2009年5月1日金曜日

ミラノサローネ2009あるいは情緒のこと






鈴木光司の『情緒から論理』(ソフトバンク新書)という本が出たようです。まだ読んでいません。ひとつアマゾンのレビューを読んでいて気づきました。

まずこの著者は、日本人は古来から情緒的な民族であり、『国家の品格』の藤原正彦が語る「情緒へ」というのは、非常に合理的な西洋人に対してこそ効果のあるアピールだということを語っています。

現代は情緒の時代であることは、日常生活でも感じることはあります。同時に、近代以降に登場する合理性や論理などといった価値観に疑いの目が向けられてい るという風潮もあると考えられます。そのような意味で、私たちは「情緒」の時代にいると思います。日本においては、大局的にみると明治維新から高度成長ま では日本の近代化の時代であり、それらを性急に推進するためには徹底した合理性と、論理的思考が必要であったと考えられます。また、その間に共産革命や大 戦を経験しています。


上記はレビューの一つですが、現代は「近代以降の合理主義に疑念をもった情緒の時代」と書いています。維新からの合理性の時代が終焉し、情緒の時代に移行したということです。つまり、維新以前の伝統に戻っていると言いたいようです。現代を情緒の時代というかどうかはさておいて、さて、情緒性とは果たして日本の伝統なのでしょうか?少なくても、合理性との相対的な位置において、日本では情緒性が何よりも優先されてきたのでしょうか?ぼくは、ここを突っついてみないと、話は行き詰まりばかりではないかと思います。

「さまざまなデザイン」でミラノサローネにみるデザイン及び文化トレンドを観察した感想文を書いていますが、上記で引用したような意見「日本の伝統は情緒である」という考え方は根強く、それがゆえに、前回のエントリーでも書いたように、レクサス L-finess に見るように「行き止まりのコンセプト」を作ることになっています

そして、以下でも書いたように、「日本らしさの表現」がコアであるような見方をする限り、開発者もそれに引っ張られます。IKEAのコンセプトにおいて、スウェーデンらしさは「のせるもの」であることに気づくことが大切だと思います。

http://milano.metrocs.jp/archives/1582

6月初めに都内で実施するセミナーでは、八幡さんに、日本の歴史において合理性は異端ではなかったことをお話しいただこうと思っています。この捩れを解いていかないと、「高品質・高機能の日本製品」以降のビジネスは、素材メーカー以外は、冴えない結果を導くばかりです。

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