なかなか面白くて難しい問題ですが、文化・歴史の潮目がちらほらとするような話です。
>どなたか、詳しい方がいたら、お教えください。
という条件にかなう方がおいでになるとは思いますが、クラシック音楽とプラットフォームの作り方/出来方について、 素人考えですが、思いついた事をひとつ。
歴史的に見ると、クラシック音楽の普遍化(プラットフォームの形成)には、広い意味での制度的・ 理念的な下支え、 あるいはインフラストラクチャーがあったと思います。
そのひとつは、10世紀前後から西欧世界に流入してきたアラビア経由の( 発端はギリシャの)数学、もうひとつは、キリスト教会の統合・ 統一(カトリック教会の制度的完成)と、 グレゴリオ聖歌の成立による、 各地方教会の諸民族語での聖歌のラテン語のグレゴリオ聖歌への統 合、其れとともに始まる、聖歌の四線音符による記譜、この際に、 音階や音の長さが、数学的に決定される、其れが、やがて、 教会を離れて独立するクラシック音楽の、 五線譜に見られる数学的な普遍的な記譜法に発展する。さらに、 数学の論理構造が、音楽の形式・構造にも影響を与え始める。
教会音楽の担い手が、カトリック教会(Ecclesia Cattolia 普遍的教会)であったように、ルネサンスからバロック、ロココへと移り変わる、新しい世俗の音楽、 いわゆるクラシック音楽は、16世紀以降、 教会に代わる文化と教養の中心となった、 ヨーロッパ全域をカバーする一枚板のような( その意味で普遍的な)王侯貴族階級の世界によって支えられた。
しかも、彼らの世俗的教養の共通底には、数学がありました。16世紀以降の代表的な、 王侯貴族とも密接な関係にあった思想家たちは、哲学者( ライプニッツ、パスカルなど)も政治/法学の専門家( 例えばホッブス)も、 ガリレオやニュートンと交流のあった数学者でもあったので、 このころの思想の根本的なフレームワークは、 数学であったと言えるのではないでしょうか。むしろ、 ルネサンス以後のヨーロッパでは『万人の万人に対する戦争』 状態にあったので、数学的論理のみが、対立を超えて(普遍的に) 認識されえる唯一の言語表現の基軸であったはずです。
「数学的理論が唯一の言語表現の基軸」という表現のもつ意味は、今の我々が想像する以上の力があったのではないかと思います。以下の赤文字はぼくが強調として使いました。
現実社会では、普遍的な王侯貴族文化、思想的には普遍的な数学の論理、これらが、クラシック音楽に、 民族性や地方性を包含して一体化する理念界と現実界のインフラス トラクチャーを形成し、その上にのって、クラシック音楽はロココの時代まで( モーツアルト)、 広範なプラットフォームを形成することになったのではないかと考 えます。ロマン派,後期ロマン派をへて、音楽表現は、 普遍的な形式から離脱し、 クラシック音楽の普遍的な地位は失われていきます。 シェーンベルクの調性(Tonalität)の破棄以降、 伝統的な様式で音楽を書く事がなくなってしまいましました。 同時代のマーラーは最後の例外かも知れません( クラシック音楽の普遍性のある作品が出なくなった)。
オペラの場合は、ヴェルディもワグナーも、やはり王侯貴族と新興産業ブルジョワジーを支持層としたグランド オペラの系列に入るのですが、彼らの時代の後、 明確な支持階層が消えてなくなってしまったわけです。 最近のオペラの演出を見ていると、 方向性の見えない自己破壊の様相が見えてきます。 オペラの上演の中心が、 指揮者から演出家の方にに移ってしまった事も一種の「症状」 としか思われません。
なお、小生の印象では、ドイツではドイツ製のバイオリンの価値をトップクラスであるとは 評価していないようです。 そういう意見を聞いた事はありませんし、 バイオリンを手にする人達も、やはりグァルネリ、アマティ、 ストラディヴァリなど、 イタリアのバイオリンを憧れの眼で見ていますし、 新作のドイツ製バイオリンに塗料を塗って古めかしく、 古いイタリア製に見えるようにするあたり、 如実に其れが出ているのではないでしょうか。 あまり中国の悪口を言えそうにもありませんね。
