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今、社会トレンドと時間感覚ということについて、考えています。現代という時代の捉え方について書いているうちに、一つ、ぼくが本で書いた文章を思い起こしました。
言葉ができなくても心で通じ合えるから、言葉は外国人同士のコミュニケーションにおいて第一義にはならないという意見をよく聞きます。実にコメントしづらい内容です。正面から正確に話そうとすれば白けるし、笑顔で「そうですね」と頷くのも後ろめたさが残ります。
なぜなら、心で通じ合えたかどうかを身振りや目だけで判断しきれるかという問い返しが可能です。一方で、言葉でどれだけのことが語れるのか、言葉はコミュニケーションの一部でしかないではないかという問いかけもありです。
しかし、人が100%コミュニケーションするというのは、しょせん非現実的なことなので、言葉と言葉以外の両方の手段を使って100%を目指すという態度が重要になります。100%分かりあえたとある時思えても、後になって半分しか分かっていなかったというのが現実なのです。
ぼくが色々な経験を積み重ねてきて思うことは、結局のところ、コミュニケーションは静的なものではなく、動的なものであることを常に頭のなかに叩き込んでおくことが大切だということです。そして必要なのは、これを悲観的にばかりとるのではなく、その逆に楽観的であるための根拠とすることではないかとも思うのです。逆転の可能性が常に潜んでいるのです。
このコミュニケーションの楽観性に関し、欧州人は高い評点を与えているとぼくは考えるのですが、これが本章で繰り返し述べているコンセプトの大枠に柔軟性を提供する根拠ともなっていると思います。
この文章について、昨年5月の中旬、原稿の段階で、八幡康貞さんより以下のようなコメントを頂きました。
これは大問題ですね.実は、日本人の多くが、コミュニケーションについて、冷静な考え方が出来ないでいる状況があるように思えます。一方では、自分以外の誰かと、「完全にわかり合えるはずだ」、あるいは「完全にわかり合えた」と思いたい願望があり、それが達成されないと『裏切られた』と思ってしまう。
しかし、第一.自分自身の事を完全にわかっている人はいるのでしょうか?誰でしたか、ある哲学者が、『どこへ行っても、必ずあの自我 (Ego)という奴がついてくる』といってましたが、しょせん、友人は、『私』が、毎朝鏡の中で出会う『私』を認識して、声をかけてくるよりも、後ろ姿や、歩き方など、自分自身には見えない姿をみ覚えていて声をかけてくるのですから、私が自分自身のすべてを見ているわけでもないし、フロイドの例を引くまでもなく、自分の内部には、自分では思いもしないような情念や、衝動が隠れているわけです。
ぼくは、このあたりの視点がヨーロッパ文化のトレンド把握にあたり、かなりヒントになるのではないかと考えています。友人がみる『私』の姿を、どこまで『私』自身で見切れているか(あるいは見切ることを諦めているか)という問題と密接にかかわっているのではないか・・・と。
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