語と同じレベルでなくても「なんとかなる」という考え方が、こういう社会を作っていくのでしょう。あまり神経質にならないことの重要性を語っている。そのような印象をこの記事を読んで思いました。

2009年7月6日月曜日

旧東ドイツの快適性とスイス外交官の快適性





今年はベルリンの壁が崩壊して20年目にあたるため、「20年後」の記事が目に付きます。ぼくは20年前、イタリアに来るために色々と日本で動いていたのですが、ベルリンの壁がなくなったとのニュースは、ヨーロッパのリアルな姿を見つめるという動機を更に高めてくれました。翌年、東ヨーロッパをクルマで旅行したとき、新しいヨーロッパについて友人と大いに語り、新時代の到来に夢を膨らませたものです。

しかしながら、半数以上の旧東ドイツ人が「昔の社会が良かった」とアンケートに答えているのを読み、「あの時とそれ以降の、西ドイツの犠牲と痛みをどう思っているのだ!」と旧西ドイツの人達は思うのだろうかとも想像してみました。

http://www.spiegel.de/international/germany/0,1518,634122-2,00.html

その頃若くて、東ドイツの秘密警察の怖さを知らなかった世代だけでなく、ドイツ統一後の世界で成功を収めている人間でも、現在の社会の矛盾にヘキヘキとしている様子が伺えます。これは旧東の体制がマシかどうかの問題というより、現代社会の抱える問題そのものにどう立ち向かうべきか?に話の焦点がいくのが妥当なのでしょう。いずれにせよ、こういう社会風景のあるところで、ドイツ政府のトップが米国型資本主義に全面の賛意を表しないー今回の経済恐慌に対する財政支出に関する両国の違いーのは十分に想像のつくことです。

もう一つ、気になる記事があります。スイスの駐タイ大使という役割を外交官夫婦がワークシェアをするというニュースです。外務大臣自らバックアップしたがゆえに実現した話ですが、これを個人的な問題解決案としてだけではなく、スイスの外務省の新しいイメージとして活用しています。

http://www.swissinfo.ch/eng/front/Husband_and_wife_team_form_a_diplomatic_duo.html?siteSect=107&sid=10900603&cKey=1246708754000&ty=st

お互いが得意な分野あるいは相性のよい対人関係もフルに生かすことになりますが、結局、目指すところ、「人が生きれる快適性」にあります。それが外交関係にも弾みがつくということにもなります。

上の二つの記事は全く関係がありませんが、ヨーロッパ人の目指す社会像がどんなアングルから見ても、かなり一つに点に絞られるだろうことは窺えます。


2009年7月4日土曜日

スイスを中心としたゾーニング




先月、日本で買ってきた本を何冊も並行して読んでいます。それらの多くは、ヨーロッパに関する内容で、日本でヨーロッパが一般の人たちに向けてどう語られているのかを知る目的です。知識として勉強になることは多いのですが、正直言って、あまり面白い「見方」「視点」に出会えません。ヨーロッパ近代批判は底が見えていることが多いし、その証拠に現在のリアリティにあまり触れていません。また経済、政治、歴史、これらの専門家が書くと、どうしても社会の底に流れる層が視野に入りにくく、専門家にあえてお越し願うなら、文化人類学や社会学の系統の人間ではないかとの思いが強くあります。

触れているにしても、「フィナンシル・タイムズ」「エコノミスト」「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」あたりからの引用が多く、アングロ・サクソン系です。「アングロ・サクソン系の英国人でさえ、このように米国とヨーロッパに線を引くのだ」という注釈をつけたりはするのですが、ヨーロッパ域内同士の心理的距離感が描けていないのです。

やはり、米国症候群の一例として、ぼくの目には映ります。日本におけるアメリカの存在があまりに絶大過ぎ、その全面的賛辞でないとすると、ヨーロッパを「もうひとつの選択肢」として扱うわけです。したがって、選択肢としての有利な部分をまた実像以上に強調するという「突っ走り」が目立ちます。

こんなことを、昨日、八幡さんと電話で長話していたとき、スカンジナビアモデルが日本でよく引き合いに出されるのは、他諸国より歴史が浅いとみられ、したがってモデル移植が容易ではないかと勘違いするからだと指摘されました。実は、最近、ぼくがスカンジナビア地域を話題に多く出すのは、南欧に住むぼくが「対比としてのスカンジナビア」を考えているからですが、ぼくが「日本でヨーロッパを分かりにくくしているのは、フランスの存在が大きくないですか?フランスの北と南の違いを覆い尽くすフランスの存在感が強すぎる・・・」というと、八幡さんはアルプスを中心としたゾーニングの考え方を示してくれました。

