2009年10月18日日曜日

JETROでの勉強会

この前に書いた駐日ドイツ大使の講演会の後、溜池のアークヒルズにあるJETRO(日本貿易振興機構)で勉強会を行いました。いろいろな部署の方が30名近く参加くださり、また外部からも数名おいでいただきました。最初に、ぼくがPPTでプレゼンをし、それから質疑応答という形をとりました。

プレゼンのなかで、「ユニバーサルとは言葉で理解し合えることで、心で通じ合えると思わない」ということを言いました。これは「少なくても、マスレベルでのビジネスを企画するにあたって」という前提がありますが、この点に質問がありました。「感性的にいいと思える共通点があるような気がするのですが・・」と。

ぼくも、感性的な共通点はあると思います。「さまざまなデザイン」で書いた「夏の虫の鳴き声」もそうですが、日本人独自であると思っている感じ方には、かなりユニバーサルに通じるものがあります。しかし、一方、それは記憶や経験あるいは学習ということがベースになっている面もあります。つまり、ある事象に対する感じ方に自慢するのもおかしいし、卑下するのもおかしいというのが、ぼくの考えです。

寿司や刺身をはじめて食べて美味しいということはあまりないことだし、子供の食の好みをみれば分かるように、ある価値的説得によって「これは美味しい」と思わせることが、かなりのケースに当てはまるのではないかと思います。明治時代に来日した西洋人が日本の音楽を聞き、「これはすばらしい」とは即言わなかったことも、一例になるでしょう。

勉強会の後、赤坂で数人と食事をともにしたのですが、七味オイルの開発ストーリーやYouTubeのビデオの話がかなり受け、このような事例から文化の話に持ち上げていくのがいいのかなと思いました。今回の勉強会は20-30代の若手がメインだったのですが、彼らにもっと語りかけること、彼らがポジティブに動いていくことができるような外部的バックアップ(環境づくり)をすること、このあたりにぼくのやるべきことがありそうだと感じました。





駐日ドイツ大使の講演会

今週14日、駐日ドイツ大使の講演会を聞きに、四谷の上智大学に行きました。大使は3回目の日本駐在で近々、外務省を退官するようです。したがって、ここでの講演は最後のスピーチ。タイトルは「国際社会におけるドイツの役割」です。聴衆は150-200人くらいで、年齢層はさまざまですが、さすがに在校生が多いです。


第二次大戦後のドイツと日本の類似点と相違点をあげていくなかで、EU統合は文化的近似性に基づいているが、東アジア共同体にはその類似性を日本と韓国やその他諸国の間にみず、実現の難しさを示唆します。この話を聞きながら、「文化的類似性」って何だろうと思います。似ているといえば似ているし、違うといえば違う。もちろん大使は、文化的相違だけではなく、ルクセンブルグにある司法システムなどを例に、このような制度のないアジアでの統合への道は極めて実現性に乏しいと批判するのです。

ぼくは東アジア共同体の実現が何も困難を伴わないとは思わないし、それが何十年かかるか分かりませんが、文化的相違性があったとしても、お互いの共通目標を設定しようと探りあう行為とプロセス自身に意味があるのだろうと考えます。でも、一般的に東アジア共同体は批判されやすい。それはそれでかまわないのですが、EUの実現に多大な年数を費やしたように(リスボン条約の批准だって光明がみえてきたのは、数週間前のアイルランド国民投票の結果による)、現在の東アジアの状況をもとに、どこまで「現実性」を論議する意味があるのだろうか・・・という気がして仕方がありません。「現実性」とは作っていくものではないか?と思います。

講演の後の質疑応答で、ぼくは質問に立ったのですが、それは上記の内容ではなく、「日本社会はこの数十年、ヨーロッパに対して心理的距離感をより持ちつつあるのではないかと思うが、大使は長年の日本とのつきあいのなかで、そのようなことは感じないか?」と聞きました。それに対する大使の答えは「そういうことを感じたことはない。日独はライフスタイルをみても分かるように近づきつつある」。外交官に聞くべき質問ではなかったかな?とも思いましたが、これはこれでひとつ分かることがあります。

講演会の後、キャンパスに立っていると、一人の女子学生が近づいてきて「さっき、大使に質問された方ですよね。とても興味がわきました」と言われました。「あのような問題を考えたことはありませんでした」と。5分ほど彼女と話したのですが、ヨーロッパとの距離感を意識するには、何らかの実践的経験が必要だなと当然なことを思いました。いずれにせよ、若い学生が、何らかのことを考え始めてくれるというのは、嬉しいことです。






2009年10月12日月曜日

国際文化会館での勉強会

先週、六本木の国際文化会館で勉強会を主宰しました。業界を超えた十数人の方にお集まりいただき、最初の40-50分がぼくの側からの話題提供、残りの2時間余が皆さんとのフリーディスカッションです。話題提供は、6月に日欧産業協力センターのセミナーで話した内容が中心ですが、最後のまとめに「ものの見方」を出しました。

