2009年2月18日水曜日

国づくりとジプシーの人生





拙著にのせるジプシーについて書いたぼくの原稿を読み、八幡康貞さんが書き送ってくださったメールを発見しました。国や国民の成立に関する理解のために掲載しておきます。


前回のジプシーに関する件で書きおとしていたこと がありました。それは、フランス革命で行われた、革命運動の大衆 (people) をフランス国家の主権者である国民 (nation) であると定義したことによって、単なるフ ランス王国に住んでいる人々、あるいはフランス語 を話す人々という意味での french people から、la nation française が出現した経緯で、昔は単なる出生地方を 示したnatio と言う単語が、政治的主権を所有する・ 国家を所有する国民という、昔であれば、ローマ帝 国市民populus romanus のような、表の「市民」と言う 意味を獲得し、かつてのpopulus は、ヨーロッパ各国で、大衆、庶民、などと言ういわば社会的に低級な 人々の階層を意味する言葉になって、言葉の入れ変えが行われたと言うことです。ドイツでも、 Nationaltheater といえば、グランドオペラを上演する 劇場ですが、Volksoper といえば、オペレッタ劇場のことです。

フランスには、絶体王権が確立していて、国土の境界線は一義的でしたから、「フランス領内の住民の
すべてがnationを構成する」と言うことを定めたことで、殆ど一夜にして「フランス国民」とその国民国家が成立したのですが、フランス革命の思想の影響を受けたドイツでは、「ドイツ国」の国境線と「ドイツ国民」とは誰であるかと言うことが決められなかった。それは、バスティーユが陥落した「1789 年には、ドイツ語を話すドイツ人とよばれる人々が 住んでいた地方には、この年号と同じ、大小、1789個の独立主権国家が成立していたからだ」 〔ゴーロ・マン「近代ドイツ史」)と言う事情があったからです。

それで、ドイツでは、新しい「国家」をつくる前に、まず.民族の統一を図り、その上で国家的な統 一を果たすと言う道をとりました。フランスが、既存の「国土」を物差しにして「国民」を定義できたのに対し、ドイツでは、民族の魂である文化、特に言葉を物差しにして、ドイツ民族 なる者を形成する運動が起こりました。この考え方が、ドイツの東方に伝わったことによって、様々な民族が混住していた東ヨーロッパでは、言語・宗教などを核にした「民族運動」がおこり、バルカンの紛争も、その根は、ドイツ型の国民と国民国家形成モデルにあったのだと、いえます。その動きから外れてしまったのが、東欧の場合、特にジプシーだったのだと言えるでしょうし、ユダヤ人に対する排斥運動がひどかったことも、そこから来ていると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