南フランス、スイス、北イタリア、オーストリア、南ドイツ、バルカン諸国の一部、これらを帯状の共通文化ゾーンとしてみるわけで、このゾーンのもうひとつが、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、北ドイツあたりとなります。この二つのゾーンをメインにしたヨーロッパ理解というのは、現在の「英国と大陸」「英国、フランス、ドイツ」「スカンジナビア」「地中海」というそれぞれの地域を中心とした見方より、よほど実際的ではないかというわけです。また、今年2月、経済連携協定に調印したスイスに焦点をおいたヨーロッパ理解が新しい視座を提供してくれるのではないかと話し合っており(八幡さんは、スイスの出版社からでている"Switzerland Inside Out" という、スイスの政治からアートまでの全貌を語りつくす本の編集に関わった経験があります)、この帯ゾーンの考え方を推進するバックボーンにもなります。

この趣旨で、つまり二つのゾーンのどちらかの担当を決め、色々な方に参加していただくブログをスタートしたらどうだろうかという話しになりました。

参考までに書いておきますと、本ブログ「ヨーロッパ文化部ノート」は、今年の1月からスタートしました。現在、グーグルでもヤフーでも検索に「ヨーロッパ文化」と入れると、両者とも2百万以上のヒットがあり、「ヨーロッパ文化部ノート」はトップページに出てきます。検索で上位にあげるためのSEO対策は何もしていないので、「ヨーロッパ文化」に対する動きが日本語の世界で如何に鈍いかとの反証だとぼくは見ています。

新しい動きをしないといけないと考えています。


2009年7月2日木曜日

スウェーデンの同姓婚に関するセミナー




以前、スウェーデンは国内の少数言語に対する社会的関心を高め、教育促進を図るよう努力をするべしという記事を読んだとき、「なるほどねぇ、EUの多文化主義にそうことが大事なんだ」と思いました。5月の以下の記事です。

http://www.thelocal.se/19300/20090507/

多数の言語がある社会がゆえの悩みといえますが、そのスウェーデンで7月1日付けで施行した法律の一つに、スウェーデン語をオフィシャルメイン言語とみなすという内容があります。

http://www.thelocal.se/20404/20090701/

社会的あるいは文化的な「分散」を尊重しながら、もう一方で、それらを統合する動きをしているわけです。そして、こういう複雑性をスウェーデンという国の「売り」にしているのではないかと思わせるのが、例えば、東京のスウェーデン大使館における、同姓婚を認めるよう婚姻法を改定したことに関する下記セミナーです。

http://www.swedenabroad.com/News____13369.aspx?slaveid=92915


以下、セミナーの内容をみると、これはスウェーデンの文化政策の紹介というイメージがあります。
どうやって実現できたのか?
成立に至る道のりは?
何を目的としているのか?
憲法解釈の問題か、それとも人権の問題か?
各国それぞれの状況はどうなのか?
賛成と反対、それぞれの意見は?
同性婚を受け入れた社会には何が起こるのか?

八幡さんが前回のエントリーで書いていただいたことを照らし合わせると、このセミナーの意義がよく分かると思います。文化がシリアスな問題になりにくい日本社会の弱点を逆に衝かれているような気もします。

ヘイトクライムは、日本では中々はっきりした形が見えませんが、現実に、異民族・少数民族が少ないこと、少なくともつい最近までは、社会階級の格差が、ヘイトクライムの誘因となるほどはっきりしていなかったことなどがその理由でしょう。



近代社会に対する「近代性」の逆襲!

このところスウェーデンやデンマークのヘイトクライムやDVの記事を取り上げましたが、八幡さんよりコメントを頂きましたので、ご紹介します。先日、「さまざまなデザイン」で宮台真司『日本の難点』に触れましたが、「近代社会が自己回帰的に再近代化されることによる問題点」という視点が大事だということだと思います。そして、それを如何にビジネスの世界に引き込み実際に調整していくか?これがテーマになります。

ヘイトクライム、ドメスティックバイオレンス、いじめ、セクシュアルハラスメント、など、いずれも現代の、特に先進社会で、注目されている現象ですが、何しろ、国によってそれぞれの概念の意味にズレがあったり、どんな行為がそれに該当し、どれがそうでないのか、区別も様々で、実に難しい問題だと思います。

ヘイトクライムは、日本では中々はっきりした形が見えませんが、現実に、異民族・少数民族が少ないこと、少なくともつい最近までは、社会階級の格差が、ヘイトクライムの誘因となるほどはっきりしていなかったことなどがその理由でしょう。

