2009年1月30日金曜日

ヨーロッパにおけるカトリックとは何か




ぼくはどこの宗教にも属していないのですが、山下さんの語るヨーロッパにおけるカトリックとは何かを読んでいて、やはりひとつの文化体系そのものだなあという印象を持ちます。それもイタリア文化と相似です。イタリア人が良く言うシンパティコ(人に対して感じが良い)ということが如何に重要か、山下さんは別の面から語っているように思えます。以下、昨日に引き続き、山下さんの文章です。

<ここから>

本来、2000年も歴史的にはいいことも悪いことも、この世のすべてにおいてきわみを歩んできたカトリックが今なお現在も存続しているということは、決して、その権威や権力からではありません。それはこのカトリックという枠組み(組織だけでなく、その考えにおいても)この世を渡るための大きな「知恵」(知識ではない)の最高の結晶というところにあります。

人が壁にぶつかったときに、どのように耐えるか、、例えばローマの父親代わりの多くの枢機卿は、僕の日本への出発前に口を大にしてこのように「あえて」いいました。

『ぶち当たったら希望を持つな、現実をみてカトリシズムに基づいて歩め!』。これは、一見聖書の言葉とあい矛盾するように見えます。しかし、人間は現実と向き合って、どんな困難にあってもそれを一度受け入れ『なにくそ~』という力を育てたいということからなのです。

この点から、例えば日本のカトリックは、知恵からすこし離れて、知識でものを判断していこうとする傾向があります。そうなると、その組織はドイツ語で言うところの『ゲットー』のようにどんどん視野が狭くなり、困難がさらに困難になり、行き着くところは、『自分たちはがんばっているのにうまくいかないのは、社会が悪いからだ』という考えになります。しかし、なぜこの点がまちがえかというと、もちろん社会が悪いとしても、例えばその施政側が悪いとしても、もし本来のカトリシズム、キリスト教ヒューマニズム、そして法学的に言えば、自然法論でいえば、かれらも権利のある、あえてキリスト教的に言えば神の子なのです。なので一番大切なのはやはり『対話(コミュニケーション)』がたりないということなのです。

小生の紋章のモットーは、SIMPLICITER ET CONFIDENTER (単純に、信頼を持って!)です。
これは小生がマルタ騎士修道会に入ったときに、上長が選びました。この言葉は、キリスト教の言葉ではなくローマ帝国の時代によく言われた言葉だそうです。信頼関係→対話→単純に→スマートな生き方
ということです。

本来のカトリック主義、そこから拡大した汎ヨーロッパ主義のエッセンスを見直してきたときに、この対話は大切なことです。それも、万人に刺激を与えず、対話をすることが肝心なのです。それを社会に迎合するという人もいますが、それは間違えです。なぜなら、まず、最初の一歩は、簡潔に言えば、相手にモノを頼むときにはまず相手に合わせ、『もぐりこみ』、(小生の日本に派遣されたときのスタンスもこれです)、徐々に自分の意見を言っていくということです。

これは、トレーニングが必要となりますが、なぜ大切かというと、たとえ相手が間違えているとしても、その相手と向き合う場がなければ先に進みません。その点で、カトリック社会では、特にアジア、南米が確実にその貧困問題や左傾化からローマとのヨーロッパとのBONDが立たれようとしています。そして、教皇庁は、その汚染がローマに及ぶことを必至に食い止めようと躍起なようです。ヨーロッパでは信者の数は減る一方ですが、意外と余裕なようです。なぜなら、自分たちは自分たちの資金を増やすことをしっかりダブルスタンダードで考えているからです。

<ここまで>、


昨日の「ダブルスタンダードの世界が語るもの」について、八幡さんよりコメントを頂きました。以下です。ぼくは昨日の文章を書いてから、ダブルスタンダードという表現は他を批判するための言葉ではないかと考えはじめました。自らを統一的に一律にとらえることは、八幡さんのおっしゃるように、個人であれ社会であれほぼ不可能であると考えるのが現実的でしょう。

<ここから引用>

ここでテーマになっている、ダブルスタンダード、トリプルスタンダードと言うのは、どこかに書いてある原則にしたがって出来ている制度ではなくて、どこにもそんなことは書いてないが、実際はそう成っているという事態ですね。

これはむしろ、社会の現実としてどの国にも、どの文化圏にも、そしてどのサブカルチャーにもあることではないのでしょうか。

法律が社会を作っているのではなくて、ある社会、ある文化圏において、多くの人々が昔からやっていて、そうすることが当たり前だと思っていることを文言にしたものが、法律である(モンテスキュウ)と言うことを考えれば、マルティスタンダードは、そこら中にあるし、それを撲滅しようとすることは無意味であると思われます。

現実社会を観察し、認識することが第一であると思います。先ず、広い世界を見ても、貴族の制度、とそのタイトルを廃止してしまった国は、日本とオーストリアなどが近代では思い当たりますが、オーストリアでは、旧貴族が実質的な主導権を握っている公共性のある組織(旧貴族の覆面クラブになっている)もあり、政府が、優れた業績を上げた人に、帝政時代の称号をそのまま或いはきわめてそれに近い形で授与し、ある種の共和制下の新貴族見たいな物を作っている例もあります。

第一、土地(所有制度)改革を徹底的にやった(やらされた?)国は、日本、それと、台湾くらいしか思いつきませんが、ヨーロッパでは、この二百年くらい、その例はないはずです。そう言う背景があれば、事実上、金持ちや貴族達だけが集まるような社会的な『場』も当然発生しますし、それなりの『習慣』もうまれます。

日本では、公務員のアマクダリや、ワタリが問題になっていますが、あれも、法律でそう定まっているのではなく、法律の穴を利用して行われている習慣ですので、日本的なマルティスタンダードの一例ではないでしょうか? それを廃止させることは、勿論日本人の権利ではありますが。

こういう事実は、よくよく認識し把握しないと、実務上、大きな失敗をすることになるのではないでしょうか? 理論と現実は、特に社会的な次元では、けっして一致しないのがごく自然なことであるとおもいます。

<ここまで>

明日は、山下さんの師匠であるハイム大司教の山下さんあて遺言の一部をご紹介します。

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