2010年1月8日金曜日

ヨーロッパである理由

2010年初めての投稿なので、年末から年始にかけて思ったことを書こう。

今後アジアが経済の中心になると言われはじめて、それなりの時間を経た。中国、インド、あるいはインドネシアあたりの力強さが言及される。日本企業で海外進出に力を入れるとは、アジア圏を指すことが多い。もちろん、最近のシャープなど、一度は撤退した携帯電話機器メーカーが再度米国や欧州に再挑戦するニュースもある。が、ユニクロの「民族大移動」-数百人単位で海外駐在を経験させるーの記事をみても、中国やロシアが主力市場であることを物語っている。分野によるが、大方、アジア詣で流行であることは間違いない。そこでヨーロッパについて語るのは、何となしに劣勢について語るムードを感じる。

しかし、それはそれ。

ぼくがヨーロッパをテーマにするのは、いってみれば地域そのものについて言っているのではない。スコットランドの自然やドイツの古いお城を愛でているのではない。中国やインドで固定電話をパスして携帯電話が普及している現状があり、あるいは、これらの地域で内燃機関のクルマをあまり経験せずEV市場が急伸する可能性があるが、そういう現実から生じる新しい価値観を否定しない。歴史はすべからく同一には流れない。

が、ぼくは個人的に、アーカイブ社会とも呼ぶべきヨーロッパから生まれる新しい価値に面白さを感じている。封建時代があり、啓蒙時代があり、多くの悲惨な戦争を経て、今、ヨーロッパ圏内でー少なくても西ヨーロッパ世界においてー国家同士の戦争が生じる可能性は極めて低くなっている。あれだけ戦ってきたフランスとドイツが今はEUの牽引車となり、世論調査を行っても両者、お互いを高く信頼している。国家のうえに新しい権威を築いた意味は大きい。こういった新しいカタチで紛争回避の道を探ってきた社会は、同時に新しい強靭な価値を生むはずであると考えておかしくない。

その意味で、巷で聞くヨーロッパ没落論は、ぼくの関心とは別のところにある。多くのヨーロッパ論ー特に日本におけるーは「傍観する」ためのものであり、「生きる」ためではないとぼくには思える。年末、総合研究大学院大学の『人工物発達研究』に掲載する原稿「ヨーロッパ文化のロジックを探る」を書きながら、この「生きるため」ということを意識した。そうは書かなかったが、意識はそこに強くあった。世の中に通用するロジックは無数にある。そのロジックをどれだけ知り、それらをどう繋げるコツを知っているか?は、まさに「生きるため」である。

「さまざまなデザイン」に、今週二つのエントリーを書いた。「海外で働くことをオプションとして考える」「あの人はぼくと違うと思うこと」を指している。ぼくがヨーロッパを必要に思い、1990年イタリアに来たとき、このように世界にフラット感が漂うとは想像していなかった。そのフラット感については、後者のエントリーでテーマとしている。確かに多くの垣根は実際に消滅したようにみえるが、崩壊していないもの、あるいはより高くなったものも多い。この新しい「フラット感」ーフラットではなく、あくまでも「感」が蔓延しているーをどう見極めるが、今、非常に重要だと思う。それは個人ベースだけでなく、ヨーロッパを考えるに際しても、同様だ。

この問題について、引き続き書いていく。

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