2009年2月5日木曜日

「今の資本主義はもう、やめてくれ」をめぐって




日経BPオンラインで昨日、今日とアクセスランキング1位となっているインタビュー記事があります。安田喜憲・国際日本文化研究センター教授が話しています。題名が「今の資本主義はもう、やめてくれ」と、昨今の話題を上手く衝いています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/

そして、その60以上の投稿コメントを読むと、今、皆さんが(良い意味でも悪い意味でも)「何を聞きたがっているのか?何をどう言って欲しいのか」ということが、おぼろげながらに見えてきます。

http://business.nikkeibp.co.jp/fb/putfeedback.jsp?_PARTS_ID=FB01&VIEW=Y&REF=/article/manage/20090203/184786/

これは下記で書いたヨーロッパ文化部セミナー構想にとても参考になるなと思いましたら、八幡康貞さんより、この記事と投稿コメントに関する感想をいただきました。

http://european-culture-note.blogspot.com/2009/02/1.html


アブナイ人ですね。

理系の頭の人がしばしば展開する、「単純明快」でよく判ると歓迎される、それだけに大衆扇動的な論旨ですが、むしろ、コメント投稿の大多数が、こういう意見を待ち望んでいたと思われる情況の方が怖いです。

「論理はどうでもいいから、こういうことを聞きたかった」というのは、左翼・右翼の別と関係なく、問題情況を限りなく単純化してくれる思想的扇動に、無批判に乗せられてしまう心理を象徴しているようです。

「今の資本主義はもうやめてくれ」と言うタイトルは、それ自体、好き嫌いの感情論が根底にあることを示唆しているようですね。一神教が森(自然)を破壊し、多神教は自然を守るみたいな宗教論は、それ自体、彼が批判する一神教的な性格の論旨であり、疑似一神教になってしまう結果に気がついていないようです。

ちなみに、かの有名なる中谷 巌氏の「なぜ資本主義は自壊したのか?」(集英社)と言う本も、話題になっているようですが、帯封には「構造改革の急先鋒であった著者が記す'懺悔の書'」とあり、第一章のタイトルは、「なぜ私は'転向'したのか」とあります。第五章は、「一神教思想は、なぜ自然を破壊するのか」とあります。

安田氏と同じように、論理がここまで単純であっていいのか、と思わせられる内容です。中谷氏の場合は、1960年代のアメリカに魅惑され、新自由主義の経済学に没入したのに、ウォール街発の経済危機およびその予兆によってその空中楼閣が崩壊したことでめざめ、「転向」したらしいのですが、彼が信じていた経済学は、「人間とその社会」をはじめから視野の外に置くことを宣言していた(理論の整合性を確保する為に!)訳ですから、現実に適合しない「ほとんど数学的な純粋理論」であることは明らかだった筈なのですが、その事実に、あとで気がついたようです。............

中谷氏が、指導的な地位でコミットしていた日本の経済政策が失敗であったとしたら、それを、一神教のせいにするのはどう'かと思いますね。資本主義も市場経済もダメだと言いたいらしいのですが、市場経済以前の日本の経済とは何だったんでしょう?

安田氏の場合も、中谷氏の場合も、日本古代史の世界や、縄文・弥生の時代を美化し、単純化し、そこへ帰りたい願望がちらほらしますが、どうして、一本道を行ったりもどたりする歴史観になってしまうのか、それこそが聖書の救済史観そのものを自明のこととして受け入れている証ではないのでしょうか?

歴史の展開を、進歩・後退としてではなく、多数のファクターの組み合わせの変化としてとらえれば、重心点の移動と、バランスの回復というコンテクストで、もう少し、宗教的・形而上学的なイデオロギーを抜きにして考えたり、議論したりすることが出来るであろうと思います。

計画されているセミナーでも、単純化された疑似歴史神学的な方向に、議論が進まないようにすることが肝要であると、安田、中谷両氏をはじめ、現今多数の同様の議論を見て感じています。

安田氏の長いインタビューに対する、コメントを見ますと、日経BP-Online の読者層ですらこれですから、合理性にこだわったり、批判的な議論をすることが何となく避けられてきた日本社会の危なさがよく見て取れます。

幾人かの人のコメントは、バランスがとれた批判的な内容であったことにはホッとしましたが、あまりにもその数が少ないのには驚きました。

ではまた!

0 件のコメント:

コメントを投稿