議論の中での、ある方の発言「ヨーロッパでは目標は目標であり、それが達成できるかどうかを日本ほど強く求められない。目標をたてることに意味があり、結果、未達であっても日本ほど責められない」には大いに頷くものがありました。目標自身への考え方の違いがありますが、ぼくは、この発言からヨーロッパ統合を推進したジャン・モネのことを思いました。

ヨーロッパのあり方では、何かが上手くいかなかったとしても、それは手段や手順のまずさであり、目標自身の設定について反省することはあまりありません。だから長年のプロセスを経てEUが成立したのであり、日本でよくある「目標設定が悪かったと反省し、ゼロから出直します」という考え方では、EUは成立しなかったであろうということを、ぼくはモネの「回想録」を読んで思ったのです。

日本のよさのひとつは道徳的優位性であるとするなら、目標に対する考えの違いは、世界での道徳的優位性に役立つのだろうか?ということがテーマになるのではないかと思うのです。約束を守るとかいうことは信義上の問題として道徳圏内として、計画の目標は圏外ではあるまいか?という意味で、我々が損をしない評価軸はどこにあるのか、自分の文化定義とヨーロッパの文化定義をエレメント的にもっと突き詰めることが必要と思われます。

もちろん文化をどこまでブレイクダウンできるかは難しい問題ですが、それを諦めていると、話はまるっきり前進しません。どうにかして前進させるための試行錯誤をやるしかありません。今週の水曜日も他の場所での勉強会です。そのあたりでひとつの実践的方向性をみつけたいと考えています。

尚、「さまざまデザイン」に「石倉洋子『戦略シフト』を読む」を書きました。日本に来てから1週間に至らぬ時点でどんなことを思ったかの記録でもあります。


2009年10月4日日曜日

米国とヨーロッパの違い

検索エンジンでヨーロッパ文化に関する記述を探していたら、今年の7月のコラムですが、アメリカ文化とヨーロッパ文化を比較している記事がありました。読者コメントにあるように、必ずしも「正解」ではないし、こういう一般化で不機嫌になる人達は多いようですが、十分に話題を提供してくれています。

http://www.reasonpad.com/2009/07/what-differentiates-europeans-from-americans-europe-and-usa/

200年間という時間や100キロという距離に対するアメリカとヨーロッパの違い、クルマのデザインの違いーヨーロッパのクルマのほうが曲線的ー、教育システムーヨーロッパは無料で大学入試がないー、教会の位置ーアメリカでは宗教が政治と一緒になっているーなど、沢山のアイテムがあります。参考まで。

2009年10月3日土曜日

文化の定義を自ら行え

来週に迫った東京で行う勉強会のPPTを作っています。基本的には、6月のセミナーで作ったPPTを利用するのですが、色々と手直ししたりページを追加しています。今回、ぼくが話し合いの題材を提供し、皆さんに自由に討議していただくという形を考えているため、どのような形で話題提供するのが最適か?ということになります。結局のところ、何のためにヨーロッパ文化を理解するか?といえば、以下のようなところに行き着くのかなと考えています。

あえて線引きをすることで、状況の傾向や構造がみえてくるものである。そして線引きして複数の文化を比較することによって見えてくるそれに違和感があれば、線引き自身の妥当性を検討すればいい。線引きすることを怖がってはいけない。ヨーロッパ文化も日本文化も、それらの文化を再定義する自由が誰にでもある。


この文化の定義をそれ自身が行うことに意味があると思うのです。コンテンポラリーアートの村上隆が長谷川等伯ではなく伊藤若冲を自分の源流として取り上げ、自分なりの日本美術の流れを再構成したようにあるいはイタリア陶器メーカーのCOVOがヨーロッパで受ける日本風の食器をデザインしたように、相手の姿を自分なりに見極め、同時にその相手に対して説得性をもつために自分の姿を見直しをすることが重要です。

村上隆が、漫画やアニメといえど、その文化背景説明なしに外国に輸出しても一過性なものにしかならないと書いていますが、単に「アニメが受けた」という事実をもってアニメ輸出促進を図るのではなく、そのアニメが受ける理由と地域の文化をスタディをすることが優先させられないといけないと思います。そして、どう説明が不足しているか?を自覚的にみないといけないでしょう。

トヨタが2005年周辺よりレクサスをL- finessというデザインポリシーのもとで世界統一戦略を図り、この戦略が失敗に終わったことは多くの人が知るところです。そして、この6月の新社長記者会見で地域重視の商品戦略に変更せざるをえないことを発表しました。以下の中身の意味するところは小さくありません

地域、すなわち、「マーケットに軸足を置いた経営」です。お客様やマーケットを直視し、マーケットの変化を捉え、その現場を熟知した人が迅速に判断する経営です。今回の副社長体制では、こうした考え方から、各副社長は地域の責任者となります。


「アニメが世界でクールだ」などという分けの分からない発言を繰り返し、ズブズブと自分の位置が沈下していくことに気づかない・・・そういう事態を回避すべきです。ローカライズにあまり手をかけなくても受け入れてくれる地域もあるし、ローカライズがなければまったく相手にしてくれない地域もあるでしょう。それを他人の受け売りではなく、自分自身の見方で勘をつけていくことです。