2010年2月27日土曜日

「設定」を巡る文化差

前回、ローカリゼーション研究会の趣旨を書いてから、Twitter上の#lmap でじょじょに賛同者が集まりつつある。ローカリゼーションは対象を文化適合させることだから、国だけでなく世代文化にも関わってくる。したがって間口が広いため、比較的幅広い人たちの協力が得られるのではないかと思う。

ある大学生が、「機器の設定を変更すれば、使い勝手がよくなるのに、どうしてそうしない人が多いのか?」という疑問を書いていた。携帯やPCなど電子機器を中心とすると、そのような発想になる。一方、TVや自動車、冷蔵庫を中心に生きてきた人たちにとって、「設定」を変更するという発想自身乏しい。ダイヤル式の黒い固定電話に「設定」などなかった。プッシュフォンになり、番号の短縮化や記憶化が進み、ケータイでそのバリエーションは膨大になった。「設定」を巡る、この文化差の指摘、時間による文化差の解消は面白いテーマになると思う。

何が「設定」の標準項目になるかの選別は、何をユニバーサルと考え、何をローカライズするかの基準設定の問題になる。どういう項目であれば、地域文化差の話になりーたとえば、住所表示を通りの番号から書くか、郵便番号から書くかなどー、あるいは文字の大きさなら視力のレベルの話になる。今からたった10年数前、ケータイの着信音に電話をかけてくる相手によってバリエーションをもたせることは、まだ一般的な技術として普及していなかった。しかし、現在、極めて当たり前のものになっている。が、それ以前の電話に馴れている人たちは、あえて着信音を「設定」する必要性を感じないこともある。

「そうすれば、便利なのに・・・」と言われても、何が便利なのかさっぱり分からない。が、一度、その便利さを理解すると、その機能を採用していなかった自分がとても愚かだったと思う。「設定」の敷居はものすごく高そうで、しかし、思ったより低いこともあるというわけだ。

問題は、敷居の越え方である。敷居の設計の問題なのか、敷居の見せ方の問題なのか、あるいは超える人間の能力や心理的要因に多く起因する問題なのか。こういったことを文化的側面から見つめていくことが、ローカリゼーションマップ研究会のテーマの一つになるだろう。

2010年2月24日水曜日

ローカリゼーションマップ研究会のキックオフ

昨日、デザイナーの中林鉄太郎さんと会った。事前に以下メモをお送りしておいた。その結果、3月20日(土曜日)、六本木AXISビルにあるインダストリアルデザイン協会内でキックオフミーティングを開催することになった。プロジェクトプロセスをできるだけオープンにするため、Twitter( #lmap)やその他で常時発信していくことにする。対象はハードとソフトの両方の製品だけでなく、アートや文学も領域に入れる。

<プロジェクトの趣旨>

今、プラットフォーム構築の主導権を握る重要性が盛んに語られる。そこに利益の源泉があるからだ。しかし、日本企業がプラットフォームのリーダーになることはあまりない。それを日本文化の伝統ゆえであると解説する向きもあるが、そう解説したところでビジネス上の解決には至らない。

過去、海外の文化情報が日本に蓄積されてきた。あるいは日本文化の分析も膨大だ。だが、それがどれほどにビジネスに活用されてきただろうか。メーカーの商品開発に生かされているか?ソフトの設計に生かされているか?否としか言わざるを得ない状況が多数だ。

どう文化を理解すれば、こういう形でビジネスに活用できる。そういう事例が示されないと、多くの人がビジネス上の文化理解の必要性になかなか気づかない。いや、正確に言えば、何となく気づいているが、その先に行けない。靄のかかった奥に入り込めない。これを案内するのが、ローカリゼーションマップ研究会の役目だ。

1、ローカリゼーションマップ研究会は何をやるのか?

日本人が好む茶碗はフランス人が好む茶碗とは異なる。日本人が好む茶碗がフランスでは売れにくい。携帯電話に期待するローカリゼーションと洗濯機に期待するそれは異なる。洗濯機にはユーザーの国のロジックが定着している。そして、その変化のスピードが携帯電話ほど早くない。こうやって、それぞれのモノやコトから違ってみえる世界観を具体的に描いていく。なぜ違うのか?そこに時間軸はどう関係してくるのか?を考えながらマップを作成していく。

このマップを見ることによって、自分が扱う製品の世界での位置づけが分かってくる。あるいは、文化の理解の仕方がみえてくる。

2、アウトプットは何か?

