水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)について、ブログ「さまざまなデザイン」で二回にわたって書きました。本のなかで日本語という言葉の運命が切々と語られています。ネットの世界でも評価は賛否両論です。しかし、ぼくは言葉の問題はさておいて、この本で指摘されている文化差について言及しました。筆者は文学と他の「文化商品」の間に境界線を引いていますが、こと文化差を語るとき、両者を渡り歩きながら語ることができると思います。
ぼくは昨年12月初めに評論家の加藤周一氏が逝去したとき、以下のようなメモを書きました。
5日に評論家の加藤周一が89歳で逝去。この週末、日記検索やブログ検索で200近いコラムを読んでみた。年齢層はさまざま。たぶん、20代から60代まで。とても良く分かったことがある、残念ながら・・・。近代合理主義あるいは近代理性というものが、日本において十分に消化されることなく、途中で吐き捨てられそうになっているということが、数多のブログを読んでいて見えてくる。ブログを書くタイプがどちらかに偏っているとか、そういうことは、あまり勘案しなくてもよいだろう。
加藤周一の著書から多くの影響を受けたと書きながら、その文章には、その影響があまりみえない。青春の思い出の書に「成り下がっている」。近代合理主義は「日本の青春だったのか?」と問いたくなるほどに。確かに、近代合理主義の大いなる思い込み違いは、既に多くの場所で露呈している。しかし、それは唾棄すべきものでもなんでもない。あくまでも重要なステップであることには変わりない。
『日本文学史序説』の最初に、江戸時代の大名屋敷を例に、日本のディテールからいく傾向(つまり、部屋を積み重ねた建て増し的な方法)と、西洋の全体デザインを考えてから部屋割りをする傾向、この二つのことが指摘されている。こういう違いが、如何に多くの政治事象、経済事象からはじまって、日常のコミュニケーションに至るまでどういうリアリティを生むのか?それを、どれほどに「近代日本」は分かってきたのだろうか・・・。
日本の製品が、どうしてあのような中途半端なデザイン表現を欧州においてするのか。それは近代合理主義的表現ではない。それによる問題点は、欧州市場におけるブランドの脆弱性を生んでいる。近代合理主義は全てではないが、今の世の中にあっても、たくさんのコトとモノの土台になっている。これが大きく変わるのは、あと最低2世代を経ないといけないだろう。ここに加藤周一が忸怩たる思いをもち、「富士山を世界一美しいというのは井の中の蛙だ」と言った、と思う。
ぼくは『日本語が亡びるとき』に関する色々な意見を読むにつけ、加藤周一に関するブログの数々が思い起こされてきました。議論がディテールの知識の問題になりがちです。これではプラットフォーム形成の旗振りをしにくいでしょう。
<以下、上記ブログ「さまざまなデザイン」のURL>
http://milano.metrocs.jp/archives/917
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