2009年5月18日月曜日

日本人の感性は世界に通用する(?)

この前のエントリー「任天堂のローカライズ」において、岩田社長の「日本人の感性は世界に十分通用することを証明したのではないでしょうか。」 という言葉に疑問符をつけましたが、この部分について八幡さんよりコメントをいただきました。

此れは、「ガラパゴスの罠」の入り口のような感じがします。「感性」は、そもそもが、理性とは独立に存在したり、機能したりはしないはずです。もし、感性だけが機能して、理性を完全に欠いている人間がいたとしたら、そりゃ、モンスターでしょう。

日本的な創造性の特徴が、西欧的なものと異なっているのはごく自然ですが、それを、理性的なものを抜きにしてでき上がったと考えることが、アブナイのではないではないでしょうか。

日本的感性の象徴とされる枕草子にしても、源氏物語にしても、それぞれに、きわめて優れた理性的な構成、批評精神、物事の本質を的確に把握し、それを、見事に言語的に〈普遍的に〉表現する能力が横溢してます。そのように、小生の友人の社会学者も見ていました。このような理性的な精神が、11世紀の日本にすでに存在していたことは、西欧の歴史から見て驚くべきことだと。

いわゆる、感性だけでは、単なる私的な日記記事も、書けない筈ですから。日本的な特徴を、「感性」によるものだと捉えたがる心性こそが、理性的/論理的なものから逃避したい心理のあらあれであり、そのような、穴蔵希求的な精神傾向が、ガラパゴス化現象の原因だろうと見ているのですが。

少し前までの日本には、「真剣勝負」に直面する状況があったわけですが、これは動物的な本能的な反応もさることながら、理性的な読み・判断も決定的な意味を持っていました。今の経済社会では、リスクテーキングがそれに当たるようですが、情緒や感性だけではリスクをとる決断へ出来ませんね。

リスクをとらないことと、ガラパゴス化には、このような、水面下の共通点があると思うのです。日本的な感性が日本の個性だと言うような言説もありますが、個性が個性として成立する為には、普遍的な基盤を踏まえ、その上に立って、しかも尖っていることではないでしょうか。普遍的なものを無視し、あるいはそれから離れて個性を主張しても、それは、所詮、真剣勝負を避けているハグレオオカミの遠吠えでしかないでしょう。

すべて、言葉である限りの言葉は、すべて論理的であるはずです。さもなければコミュニケーションの役には立ちませんから、言葉ではありえない筈です。「感性」偏重は、ガラパゴス化の陥穽であると考える所以です。

任天堂は、自分のところのソフトやハードが海外で受けたことの裏にある論理を把握していないのか?そう言う論理が介在したことが成功の理由だとは認識していないのか?

任天堂もアブナイですかね?

任天堂は娯楽分野であるがゆえに、他分野ほどに異文化をあえて考える必要がなかったのであり、DSやWiiが海外市場でも大成功を収めたことをもって、任天堂がユニバーサルなロジックとは何かを掴んでいるとは言い切れないようです。もちろん成功してナンボというのがビジネスですから、この成功はこれで称賛してしかるべきにせよ、岩田社長の言説をもって、「日本人の感性でバンバンやっていいんだ!」と思い込んでしまうと、大きなミスをおかすことになります。

2 件のコメント:

  1. 八幡さんが述べられた感性への偏重の問題点のお話は納得のいくものです。ただ、任天堂の社長さんが、「日本人の感性は世界に十分通用することを証明したのではないでしょうか。」という発言から、感性への偏重の問題点には結びつかないと思います。
    八幡さんが「任天堂は感性へ偏重している。」と結論を出されたわけではありませんが、私は最後の4行を読んでいて違和感を感じました。

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  2. コメントありがとうございます。

    おっしゃるように、八幡さんも最後を疑問符で終えています。何か偏重と考えることがあれば、なるべく反対に針を振るようにしておく、という意味で理解いただければと思います。

    一般的に言って、「日本人の感性」という考え方は、あまりに条件反射に過ぎるとぼくは思っています。

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