2010年5月14日金曜日

ローカリゼーションワールドを考える

来月7-9日、ベルリンでローカリゼーションワールドというイベントが開催される。展示と会議の両方。ソフトウェアの意見が強そうだが、サービス産業を中心に幅広くローカリゼーションを扱っている印象を受ける。

http://www.localizationworld.com/

このサイトの中にスピーカーのプロフィールが掲載されている。100人以上のそれを読んでみたが、主流は明らかに言葉の専門家だ。通訳や翻訳がバックグランドの人。マーケティングもいるが、プロダクトのプランニングに直接関わっていそうな人は思いのほか少ない。

http://www.localizationworld.com/lwber2010/speakers.php

つまり、前工程ではなく後工程に従事する人が多いのでは? 通常、マーケットやユーザーにより近いのは後工程だが、ローカリゼーションは製品のコンセプト構築の段階からタッチしている人間が関与すべきという考え方がどれほどに浸透しているのだろうか?という疑問が残る。

ヨーロッパ人が多そうなのは、この開催地がベルリンだからだろうか。それだけでなく、EUの多言語主義もあり、ヨーロッパにはローカリゼーション産業が発達しやすい条件があるからと考えるべきか。やはり、イメージや形状の差異ではなく、まずは言葉の差異が何よりもバリアになる。ここは最低要求ライン。

そして、言葉による表現はロジックそのものと密接な関係をもつ。昨日、ぼくはイタリア語のse vuoi(if you want) を食事などの誘いではなく、自分の依頼を人に受けてもらう時に使うことへの違和感を払拭できないと、「イタリア文化が分からない」というタイトルのブログを書いた。

http://milano.metrocs.jp/archives/3322

日本語の「すみません」が本来の謝る意味を離れて潤滑油的な機能を果たしているのと同じく、se vuoiも丁寧な依頼表現であったのが、依頼側の立場を守る方便に変わり、そしていつの間にか、方便であること自身をも意識しなくなったのではないか・・・とあれこれ想像してみた。かように、ロジックは不可視で頑固なものだ。理解しづらい。ソフトウェアのロジックのローカリゼーションが、色やアイコンのローカリゼーションより(コンセプト構想上)優先されるべきというのは、こういう認識に基づいている。

が、だから言語表現が全ての収斂の場所であると考えると、これも道を誤る。言葉で全て表現しきれない世界に人は生きているという意味もあるが、言葉の専門家は言葉の専門家であるだけで、その他を見切れているわけではないということもある。ある言葉の表現の差異を理解し説明できることが、必ずしも文脈全体の差異を理解し説明できるとは限らない。いわんやアイコンなどの視覚表現への理解度はまた別の経験や能力を要する。

こういう観点から、ぼくはローカリゼーションマップ研究会の趣旨を考えているわけだが、ローカリゼーションワールドのスピーカーのプロフィールではファッション関係が一人だけ。食品や日用品の専門家が少なそうなのは、ローカリゼーションという分野あるいは産業が、日本に限らずこれからのものであることを示唆しているといえそうだ。あるいは、デザイナーなどの参加がもっとあっていいように思う。

上述したヨーロッパはローカリゼーション産業が発達しやすいという部分だが、これはヨーロッパ内でローカリゼーションのバリアが比較的はっきり見えていて、そのバリアが困難を極めるほどではなかったー各国文化の近似性ーという理由が考えられないだろうか。いずれにしても、ローカリゼーション産業の現状を知ることで、ローカリゼーションマップ研究会(Twitter上では #lmap) の行方を考える参考になる。

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