ぼくは最近の日本の教育を知りませんが、仮に以下で八幡さんが書いているドイツ的教育が日本で行われているとしても、それはずいぶんと内容の違うものであろうと思います。
廣瀬さんの言われるところは、もう小学校教育のころから、日本と、多分ヨーロッパ一般とで、ものの見方・ 考え方が違ってこざるを得ないような仕組みになってしまっている ことから、よく理解できます。 日本では、国語の時間に、絵画作品を生徒に見せて、「眼で見たものを、 それを見ていない人が想像できるように言葉で表現しなさい」 などという教育は行われていませんが、ドイツの場合、 視覚の印象を言語で表現する訓練がどの学年でも行われてましたね 。 中学上級くらいの学年では、ピカソの、何を描いているのか一目では判らないような作品を、 言葉で再現しなさいなんて、要求されてました。 これはギュムなジウム(リセ)での話です。しかし、 小学校一年生でも、 具象的な絵に表されている事象を言葉で表現させたり、 あるいは何枚かのスライドを見せて、そこから、 ストーリーを考えさせるという事をドイツ語(日本で言えば国語) の時間にやってました。
逆に、高校レベルの美術の時間には、ハンス・ゼードルマイアーの、たしか、「芸術の美と真実」という、美学・ 芸術哲学の範疇に入るテキストを教材にして、 美術担当の教師が授業を行っていました。 つまり、造型作品を見て、「いいですね」、「キレイですね」というだけでは、 自分は何も把握できていない事を表明すると言う、実は無意味な( ナンセンス)な事を口にしているのだということを、 教えられていないのではないでしょうか? 作品から何かをつかめたら、 それは当然言葉になるはずだとヨーロッパ人は確信してますが。
そうなんですね。ここの段階で言葉を発する動機と量の違いが出てきます。だから言葉で発しないのは、何も考えていない証拠であると受け止められてしまうわけです。
教師の教育、あるいは教養にそういう事が要求されていない。さらには、国語・国文、美術・音楽などの、 所詮は教育行政上の区別でしかない区分が、 文化現象そのものを確然と区別し隔離する壁みたいになってしまっ ていると言う、 それが社会常識にもなってしまっているという事なのかも知れませ ん。 特定の専門領域内で考えたり、活動したり、議論したりせずに、超域的な言動をすると変わり者、はみだし者扱いされるという事も、上記のような、事情と関わっているのようです。
以前、「さまざまなデザイン」でも黒沢明のハリウッドの体験をどうして文化論として生かさないのか、『日本語が亡びるとき』の小説論をどうして文化の見方に援用しないのかということを書きました。これが一人で全体を語ることを阻んでいる土壌であるといえるでしょう。
「コンセプト」という表現を使えば、日本では、多くの高い教育のある人々も、まさに、造形作品などの「 コンセプト」 を意識的にとらえる訓練を受けていないまま育ってきているのだと 思います。 もっと言えば、ヨーロッパでは、17世紀以来の理性主義的な思考と判断の伝統が、 今に至るまで生きていますが、日本では、徳川時代の、 十分に理性主義的に成熟していた儒学(荻生徂徠,新井白石など. ...)の、論理的で分析的な哲学の伝統を、 明治時代に学校教育から捨て去ってしまった事が、 大きな精神史的な欠損として残ってしまっているという事です。
自然科学の場合には、数学という論旨的思考の道具がありますので事情は違うようですが 、もっと具体的な事象を相手にするエンジニアリングなどでは、 この欠損を埋める事に完全に成功してはいないように見受けられま す。 ましてや社会科学などと言われている分野では言うに及びません. .........
よって、現実的方策として何をすれば良いのかがおのずと見えてきます。昨日も日本の某経済誌サイトを読んでいたら、有名な経済学者が、日本はものづくりが得意だからこれを生かせばよいというが、今の大メーカーのような包括的な形ではなく、アップルのようにコンセプトを核に水平展開にするべきだと説いていました。ぼくは、それもそうだが、2-3年でビジネスの形態を変えれば良いという話ではなく、こういう根本のところに、それが容易にできない理由を彼は読んでいるのだろうか・・・と思案するのでした。
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