2009年1月29日木曜日

ダブル・トリプルスタンダードの世界が語るもの




もう一つのブログ「さまざまなデザイン」で西洋紋章画家の山下一根さんを紹介したことがあります。ケンブリッジ大学紋章系図学会総裁やスペイン・ブルボン王家付高位聖職者も勤めた、前駐イギリス教皇庁大使のブルーノ・ハイム大司教 (l’arcivescovo Monsignor Bruno B. Heim)の弟子でした。ハイム氏は歴代のローマ教皇やハプスブルグ家・ブルボン家などの紋章を手がけてきた大司教です。下記URLが山下さんを紹介した文章です。

http://milano.metrocs.jp/archives/date/2008/08/page/4

今日、その彼から「ヨーロッパ論の一つとして」と題したメールを受け取りました。上の写真はローリングストーンズやブレア首相のアドバイザーを勤めたLoewenstein公と山下さんです。勲章は、これから文化を担ってくれそうな若い人に与えるものだ、というのは欧州文化を理解するうえで重要なコンセプトだと思います。

<ここから引用>

ヨーロッパ社会ではネガティブな意味でなくてポジティブな意味で、ブルジョワ階級とノブルス(聖界・俗界貴族)階級が謳われます。くだんなく言えば、金持ちは地位がほしい、貴族は金がほしい、 それがうまく結びついています。実際、小生の欧州時代も、勲章がほしい有産階級の人にそれなりの爵位や勲章を仲介して、謝礼やスポンサードを得ることはかなりありました。

それはヨーロッパ人が紋章の標語でも最も好むラテン語の格言、ATTENTIO MAGNA ET VIRTUS AUDAX = 細心の注意力と大胆な行動力裏付けられた一見ダブルスタンダードのようなことですが、実は日本人が忘れてしまった上手な、上品な協調性がもたらした結果なのかもしれません。

ハイム大司教は32個の勲章を持っていましたが(ちなみにま小生はまだ4個ですが、、、)それは、前にも話したように、外国では王様は勲章は年寄りにではなく文化をになってくれ「そう」な若人に与える風習からきているのかもしれません。

例えば、小生の大親友の、Prince Rupert zu Loewensteinというババリアの最後の国王の孫で、イギリスで、BANKERをしていて、30年以上ローリングストーンズのファイナンシャルアドバイザーをしていたかれは、その貴族の人脈を生かして、有産階級には地位と冨を、そして、自分はその対価としてそれなりの金をもらい、文化を擁護するというスタンスが出来上がっていました。以下リンクは彼のミックジャガーとの記事です

http://www.citywire.co.uk/professional/-/news/wealth-management/content.aspx?ID=326765&ViewFull=True


http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-459659/Mick-Jaggers-secret-divorce.html


このように、古くからの伝統を形を変えても資本主義の中に取り入れて生き残ってきましたが、それに対する教会の役割は、何の因果が、衰えてきました。それはそのような社会で、まず第1に、いわゆる、流れにのることも必要なときにもう一つの流れを作ろうとしてしまったこと。第2に、実はこれは僕の師匠のハイム大司教が、あらゆるデザインはもちろん工業デザインだが、前提としてコミュニーケーション・デザインでなければならないといったように、すなわち、今時代は何を必要としているかということの計算の前に、権力闘争や、またお金が出て行く一方で、あらゆるこのコネクションをつかって、このコミュニケーションを増やすことが大事です。

例えば、ローマ市内の不動産の3分の1はVの字(VATICANO)、イタリア・コカコーラ、イタリアのシェルのBOARDING STAFFには多くの貴族、サケッチ公爵やボルゲーゼ公爵をバチカンは送り込んでいるし、FIAT会長のコルデオ・ランツァ・ディ・モンテゼメロCordeo laza di montezemelloの兄は枢機卿です。

つまりダブル・トリプルスタンダードにローマ以外の教会が慣れていなかったことがあるかもしれません。
私は、西欧での10年間で、徹底的に、神学よりもじっさいには外交論・学を学んだのですが、(もともと僕の修道会、マルタ騎士団の司祭はロビイストとして、その権力とともに活動することが多いので)、つねに、とりあえず、ものを語るときには1,2,3と3つの論が即座にいえるようにというトレーニングはよくされたものです。これは、フランスの小学校の国語の授業でもそのようになっています。

<ここまで>

このなかで世の中の流れにのえなかった教皇庁のことに触れていますが、それについて、山下さんは以下のような見方をしています。

<ここから>

世の中の流れに乗れなかった大きな原因は、愚衆政治的にはカリスマと愛されたヨハネ=パウロ2世といわれています。かれは大衆の求めていることにさまざまな波を起こした代わりに(ポーランドの共産党打破にバチカン銀行 IORから多額の資金を流したこと)、教会そのもの求心力を失ってしまいました。今のベネディクト16世はそれをなんとか元の原点に返ろうと努力していますが、前教皇のまいた種が育ち「すぎた」ことに苦労しているようです。

<ここまで>

ダブルスタンダードやトリプルスタンダードと呼べばよいのか、それともスタンダードにある幅をどう寛容の心をもって広げておくか、こういう問題を指摘していると考えます。スタンダードとは何なのか、その定義自身が今の世の中で見直されるべき時なのでしょう。

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