政府の犯罪統計にも、単なる傷害事件や暴力事件の項目の中に埋もれてしまって、特記されていませんので、ある程度客観的な実相が掴み難いです。ヘイトクライムについて言えば、統一後のドイツで、旧東ドイツであった地方では、以前は、体制に適合し、目立たずに暮らしていれば、失業もなく、経済的には低レベルの生活水準ではあっても、競争がない、したがって人々の間に気安さと仲間意識があった、「暖かい社会」だったと、過去の東ドイツへのホームシックに駆られる住民が増えているそうです。

若者のネオナチ化、それと平行して、東独型社会主義復興の新左翼化が問題になっていて、彼らが外国人に対して集団暴行事件を起こすことも報じられています。個人の自由の不在、当時の統一社会党(共産党)の路線から外れた思想・言論の弾圧。Stasi(国家安全保障局)による全国民の監視、上からの独裁政治など、西側で言われていた東独の「正義無きシステム」は、東西ドイツ統合以後、初めて西側世界の生活を経験した人々にとっては、「統合によって楽園を失った」という思いが強く、ネガティブな政治原理のことは知りたくない、思い出したくない、庶民には所詮どうでも好いことであるようです。

このような背景から行われる集団的暴力行為も、ヘイトクライムでしょう。そうしてみると、なにか、昔から住み慣れていた、安定した、定常的な社会がどんどん変化して行って、そのスピードが加速度化されて行く。一方、政治の理念、手法、などは昔のまんまで、どんどん現実には合わなくなっている。いわゆる、ネーションステートが今でも、国家形態の世界標準になっていますが、独立主権国家であるはずなのに、実際は独立の実態も薄れ、主権の行使もままならない。その点では経済学も同じで、実際のところ、世界的な金融・経済危機の発生を予測できた経済学者はいなかったといっていい状態です。

こういう特に先進各国どこにも見られる、様々な社会生活の分野・局面での、急速な複雑化と不確かさの増大が、一連の社会病理的な逸脱的行動の多発に繋がっているように思いわれます。コンピュータのソフトウエアの肥大化、複雑化を経験すると、喜びよりも苦しみのおおい進歩・発展を体験しますが、ソフトウエアが簡単化することはないでしょう。

いったんは(産業革命によって)近代化した社会が、自己回帰的に再近代化されることによって複雑化し、不確実化し、社会心理的な不安を増大させて行くと言うメカニズムがこのような現象に通底しているというのが、いちばん、まともな見方であろうと思います。Ulrich BeckのいうRisc Societyや Anthony Giddens のいうReflexive Modernization がこの状況を示唆しています。

日本ならば、中年以降の特に男性の自殺の急増が、特に中・上級管理職に要請される、自己を殺して組織に献身する仕事ぶりから考えると、この湯女一般的な状況の変化に照らして、分かるような気がします。もっとも、個々の自殺の「理由」として上げられている事柄の多くは、おおいに気分をめいらせることではあるかもしれないが、自殺の直接の原因であるとは考えられないことがおおいですね。

こういう、現在進行中の世界規模の革命的大変動(近代社会に対する「近代性」の逆襲!)を把握し、対処する方策を見いだす為には、経済・文化・政治思想・歴史などを串しにした、哲学的なパースペクティブが必要なんだな、という感じですが、それは今のところ、カビの生えたアカデミズム(大学)には出来ないことでしょう。「欧州文化部」の将来に賭けてみたいですね。

2009年7月1日水曜日

デンマークのDV




先日、スウェーデンのおけるヘイトクライムの報告書について触れましたが、今日はデンマークの女性救済のための国立センターの報告。

http://politiken.dk/newsinenglish/article743754.ece

2008年、このセンターに駆け込んだ女性の数は14%増加していますが、それは家庭内暴力が増えたというより、公的機関に助けてもらえることが分かったことにより訴えが増加したとセンターはみています。そして特徴的なのは、物理的から心理的へと女性が訴える暴力の中身が変わっていることです。2007年、前者が96%だったのが、2008年は76%になっています。

もちろん、これは暴力の「意識化」という側面があります。ただ、それだけでしょうか。人々の心がより敏感になりつつある、何らかの社会的要因があるのではないかということをぼくは考えます。青少年の非行現象が英国から大陸に東進する傾向を以前書いたことがありますが、もう一つの動きとして、北欧から南進することもあるので、この領域に対する記事に今後気をつけたいと思います。