2009年3月1日日曜日

「手のひらをつくる」は「哲学の貧困の克服」

昨日のエントリー「手のひらをつくる人達を応援しよう!」に対する八幡さんからのコメントです。グーグルやアップルの試みも、世界の再解釈の枠組みの構築であると説明されています。このことが工業製品のユーザビリティのレベルにも影響していると書かれています。ユーザーの使用文脈の構成にあたっては文化的な理解を求められますが、その前の段階の「おさえ方」がまず問われてくるのだろうということです。

元NTTドコモの夏野氏がダボス会議で、インターネットの世界におけるエコロジーとは何なのかというテーマに乗り切れなかった理由を想像させてくれます。一昨日、「さまざなデザイン」に、個人的エピソードや個々の分野の議論を文化論のレベルに解釈しきれない日本社会の傾向を以下に書きましたが、これは今後実施するセミナーの大きなテーマになります。

http://milano.metrocs.jp/archives/971


「お釈迦様の手のひらの上で踊る」と言うことと、その「手のひらを造る」と言う対比は面白いです。

安心できる、確実に安全な次元でだけ議論したり、競争したり、つまり、安全第一が原則で行動することが要求されている社会では、「手のひらを造る」発想と行動を起こすことは難しかったのだと思います。

にもかかわらず、そのような高い志を持っている人々がおいでになることには、敬意を表したいと思います。

「手のひらを造る」ということは、在る物事の世界を解釈し直す新しい枠組みを作ることだと思いますが、そのような知的な作業を積極的に推進し、その成果を評価する文化は日本では薄弱だったようです。

近代西欧文明の先端には、デカルト、カント、ヘーゲル、
マルクス等々に代表される、哲学的な「世界の新解釈」が在ったのですが、日本の近代にはそれが微弱であったようです。西田哲学などは、カール・レーヴィットや彼の師であったマルティン・ハイデッガー等には理解されていたようですが、その後の世界的な影響はこれまでのところ、限定的であったと言わなければ成らないでしょう。

哲学の場合は、「世界」そのものの新しい解釈ですが、
在る部分的な世界、例えばエレクトロニクスの世界では、米国の革新的な企業がやっていることが、部分世界の再解釈ないし新解釈の大きな枠組みを、投網のようにプロジェクトすることがその実例ではないでしょうか。グーグルが投入する様々なサーヴィスがそうですし、アマゾンもKindle等を投入することで、大きな投網を投げているような気がいたします。アップルが、iPod, iPhone, そしてiTunes のような新製品の系列で意図しているのも、このような部分世界の再解釈の枠組みを構築することであるように思います。

広義の社会科学の分野で言えば、ジャレッド・
ダイアモンドの著作に見られるような、古生物学、地質学、地理学、歴史学等を学際的に統合した、巨大な人類史、あるいは文明史的展望をもたらすプロジェクトがその一例でしょう

従来の常識であった「手のひら」を一挙に拡張し、
格段に次元を上げる作業が必要なのではないでしょうか。個々のアイテムの機能を上げたり、精度を高めたりする以上の、安全の保障が始めから在るわけではない大きなプロジェクトを構想し、その実現を許容し促進する文化を、どのように形成するか、さらに、その方向へ向かって、若い人たちをどのように教育し育てるか、と言う問題です。

既成の「手のひら」を越えて、
外からこれを見直すことが必要です。その場合の視点をどこに求めるかですが、それは、日本固有の文化的な歴史の中にありながら、同時に世界普遍的な問題でもあるようなポイントでしょう。先日の「おくりびと」と言う映画がアカデミー賞を受賞したのは、その好例〈生と死と言う普遍的な問題の日本的な解釈の表現〉であると思います。

工業製品の世界で言えば、エンジニアとは「別の世界」
で生きている「ユーザーにとっての」使いやすさと言うことでしょうか。米国製品のユーザーマニュアルは、誰にでも判るように書いてある例が多いですが、日本製の品物のそれは、マニュアルを読まない方が、むしろ、判りやすい〈混乱しなくて済む〉という例がきわめておおいです。しかし、それではせっかくの機能も使いきれませんね。手のひらの上で、十分によく踊っているとはいえないのではないでしょうか。

「手のひらを造る」ということは、西欧文明の用語で言えば、
どのようにして「哲学の貧困」を克服するか、と言うことにもなると思われます。

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