バイオリン職人の茅根さんが語っていた、「ドイツではイタリアの古いバイオリンを評価する」という部分に対応する文章です。現在、上の赤文字で記した部分を維持するためには、イタリアのバイオリンがもつ権威とその価値体系を維持する必要があるのではないか、というのがぼくが茅根さんの話を聞きながら妄想たくましくしたところです。
ナイフとヤスリの話で思い出しましたが、ドイツの音楽大学のマスタークラスに入ったN響のコントラバス奏 者が、ドイツの教授は、弾けているか否かに関わらず、 フランス式の弦の持ち方(バイオリンの場合のような) を絶対に許してくれない、 メロディーが引き難いと悲鳴を上げてましたが、 其れと似た事なのではないでしょうか?お国風を頑固に守り、 其れに一癖ある理屈を付けるのは(ドイツでは特に?) よくある事です。
結論的に言えば、簡単にコモディティ化されないような、息の長いプラットフォームを、新しいデザインのスタイルや、 工業製品のために形成するにも、 普遍的な理念や普遍的な社会構造に類した、 インフラストラクチャーを見出さなければならないと思います。「 蛸壺」から出て発想することでしょう。 普遍的な原理構築の重要性は、日本人には、 まだ良く理解されてはいないように感じます。 理念的な原理が現実を造り、また変えると言う事の重要性! 以上、全くド素人の、きわめて乱暴な思いつきでした。 個人的なメッセージとして読んでください。
「理念的な原理が現実を造り、また変えるということの重要性」は、声を大にしたいところです。ここから全てがスタートします。
全くド素人の…と書いていらっしゃるけど、対人援助の技術の海外物の利用について同じような(多分(^^;)感触がここ最近しておりまして。
返信削除技法的なこと、その結果の産物の例えば絵とか書式にのっかった記録のことが話題になっている時、根っことなっている理念、原理、原則がすっぽり抜けていることに気づいていない…ような(・_・?)
それでいて我が国の対人援助の分野は輸入過多で、アウトプットを世界が目にするところに出さないものだから国内の実践だけが誰の目も届かないところで残りの世界と解離していくのが怖いの。
安西さんの感じているところ、こんな感じ?
世界にアウトプットしていても、乖離に気づかない人たちも多いですから、国外アウトプット云々の影響がどれほどにあるのか・・・・という印象をもちますが、理念や原理が抜けていることは、それが通じてなくて問題にならないと、分からないだろうと思いますね。
返信削除まあ、とにかく、ぼくが感じているのは、こんな感じです(笑)。
お返事ありがとう。世界にアウトプットしていても乖離に気づかない人もいるんだと聞いてが~ん!
返信削除どこに…、どっちに顔向けているんだ?
上智で私が教わった恩師の先生が、乖離症状呈していた学者に「君は神か?」と言ったって聞いたことがあります。
社会福祉学科にいらした松本栄二先生です。松本先生は、精神力動的な人間理解のトレーニングを受けていらっしゃった背景がおありです。私はシステム論から社会構築主義と時代が異なるのですが、卒後スーパービジョンを受けていたある時、「僕のアセスメントと段々似てきたね~」と松本先生に言って頂いたことが大変嬉しく、また不思議に思ったものでした。理論的オリエンテーションを越えて、何が役に立つのか、utilizationという観点に立ってみれば、今となれば不思議でもないのかもしれません。
いつもちょっと酩酊状態で書いちゃうの。ゴメT_T
そもそも、どっちに顔がついているのかよく分かりません(苦笑)。どうぞ酩酊状態で結構です。
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