可視化されたものであることが重要。電子と紙の書籍化を目指す。タイトルは「2015年のローカリゼーションマップ」とし、現在から5年後に日本の製品が海外市場からどのような(どのレベルの)ローカリゼーションを要求されているかを予測する。これは主観的であることを基本とする。世界各地の正確な文化把握を基調として考案していたら金と時間がいくらあっても足りない。想像を含め個人的な経験をもとに大胆に考えていき、それを他メンバーとのディスカッションでより実効性の高い成果を出していく。複数の主観の重なり合いが見所のひとつとなろう。

3、プロジェクトの進め方

インダストリアルデザイナー協会のデザインプロセス委員会の2010年度(2010年4月ー2011年3月)のプロジェクトとして扱っていただき、そこを母体として外部の人間も参加する形をとる。定期的なリアルとヴァーチャルのミーティングを基本とし、早い段階での個々の参加者の第一次アウトプットがプロセスの進め方として重要。

2010年2月15日月曜日

三つの視点をもつこと

昨日、一橋大の学生たちと勉強会をやった。ユニバーサルとローカルの領域確定というテーマに殊の外、関心が強く、また視点を3点もつ重要性に予想以上に頷いてくれた。その詳細は、以下に書いたTwitterの# に記録が残っている。

http://milano.metrocs.jp/archives/2914

上記で3点とは、日本、アングロサクソン、大陸ヨーロッパとぼくの事例をあげた。もちろん、これはアジア、南米、アフリカという視点でもいい。問題は言語の違いが生む世界観や感覚の差異でお互いの距離感を知ることが必要という意味だが、これは言語的文化圏だけでなく、モノを考えるとき、生産者、小売、消費者という三つの立場を考慮するということも意味している。また、以下で書いたことも同様だ。

http://milano.metrocs.jp/archives/2884

テーマの対象となる主人公ー担架で運ばれる病人であったり、小さな子供であったりーがどう思うかよりも、それらに対面する人たちー救急署員や親ーからの視点が重視されていることに、少々違和感を覚えました。たとえば、電車のなかで子供たちは煩い。他の乗客は迷惑に思う。それを感じる親たちは肩身の狭い思いをする。だから、子供づれは別車両に分けて、気ままになれる空間を用意する。こういう発想プロセスになっています。弱者の周囲をテーマにしながら、弱者の目線に立とうとした軌跡がパネルにはないのです。

ここでは弱者の立場を強調しているが、子供車両のアイデアについて言えば、子供、親、他乗客という三つの立場を最低考慮しないといけないということだ。日常生活のなかで、常に三点とは何か?を「気にする」ことが大事なのだ。

2010年2月13日土曜日

「ワインで考えるグローバリゼーション」

ヨーロッパの本ではないが、ヨーロッパ文化部の活動にとても参考になる本なので紹介しておく。山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』だ。以下にレビューを書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/2895

ローカリゼーションマップを構想していくにあたり参考になる本だ。一昨日、池袋のジュンク堂で書棚を眺めながら、思ったのだが、モノを介した文化史の本はそれなりにある。箸、酒、食、服飾・・・・と。しかし、どうも薀蓄の域を出ていない感じがつきまとう。それぞれの思い入れが強いのが伝わるが、これで今の何が語れるか?が不足している(ような気がする。本屋で全部読めるわけがない)。

その意味で、『ワインで考えるグローバリゼーション』はタイトル通りの目的を果たしているだろう。少なくても、このレベルの意識があってビジネスをしないといけないだろうと思う。

2010年2月10日水曜日

ヨーロッパ文化部と家事塾

昨日、「さまざまなデザイン」に「辰巳渚さんの家事塾」を書いた。

家のことをやるのは、特に義務的ではないのと同様、趣味的でもなく、普通に生きることそのものであるということを説いている。当たり前といえば当たり前ながら、伝統的行事を家のなかで維持しようとすれば何らかの主張を求められたりする無理を解消していかないといけない。この活動が、ヨーロッパ文化部の活動と狙いは同じであるとぼくはみた。そして、この二つを同じ地盤でみられる考え方を説くことが重要ではないかとも思った。

文化とは芸術あるいはそれに近い領域を指すという立場がある一方、生活文化こそが文化の要であるとする立場もある。しかし、その立場は職業的それであり、人の生き方そのものではない。両方を包括してはじめて一人の生活が成り立つ。だからこそと言えるかもしれないが、だからこそ、あることが分かると、もう一つのほうも分かる。しかし、それは「一般化」ではない。

上記をすべての人に即望むのは、かなり厳しいと思う。それなりに多角的な経験を積んでこないとみえてこない場合が多いかもしれない。よって、まずは、これが見れる人がどの程度いるのか、それを確認していきたいと思っている。必ずしもヨーロッパを対象としなくても、趣旨が分かる人がどのくらいいるのか?という意味だ。

今、色々な人に会いながら、この確認作業を進めている。